歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第17回「予期せぬ縁組」

昨夜は冒頭の10分間ほどを見逃しました。観た部分だけを書きます。

ドラマ進行時点は安政2年(1855)夏から秋にかけてです。

今回のタイトルは、肝付尚五郎の縁組、小松家への継目養子のことですが、尚五郎の養子入りについては、史料不足で不明な点があります。

ドラマは、尚五郎の江戸行きから養子縁組まで、ほぼ「小松帯刀伝」(鹿児島県史料集21)に従っていたように思います。それには、以下のように記されています。

安政2年5月江戸詰を命ぜられ、18日出発、6月28日江戸着。
同9月3日江戸発、10月8日着。
安政3年正月27日、小松相馬清猷の後嗣となり、詰衆を命ぜられ、小松尚五郎と称す。


尚五郎の江戸行きはけっこう難渋しています。
同書によれば、小倉から船で大坂に着き、途中、鞠子宿(現・静岡市)で大風雨にあい、そのため、増水した安倍川で3日間足留めを喰っています。

これによれば、尚五郎の江戸詰はわずか2カ月強ですね。
なお、尚五郎養子の一件について、島津斉彬の側近、竪山武兵衛の公用日記には、ドラマとは少し違った事情が書かれているので紹介しておきます。

小松清猷が琉球で他界したのは同年6月17日のようです。
江戸の斉彬はその死を7月15日に届いた鹿児島からの便で知らされました。
清猷は軍役奉行として琉球に赴任していましたが、10日後の25日、斉彬は清猷の後任を諏訪数馬(武衛、一所持159石)にしています。正式の役名は「御軍役総頭取兼太鼓役」です。

それから、後嗣のいない小松家をどうするかということになります。
ドラマでは斉彬が尚五郎に養子に行くように命じ、尚五郎は突然のことで驚きます。

ただ、気になるのは、ドラマでは尚五郎を一人息子のように描いており、じつは三男だということをあまり明示していませんね。まあ、肝付家の兄弟まで登場させると、煩雑になるからでしょうが。
逡巡する尚五郎に斉彬が「小松家は桓武天皇以来の名家だぞ」という形で説得しておりましたが、やや筋違いですね。
三男で生家を継げる見込がほとんどない尚五郎にとっては、じつに有難い養子先なのです。ですから、本来は「三男のおぬしには、よい縁組のはずだ」といったほうがベターでしょう。
なお、小松家の出自が桓武天皇以来の桓武平氏だという通説にも疑義がありますが、ここでは触れません。

で、果たして最初から斉彬の意向で尚五郎の小松家相続が決まったのかどうかですが、上記竪山の公用日記には、次のようにあります。

「肝付尚五郎、小松相馬継目養子に内約これある候由」

つまり、「内約」とは小松家と肝付家の間で内々に尚五郎を養子にする約束が成立していた意味だろうと思います。
その内約が小松家→鹿児島の藩当局→江戸の斉彬という順に伝えられて、最終的に斉彬が裁可したという流れだったのではないでしょうか。
両家が清猷死後、すぐさま「内約」を結んだところを見ると、日頃から交流があって親しい間柄だったことがうかがえます。
ただし、過去に両家で何らかの縁組が結ばれたことはないようです。だとすると、鹿児島城下の両家の屋敷がすぐ近くにあり、隣近所の間柄だったことによるものでしょうか。

尚五郎の小松家相続が決まり、奧小姓を免ぜられて帰国になるわけですが、その時期もドラマ通りだったかどうかはよくわかりません。「小松帯刀伝」にはそのように書いてありますが、竪山の公用日記8月19日条には別の趣旨が書かれています。

「御供にて罷り下り候節,御暇下さるとも、また此の涯中御暇にて下さるとも、いずれにても御都合宜しきよう申し上ぐべくくれるよう豊後殿(家老島津豊後)より承り候に付、此の涯御暇下さり候方宜しくあらされまじくかの旨、今朝御出掛けの処にて申し上げ候処、伺い通りに仰せ付けられ候」

つまり、尚五郎の帰国を、斉彬が次の参勤交代で鹿児島に帰るときに御供させるか、それともこの際すぐ帰国させるか、どちらでも都合のよいほうを言上してほしいと家老の島津豊後から承ったので、竪山の私見として、すぐ帰国させるのは都合がよくないのでは(次の参勤交代での帰国に供させたほうがよい)と、斉彬にお伺いを立てたところ、斉彬は伺い通りにせよと仰せになった、という大意です。

もしこのとおりなら、斉彬の意向は、次の参勤交代で、尚五郎を帰国させることにあったはずです。あるいは、その後、10日間ほどで斉彬の気が変わったのでしょうか。
果たして、どちらが正しいのか、ほかに判断材料がないのでよくわかりません。

今回はこの問題だけに絞ってみました。
次回、お近が尚五郎より7歳年上であることを理由のひとつにして、縁組を断る話が出てきます。7歳の姉さん女房説は時代考証の原口泉氏の持説のようですが、どんな史料に基づいているのか、よくわかりません。

「篤姫紀行」、江戸の薩摩藩邸を取り上げていました。
私が前回予想したとおり、篤姫が輿入れした渋谷屋敷ゆかりの常盤松の碑が出ていましたね(笑)。
ただ、薩摩藩邸は5カ所あったとナレーションしていました。「主な~」と限定詞が付いていたでしょうか。
私が調べたところによれば、少なくとも7カ所あります。詳しくはここをご参照下さい。

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【2008/04/28 10:28】 | 篤姫
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2008/04/28(Mon) 14:17:46 |  旅じゃ.com
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