歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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日次記です。

4月2日(水)壬申、天晴
午後から江戸東京博物館の「篤姫展」を見に出かける。
東京での展示が6日まで。今日でないと見られないことがわかったため。
何とか一本原稿を書いてからと思ったが、意外と長びいたため、中途のまま出かけた。

通路横の駐車場に観光バスがたくさん停まっていた。大量のツアー客が降りてくる。平日だからと思ってタカをくくっていた。「しまった。こんなことなら朝一番に出てくればよかった」と思ったが、あとの祭りである。

案の定、館内は人が多い。入口のところからたむろしているので、順繰りに観るのは思い切ってパスして、興味のあるところ、空いているところを観る。とくに観たかったのは文書類。
篤姫や「つぼね」(幾島)の近衛家宛ての書簡がとくに興味深かった。

篤姫が養父近衛忠煕に宛てた書簡は「養君」一件を朝廷が沙汰しないように、私に子どもができないのが悪いといったニュアンスが書かれていて、「貴女のせいじゃないよ」と同情を誘う。
また、宛所が「御もう様」(お父さまの公家言葉)になっていたのが、目を引いた。
いずれにしろ、陽明文庫所蔵の史料はいいのが揃っているなと感じる。

慶応4年の江戸開城時、篤姫が「官軍隊長」に宛てた書簡が、大河ドラマのテーマ曲をバックにナレーションされていた。これは古文書講座「てらこや」でも取り上げたことがある。
なかなか泣かせる内容だが、これを本当に西郷が読んだのかどうかは不明である。だから当然、この書簡が西郷に影響を与え、江戸開城の決定打になったかどうかも疑問。
西郷が勝海舟の要求を呑んだのには、別の要因(とくに英国の圧力)が考えられるが。


4月3日(木)癸酉、天晴
朝、新宿から特急あずさに乗って、下諏訪に向かう。
相楽総三ら赤報隊士の慰霊祭「相楽祭」出席のため。
とくに今年は140年祭である。
車中で、M川さんと合流。
下諏訪に着くと、まず山猫亭で信州蕎麦をいただく。
その後、下諏訪宿の本陣などをしばし見学。
以前、お世話になったお婆様も健在のようで安堵。

そしたら、相楽総三研究者の西澤朱実さんから「もう始まりますよ」という電話あり。
西澤さんは本日の記念講演会の講師の一人。
この間、マツノ書店の「相楽総三・赤報隊史料集」編纂に尽力され、私もお手伝いした。
IMG_9248_640.jpg

行ってみると、魁塚には多くの人が集まっていた。
ほどなく慰霊祭が始まる。神式(写真参照)。
慰霊祭


列席された子孫の方では、相楽の子孫である木村さんがいまなおお元気で安堵した。今年87歳になられるとか。
また、相楽の盟友で、薩邸浪士隊の副総裁だった落合直亮の子孫の方もおいでだった。初めてお目にかかり、ご挨拶させていただく。

慰霊祭の終了後、会場を下諏訪総合文化センターに移して記念講演会。
会場は予想以上の参加者で、レジュメが足りなくなったほど。
講師と演題は以下の通り。

赤報隊研究の先駆者、高木俊輔氏(立正大学教授)
 「『偽官軍事件』から学ぶ」
西澤朱実氏
 「慶応二年の相楽総三」
岩立将史氏(中央大学大学院生)
 「近代における赤報隊の顕彰活動」


高木俊輔


三者三様で面白かった。
西澤氏の講演は、慶応2年(1866)の夏から秋頃、相楽たちは新田氏を奉戴して攘夷挙兵を計画していたのではないかという内容。
時期的に第2次長州戦争と重なっている。
少し視点を変えれば、薩摩藩を介した東からの幕府牽制策の一環という可能性はないのかと感じた。

その後の慰労会で、高木氏と久しぶりにお会いしたので、少しお話をする。
電車の時間になったので、中途で退座させていただく。

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【2008/04/04 12:39】 | 日次記
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