膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
NHK大河ドラマ「篤姫」第18回「斉彬の密命」

ドラマ進行時点は安政2年(1855)10月から翌3年11月。

嘉永6年(1853)あたりは1年を数回もかけましたが、今回は1年を1回と進行が早く、一気に入輿までいきましたね。

斉彬や篤姫は渋谷藩邸に移っているはずですが、屋敷の各所で普請をしており、そういう描き方ではなかったですね。
安政3年夏には、斉彬が渋谷の藩邸で電信や電気の実験をしているのですが、そんな興味深いエピソードもスルーでした。

今回もあまり書くことはありませんので、2,3指摘するに留めます。

○7歳年上女房?
肝付尚五郎が小松家の継目養子となり、ついにお近と縁組することになりました。
尚五郎が小松家を正式に継いだのは安政3年(1856)正月27日ですから、縁組もその前後でしょう。
それで、お近が尚五郎よりも7歳年上だとナレーションがありました。
これは時代考証担当の原口泉氏の持説だと思われます。近刊でもそのように書かれているのですが、その出典が示されていません。何か史料があってのことだと思われますが……。

ただ、7歳年上説は微妙ではあります。
琉球で客死した先代の小松清猷は文政10年(1827)正月24日生まれで、安政2年(1855)6月17日に没していますから、享年29です。
一方、小松は天保6年(1835)生まれで、安政3年(1856)には数えの22歳になったばかり。
お近はそれより7歳年上ですから、当年29歳。
清猷とお近は1歳違いの兄妹だったことになります。
まあ、ありえないことはありませんし、清猷の生誕月が正月ですから、実質2歳近く離れていることもありえるわけで。
可能性としてはありえますが、出典がわからないものですかね。

○近衛邸への使者は?
京都の近衛邸に島津伯耆が使者となって,篤姫養女縁組の御礼をしておりました。
島津伯耆はこの年、安政3年6月23日に家老となっているので、新米の家老ということになります。
諱は久福。知覧に所領がある佐多島津氏の当主です。幕末期には所領6700余石の大身で、もちろん、門閥である一所持の家格です。

ただ、このような使者に家老が命ぜられるのはやや不審です。
実際、このとき、近衛家の使者に立ったのは家老より役職が下の者です。
斉彬の側近の竪山武兵衛の日記「竪山利武公用控」安政3年6月10日条に次のようにあります。

「又京都えの御使者、肝付左門并に梶原清右衛門義は仰せ渡さるにより、両三日の内出立仰せ付けらるべき哉」

使者を命じられたのは肝付左門と梶原清右衛門の2名です。
肝付左門は諱が兼両。ほかならぬ尚五郎の長兄です。この時期の役職はわかりません。
ただ、その後変更があったようで、実際に使者になったのは梶原だけだったようです。

○「篤君」と呼ぶべき
近衛忠煕との養女縁組により、篤姫の呼称は「篤君」になります。これは摂関家の姫には通例の君号です。近衛家から正式の君号が書面で送られています。そして、島津家中でも「篤君」と呼ぶよう布告が出されています。
ですから、本来ならその時点から「篤君」と呼ぶべきです。しかし、そうではなかったですね。まあ、ドラマのタイトルが「篤姫」ですから、呼称で混乱を起こしたくないのでしょうが、それなら、斉彬がよく使った「篤子」も問題ありなわけですが。「於篤」くらいが一番無難だったでしょう。

最後に、大奥からの迎えの使者として、老女滝山が登場しましたね。
のちに、大奥で最大の宿敵になる人です。
稲森いずみ、老女役だからなのでしょうか、2年ほど前の大河「義経」での常盤御前より老けて見えたのは気のせいか。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
コメントを投稿する
::この記事へのコメント::
また拝見させていただきました。
応援ポチッ!
2008/05/05(月) 16:06:30 | URL | サトシ #-[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
Secret: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
::この記事へのトラックバック::
風邪で寝込んでしまい、序盤10分ほど見過ごしましたが、本日の批評を書かせていただ...
2008/05/05(月) 01:10:14 | 旅じゃ.com