歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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先週24日(木)、名古屋・栄の中日文化センターで、表題の講座に出講。

受講生が60人と予想外に多く、教室も大きいところに変更された。
うれしい悲鳴だが、受講生のみなさんのお顔を覚えきれないうちに、講座が終了するのではないかとやや不安。

今回は、関ヶ原合戦の前提となる太閤秀吉の死の前後を見ていくことにした。
五大老・五奉行制と豊臣政権」というタイトルである。

尊経閣文庫所蔵の関白秀次宛て秀吉朱印状から、秀吉の中華皇帝への真面目な誇大妄想をまず紹介する。秀吉が天皇を北京に移し、自分は日本・朝鮮・明国の三国に君臨しようと本気で考えていたことを確認してもらった。

次に『浅野家文書』所収の秀吉遺言覚書で、いわゆる五大老のなかでも、家康と利家が抜きん出た地位にあり、大老といってもその地位は決して同格ではないと秀吉が認識していたことを理解してもらう。またいわゆる五奉行が、家康・利家ら五大老を監視する役割をもっていたことも確認。

その後、「大老」「奉行」呼称がその政治的立場の違いによって異なることを、堀越祐一氏の研究に依拠しながら紹介した。
受講生の皆さんは、やはり家康が三成らから「奉行」と呼ばれている史料を見て驚いた様子。終了後の質問もこのあたりが多かった。
また三成たちが「年寄衆」と自己規定していることが、家康に優越したい気持ちの表れであったことも説明する。

ただ、論旨をよく展開できなかったというか、別の話題をしたためにうっかりしてしまったのが、豊臣政権と豊臣家という、いわば公私を分けて考えることができるのかどうかという点。
「年寄」は豊臣家の家老という意味あいがあると述べたが、豊臣政権においてどうなのかという点を説明し忘れた。やはり、両者は分離できず一体のもので、三成たちは豊臣政権の「家老」でもあったのではないかと思う。

「奉行」は史料用語であり、学術用語でもあるが、「大老」は史料用語ではなく、学術用語でしかないこと。その意味で、「五大老・五奉行制」も用語の問題も含めて、さらに検討する必要があるだろうというあたりを、とりあえずの結論とした。

レジュメに収録した史料の分量の多寡を受講生に尋ねてみたところ、もっと多くてもよいという意見が多かったように思う。
初めてだったこともあり、古文書塾「てらこや」とくらべると、控え目にしたが、次回は少し多くしようかと思う。

講座終了後、年配の受講生の方から、現地見学会をしてほしいという要望あり。
私も一度やったほうがいいかもと漠然と考えていたが、さっそくの申し出に我が意を得たりだった。
聞くところによると、課外講座は受講生以外の方でも参加できるとのこと。
もし受講生以外で参加されたい方も歓迎です。

なお、レジュメの冒頭に全講座の予定を載せておいたが、うっかり最初の草案段階のものだった。その後、変更があったので、以下のテーマでやります。粗忽でした。

第1回:五大老・五奉行制と豊臣政権
第2回:「直江状」の真偽は?
第3回:小山評定と情報伝達
第4回:石田三成の苦悩
第5回:秀忠軍の遅参とその影響
第6回:島津の退き口の真相


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【2008/04/29 10:44】 | 中日文化センター
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直江状の真偽について
こぐれ。
お世話になっております

第2回の直江状前後の動向については
是非とも伺いたく存じます。

私は中日新聞の記事に目がとまったため申し込んだのですが
今回の講座は歴史小説といわれる小説のどこまでが真実で
どこからが虚構なのかを知ることのできる
良い機会だと思いました。

現地の見学なども機会があれば参加したいものです。


秀吉遺言覚書
とざき
突然おじゃまします。戸崎と申します。
浅野家文書にある「秀吉遺言覚書」は、色々な本で引用されていたのを読みましたが、この「覚書」が豊臣政権の公文書であるのか、浅野家中の備忘録であるのかが引用文ではわかりませんでした。
かりに、秀吉が家康・利家・秀家に遺託した内容をそのまま書き留めておいただけの「公文書化する前のメモ」であったとするなら、この三人と秀忠・利長に期待するという言葉が大半を占めるのは当たり前で、その場に居合わせなかったであろう景勝・輝元への言及が少なくなるのもまた当然だろうと思ってしまったのですが。
お考え、お聞かせいただければ幸いです。

直江状
桐野作人
こぐれ。さん、こんにちは。

それでは次回をお楽しみに。
現地見学会も実現できればよいですね。ぜひ主催者側に要望を上げて下さいませ。

秀吉遺言覚書
桐野作人
とざきさん、初めまして。

ご意見有難うございます。
なるほど、そういう考え方もあるのかと思った次第です。

ただ、例の秀吉遺言覚書のなかで、第九条
「何たる儀も、内府・大納言殿へ御意を得、其の次第相究め候へと、御意成され候事」
が重要だろうと思います。
これは、輝元・景勝が在席していても同様だったのではないでしょうか。
つまりは、あらゆることは家康と利家の御意のとおりに従えということですから、2人が格別の地位にある証左ではないでしょうか。

それと、これが肝心なことですが、秀吉の死の前後、輝元は上方におりますから、秀吉の病床にも付き添っていた可能性が高いですね。
なお、景勝は会津にいましたが、秀吉重篤と知って上京しました。しかし、着京は10月になってからのようで、秀吉の死から2カ月後です。

在伏見の輝元と不在の景勝が同列に扱われていることから、在不在は大きな問題ではないように思われますが、いかがでしょうか。




秀吉遺言覚書
とざき
早速のご教示、ありがとうございます!
どうやら私は、毛利輝元も在国していたものと何故か錯覚していたようで、汗顔の至りです。

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コメント
この記事へのコメント
直江状の真偽について
お世話になっております

第2回の直江状前後の動向については
是非とも伺いたく存じます。

私は中日新聞の記事に目がとまったため申し込んだのですが
今回の講座は歴史小説といわれる小説のどこまでが真実で
どこからが虚構なのかを知ることのできる
良い機会だと思いました。

現地の見学なども機会があれば参加したいものです。
2008/04/29(Tue) 20:28 | URL  | こぐれ。 #gC8uIuwI[ 編集]
秀吉遺言覚書
突然おじゃまします。戸崎と申します。
浅野家文書にある「秀吉遺言覚書」は、色々な本で引用されていたのを読みましたが、この「覚書」が豊臣政権の公文書であるのか、浅野家中の備忘録であるのかが引用文ではわかりませんでした。
かりに、秀吉が家康・利家・秀家に遺託した内容をそのまま書き留めておいただけの「公文書化する前のメモ」であったとするなら、この三人と秀忠・利長に期待するという言葉が大半を占めるのは当たり前で、その場に居合わせなかったであろう景勝・輝元への言及が少なくなるのもまた当然だろうと思ってしまったのですが。
お考え、お聞かせいただければ幸いです。
2008/04/30(Wed) 08:21 | URL  | とざき #B2zLP17c[ 編集]
直江状
こぐれ。さん、こんにちは。

それでは次回をお楽しみに。
現地見学会も実現できればよいですね。ぜひ主催者側に要望を上げて下さいませ。
2008/04/30(Wed) 15:52 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
秀吉遺言覚書
とざきさん、初めまして。

ご意見有難うございます。
なるほど、そういう考え方もあるのかと思った次第です。

ただ、例の秀吉遺言覚書のなかで、第九条
「何たる儀も、内府・大納言殿へ御意を得、其の次第相究め候へと、御意成され候事」
が重要だろうと思います。
これは、輝元・景勝が在席していても同様だったのではないでしょうか。
つまりは、あらゆることは家康と利家の御意のとおりに従えということですから、2人が格別の地位にある証左ではないでしょうか。

それと、これが肝心なことですが、秀吉の死の前後、輝元は上方におりますから、秀吉の病床にも付き添っていた可能性が高いですね。
なお、景勝は会津にいましたが、秀吉重篤と知って上京しました。しかし、着京は10月になってからのようで、秀吉の死から2カ月後です。

在伏見の輝元と不在の景勝が同列に扱われていることから、在不在は大きな問題ではないように思われますが、いかがでしょうか。


2008/04/30(Wed) 16:07 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
秀吉遺言覚書
早速のご教示、ありがとうございます!
どうやら私は、毛利輝元も在国していたものと何故か錯覚していたようで、汗顔の至りです。
2008/04/30(Wed) 20:06 | URL  | とざき #-[ 編集]
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