歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨夜、小学館古文書塾「てらこや」の体験講座に出講。

テーマは表題にした。
新しい受講者を集める体験講座のはずなのに、私の講座の常連さんが半数以上。これって……?

最初は過去にやった講座で、比較的好評だったものをもう一度やろうかと思っていたが、途中で常連さんが多いと知り、急遽予定変更になった次第。

「花の天保6年組」(1835年生まれ)とでもいうべき4人の書簡や建白書を取り上げた。

1,小松帯刀
2,坂本龍馬
3,土方歳三
4,松平容保


自分で選んでおいて何だが、1については、この間の懸案である小松の京都屋敷の所在地についての情報が含まれているのではないかと気づいた。
もしかしたら、堂々めぐりになりそうな予感がしてきた(苦笑)。

坂本龍馬の書簡は、暗殺される1カ月近く前に、古い友人の望月清平に宛てたもの。
龍馬の身辺に危険が迫っているのを本人も感じているのがよくわかる。
龍馬は土佐藩邸には入れず、吉井幸輔に薩摩藩邸に入るよう勧められるが、これも断った。その代わり、どこか別の安全な旅宿を探していることがわかる。
「松山下陣」がどこなのか、「松山」とは何か。
一応、伊予松山藩かとしてみたが、もちろん確定ではない。またそれらの藩邸に入るという意味でもないだろう。
講座が終わったあと、松山藩の京都屋敷があるのかどうか調べてみたら、それらしきものがあったが、よくわからない。

土方の書簡は郷里多摩の小島鹿之助に宛てたもので、芸妓にもてると自慢している有名なもの。

松平容保は第2次征長戦争を解兵した徳川慶喜に対する抗議の建白書。
容保はほんとに生真面目な人だなと感じる。

さて、4月8日(火)から、新講座が始まる。
前回の続きで、小松帯刀書簡を中心に進めていくつもり。
興味のある方は、こちらをご覧下さい。
ただし、まだ更新されていないので、連絡先や申し込み方法などの確認にご利用下さい。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
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【2008/03/26 21:30】 | てらこや
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松山の件
鏡川伊一郎
 松山下陣(原文は陳)は松山藩下陣でよろしいかと思います。
「彼御屋鋪の辺の寺松山下陣」は下陣跡の寺という意味でしょうが、西尾秋風氏や木村幸比古氏は池坊六角堂(頂法寺)とみなしていたように記憶しています。ただし松田智幸氏は土佐藩邸前の「弓トク寺」(実際は了徳寺)を松山藩下陣跡とされています。いずれにせよ、土佐藩邸付近に松山藩主の「松平隠岐守」名や「松山屋敷」とした区画のある古地図があるようですから、「松山」は「松山藩」で確定できるかと。
ご参考までに。

お礼
桐野作人
鏡川伊一郎さん、こんばんは。

ご教示有難うございました。お礼申し上げます。


崎陽・織田
いつも楽しく読ませていただいています。

龍馬のこの手紙について、以前から疑問に思っていたのですが、慶応3年10月のこの時点で、龍馬が薩摩藩邸にかくまわれるという可能性があるのものなのでしょうか。全体の内容についてもよくわからない部分が多いですね。また、筆跡も少し変わっているような気もします(一番近いのは、高松太郎宛の手紙(霊山歴史館所蔵)のものと思いますが)。この書簡についての論考があれば、ご教示ください。


鏡川伊一郎
 横から失礼いたします。
 筆跡はともかくとして、もっと問題にされてよい手紙ですね。龍馬がいつ近江屋に転居したかという点で、他の史料(証言)と矛盾するように思われますから。もっとも暗殺現場となった近江屋とポント町の近江屋と「近江屋」がふたつあるのでよけい混乱しますが。
 この手紙に関する「論考」では、菊池明氏が「彼御屋鋪」を土佐藩邸のことではないのではと、一般的な解釈と異なった見解を述べておられたのが印象に残っております。

筆跡
桐野作人
崎陽・織田さん、こんにちは。

筆跡についてはさほど疑念はないのではと思います。
筆の性質、太いか細いかだけでも、同一人物が書いても相当違った印象を受けますからね。
『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)の写真版で比較すれば、当該書簡は507頁の陸奥宗光宛て書簡(慶応3年11月7日)と類似性があるのでは。冒頭の書き出しは同一文言で、よく似ていますし、文中で共通する「屋鋪」という字もよく似ています。

むしろ、内容の問題でしょうね。
鏡川さんが菊地明氏の説を紹介しています。私は菊地説を知らなかったのですが、講座の中で「彼御屋鋪」は河原町の土佐藩邸ではないだろうと話しました。ただ、「御」が付いているので、土佐藩関係の別の屋敷かと思って、「大仏」(妙法院)あたりかなと推測しました。
しかし、「松山下陳」が京都のほぼど真ん中あたりですから、「大仏」説も的外れでしたね。

あと、文中の「四條ポント町」も編者は近江屋に比定していますが、どうですかね。講座でも海援隊の屯所があった酢屋の可能性もあるのではないかという受講生の指摘がありました。


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松山の件
 松山下陣(原文は陳)は松山藩下陣でよろしいかと思います。
「彼御屋鋪の辺の寺松山下陣」は下陣跡の寺という意味でしょうが、西尾秋風氏や木村幸比古氏は池坊六角堂(頂法寺)とみなしていたように記憶しています。ただし松田智幸氏は土佐藩邸前の「弓トク寺」(実際は了徳寺)を松山藩下陣跡とされています。いずれにせよ、土佐藩邸付近に松山藩主の「松平隠岐守」名や「松山屋敷」とした区画のある古地図があるようですから、「松山」は「松山藩」で確定できるかと。
ご参考までに。
2008/03/27(Thu) 15:36 | URL  | 鏡川伊一郎 #RAa2TALo[ 編集]
お礼
鏡川伊一郎さん、こんばんは。

ご教示有難うございました。お礼申し上げます。
2008/03/27(Thu) 22:57 | URL  | 桐野作人 #-[ 編集]
いつも楽しく読ませていただいています。

龍馬のこの手紙について、以前から疑問に思っていたのですが、慶応3年10月のこの時点で、龍馬が薩摩藩邸にかくまわれるという可能性があるのものなのでしょうか。全体の内容についてもよくわからない部分が多いですね。また、筆跡も少し変わっているような気もします(一番近いのは、高松太郎宛の手紙(霊山歴史館所蔵)のものと思いますが)。この書簡についての論考があれば、ご教示ください。
2008/03/28(Fri) 23:22 | URL  | 崎陽・織田 #-[ 編集]
 横から失礼いたします。
 筆跡はともかくとして、もっと問題にされてよい手紙ですね。龍馬がいつ近江屋に転居したかという点で、他の史料(証言)と矛盾するように思われますから。もっとも暗殺現場となった近江屋とポント町の近江屋と「近江屋」がふたつあるのでよけい混乱しますが。
 この手紙に関する「論考」では、菊池明氏が「彼御屋鋪」を土佐藩邸のことではないのではと、一般的な解釈と異なった見解を述べておられたのが印象に残っております。
2008/03/29(Sat) 15:43 | URL  | 鏡川伊一郎 #RAa2TALo[ 編集]
筆跡
崎陽・織田さん、こんにちは。

筆跡についてはさほど疑念はないのではと思います。
筆の性質、太いか細いかだけでも、同一人物が書いても相当違った印象を受けますからね。
『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)の写真版で比較すれば、当該書簡は507頁の陸奥宗光宛て書簡(慶応3年11月7日)と類似性があるのでは。冒頭の書き出しは同一文言で、よく似ていますし、文中で共通する「屋鋪」という字もよく似ています。

むしろ、内容の問題でしょうね。
鏡川さんが菊地明氏の説を紹介しています。私は菊地説を知らなかったのですが、講座の中で「彼御屋鋪」は河原町の土佐藩邸ではないだろうと話しました。ただ、「御」が付いているので、土佐藩関係の別の屋敷かと思って、「大仏」(妙法院)あたりかなと推測しました。
しかし、「松山下陳」が京都のほぼど真ん中あたりですから、「大仏」説も的外れでしたね。

あと、文中の「四條ポント町」も編者は近江屋に比定していますが、どうですかね。講座でも海援隊の屯所があった酢屋の可能性もあるのではないかという受講生の指摘がありました。
2008/03/30(Sun) 16:14 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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