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イエズス会の世界戦略

体調を崩して二日間書き込みできなかった。

高橋裕史氏が講談社選書メチエから10月に刊行したものである。新刊ではないかもしれないが、私の問題関心とも関わる興味深い本である。

帯の惹句に「宗教的情熱の下に隠された、宣教師たちのもう一つの顔」とあるように、イエズス会の世界進出を可能にした源泉をその軍隊的な組織力に求めるとともに、宣教師たちがスペイン・ポルトガルの世界戦略・植民地主義の先兵だったことを立証しようという意欲作である。

個人的に興味深かったのは、「第七章 聖衣をまとった戦士たち」である。イエズス会が大友宗麟・有馬晴信・大村純忠など九州のキリシタン大名に大砲・鉄砲・硝石など軍事的な援助をしたことは知られるが、その後、反キリシタン大名の攻撃からの自衛の必要から、長崎住民の武装化、長崎の軍事要塞化へと発展し、フィリピンのマニラからスペイン軍隊の派遣まで要請するほど、日本イエズス会の軍事的「自立」が進んだとする。イエズス会がこれほど九州で軍事力を強化した背景には、庇護を求めるには九州のキリシタン大名たちが脆弱すぎたことによるという。
秀吉がイエズス会を警戒してバテレン追放令を発したのもわかるような気がする。

この点で、九州と上方でのイエズス会のありようが異なっていたといえよう。つまり、上方ではイエズス会はほとんど武装していない。それは彼らを庇護できるだけの強力な権力者が存在したからである。ほかならぬ信長である。

近年、信長の天下統一事業にはイエズス会の軍事援助があったとする仮説が出ているが、主客転倒であろう。
同書にも、高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』(岩波書店、1977)でまとめられた日本イエズス会の年間経費の一覧をさらにわかりやすく整理して掲げられている。信長時代と秀吉時代の一部を挙げると、

1571年(元亀二) 2.000クルザド
1572年       3.000
1575年(天正三)  4.000
1576年       5.000
1578年       6.000
1580年       6.000~8.000
1581年       8.000
1582年       20.000
……………………………………
1583年       10.000
1586年       11.300
1587年       15.000



信長時代、キリシタン保護政策により、信者鰻登りに増え、宣教師・修道士も増加したので、それに伴い、イエズス会の年間経費は漸増し、本能寺の変のあった1582年は最高額に達している。
信長死後、経費が漸減しているのは、最大の庇護者を失い、活動基盤が狭められたからだろう。
数字からみても、信長の死はイエズス会にとって大きな打撃だったのである。近年、本能寺の変について、イエズス会黒幕説が出ているが、みずからの利益を損なうために信長を殺さねばならないのかという素朴な疑問がぬぐいきれない。

クルザドというポルトガルの貨幣単位が、当時の日本でどれくらいの貨幣価値を有していたかといえば、『イエズス会日本年報』には、金1.000両が7.000クルザドとなっている。つまり、金1両が7クルザドだから、20.000クルザドは2857両ということになる。

問題は、最大に見積もって年間3.000両足らずの財政基盤しかもたない団体が、果たして信長にどの程度の軍事援助を提供できるのか、またそれは信長の天下統一事業にとって、どれほどの影響力を持ちえたかという点だろう。

講談社選書メチエ
『イエズス会の世界戦略』
著者: 高橋裕史
発行年月日:2006/10/10
ISBN:4-06-258372-0
定価(税込):1,733円


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【2006/12/18 11:52】 | 信長
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クルザド
かわと
私もこの本買ったんですが、まだ読んでません…。

私も金銀流通の関係からイエズス会関連の史料をめくったりしたんですが、信長の援助額はすごいですね。確か大友では2000クルザド(クルサド)ぐらいで、信長の初発段階とほぼ同額だったようです。もっとも大友の方が少し早いですが。

ところで「クルザド"cruzado"」ですが、これを単なる「尺度」として用いているのか(元々は重さの単位らしい)、銀価格として使用しているのかが、私としては気になってます。後者だとすると、永禄年間から大友は銀で援助していた、ということになるわけですが。
ただし、イエズス会士は銀を価値尺度の基本単位として計算していたであろうことは確かなようです。

すみません。完全に独り言でした(笑)。

クルザド、金、銀
桐野
かわとさん

クルザドが銀の秤量単位だとすると、たしかに銀換算がいいのかもしれませんね。

私が金換算で書いたのは、『イエズス会日本年報』(一五八二年の日本年報追加)での、本能寺の変後、明智軍が安土城を占拠して、その御金蔵から金銀を略奪した記事のなかに次のように記されていたことに拠っています。

「高貴な人達には各々金の一両、一千すなはち七千クルサドを与へた」

ちょっとわかりにくいですが、金1.000両=7.000クルザド(金1両=7クルザド)という関係を示していると解していいですかね?
ここでは、イエズス会は金をクルザドに換算しているようです。

一方、『兼見卿記』によれば、光秀がその後、京都五山や大徳寺・妙心寺に銀子100枚ずつ配っています。この一件について、『~日本年報』には次のように記されています。

「これを五山と称したが、この僧院に各々七千クルサドを贈って、信長の葬儀を行はせた」

つまり、銀子100枚が7.000クルサドと等価になっています。とすれば、銀子100枚と金1.000両も等価になるのでしょうか? 

銀子1枚=金10両

というレートはちょっとおかしいような気もします。
銀子1枚が10両だとしても、ちょっと不等価ではないでしょうか。下記によれば、銀子1枚は75両程度にならないといけないですね。

たとえば、奥野高広『織田信長文書文書の研究』上の153号には、

「金子ハ拾両之代拾五貫文、銀子ハ拾両之代弐貫文たるへし」

とあり、これを換算すれば、

金:銀=15:2=7.5:1

という交換比率になるのは有名な話ですね。

となると、最初の金のクルザド換算が間違っているのですかね? 頭が混乱してきました。
安土城の御金蔵の金は「悉く一定の目方の棒」だったとあります。これが1本で1両換算だと思いますが、ここからよく考えないといけないのでしょうかね。




度量衡は苦手ですが…
かわと
ロドリゲスの『日本大文典』によると、1クルザドは10匁と書いてありまして、1両=京目4匁5分とすれば、17世紀初頭段階では、1クルザドはおよそ2両になります。

ですので、金1両=7クルザドだとすれば、銀では14両ぐらいと等価になりますので…、信長段階からすると金の銀比価が倍ぐらいになっていることになるんですかねぇ…。

いずれにせよ、金と銀の比価が同額になることはあり得ない一方、金1両=7クルザドの等式の方が事実に近いように思います。
ですので、明智光秀の五山への分与に関する記述の方に齟齬がありそうな気がします。実際は銀だったのに、これを書いたフロイスが金と聞き間違えた、とか。

ちょっと苦しいですが、今のところ、そういう想定しかできないですね。

大徳寺の史料から
桐野
かわとさん

光秀の五山などへの分与は、請け手側のひとつ、大徳寺に、次のような光秀自筆文書があります(『大徳寺文書』)。

「 大徳寺
 銀子百枚
  日向守」

銀子であるのは間違いないですね。

それに関連して、大徳寺にもうひとつの史料があるのを忘れておりました。『龍宝山大徳寺誌』に次のようにあります。

「方丈・南門、明智日向守光秀所建、故名明智(門脱カ)、日向守光秀弑其君信長公、知命不保、納白金千両於本寺、為冥福、因建方丈・南門」

大徳寺の方丈と南門は光秀の寄進で建てたようで、南門はもとは明智門と呼んでいたようです。
光秀の寄進は信長を討ったのち、その供養料という名目で行われ、金額は「白金千両」だったと思われます。これが先の『大徳寺文書』の「銀百両」のことでしょう。ちなみに、白金は銀のことですね。

としますと、「銀百枚」=「白金千両」という関係が成り立ちます。
つまり、銀100枚=銀1.000両ということになりますね。
金か銀かは別にして、1.000両=7.000クルザドという公式は一応矛盾なく成立します。

ただ問題は、銀100両と金100両が等価なのかどうかという点です。
銀はもともと秤量ですから、金のように何枚とか何両という数え方はしないはずです。
ところが、ここではあえて銀を両換算しているということは、この「両」は金に準じたものととらえれば、一応矛盾は解消します。

そういう考え方が成立するかどうかははなはだ怪しいですけど(笑)。
 

フロイスに学んで
かわと
先に書いたコメントが説明不足でした。

明智光秀が寄進をしたことについて見聞した『イエズス会士日本通信』所収ルイス・フロイス(だったかと)の書翰において、

「これを五山と称したが、この僧院に各々七千クルサドを贈って、信長の葬儀を行はせた」

の記述が、本来は「銀」であるのに、「金」とフロイスが誤解してその価格を計算したのではないかと思われまして、それゆえ金1000両=7000クルザドという計算式が後に続いたのではないかなぁと。
そうだとすれば、銀1000両=7000クルザドという等式は成立しないものと考えられます。

そこで小葉田淳『金銀貿易史の研究』(法政大学出版局、1976年)を繰ってみると、16世紀の金銀比価について言及がありました。

信長が制定した永禄12年(1569)については、桐野さんが既に1:7.5であったことをお示しになっていますが、その後天正前半にかけて金の銀比価が上昇して1:12ぐらいになった後、天正10年(1582)頃はおおよそ1:10程度になるようです。

孫引きなんですが…小葉田さんが引用しているフロイス『日本史』の一節に、次のような文章があるそうです(どのあたりに書いてあるのか、確認できてませんでして…)、

「或る人が他の人に何本"barre"の金または銀を贈与したとある場合に、その一本を日本では一枚と称し、或る限られた重さを持つ。すなわち日本には鋳造された金貨または銀貨なるものはなく、その重さによって取引される。(中略)銀の一枚は4テール3マースの重みがあり、わが国の貨幣では4クルザド6ヴィンテンに相当する。金の一枚は、四三銀一枚"43 Silver Ichimai"よりなり(かわと注:この部分は不詳)、43クルザドに相当する。」

最初にこれを見ておけば良かったです(笑)。これによると、
銀1枚=4.6クルザド
となりますが、「テール」が中国の「両」に相当するならば、約37gだそうですので、1枚は約159g。1匁を3.75gとすれば、1枚は約42匁で、1両=4匁5分とすれば、1枚は約9両になります。やはり銀も1枚=10両であると考えた方がよさそうです。
一方、
金1枚=10両=43クルザド
とフロイスは認識していたようですので、金と銀の比価は1:9.3となり、おおよそ符合します。
やはり金と銀の価格差はこの辺りにあったと考えた方が良いように思います。

以上をまとめると、
銀1両=0.46クルザド
金1両=4.3クルザド
あたりで推移していたと思われます。これだと先に『日本大文典』で書いた1クルザド=銀約2両という記述とも齟齬が無いと言えますね。ただ金1両=7クルザドとする一連の記述とは少し差異があるわけですが…。この辺は、変動幅の範囲内と考えていいかどうか、課題は残るところです。

勉強になりました
桐野
かわとさん

詳しいご説明、有難うございます。
やはりご専門と重なっている分野だけに、史料のどこを見ればよいか、よくご存じですね。大変勉強になりました。今後、大いに参考にさせていただきます。

信長時代と近世初期、わずか30年ほどの間に金銀の為替レートにかなり大きな変動が生じているようにも見えますね。相対的に金の価値が上がっていると考えてよいのでしょうか。

あるいは、イエズス会史料が金銀とクルザドの価値関係について大雑把すぎるだけなのかもしれませんが。


金価格と銀価格
かわと
あくまで生半可な知識に基づく私見ですが、16世紀後半から17世紀初頭にかけては、金価格の上昇を見るより、銀価格の下落を見る方が良いかもしれません。
世界的には、主流となっていた石見銀を押し流すほどの莫大な量の南米ポトシ銀が席巻して、銀がだぶつき気味だったようです。

もっとも日本はやはり銀の産出国だからか、世界水準と比べて銀価格がやはり低かったようで、この時代は基本的に金が流入する一方、銀は流出し続けたと考えられています(前掲小葉田著書参照)。

これは妄想ですが、日本で銀価格が下落傾向だったのは、秀吉が金に執着したせいで国内需要が伸びなかったせいかもしれません(笑)。

金と銀
桐野
かわとさん

当時、メキシコ銀と日本銀で世界の銀産出量のほとんどを占めていたというのを読んだ記憶があります。

銀の増産によって、その価値が金に比して低下したというメカニズムは素人の私でも理解できます。

秀吉の金への執着は有名ですね。銀が国際的な決済通貨になっているなかで、銀との差別化から金の占有を一種の権威の源泉とでも考えていたのでしょうか。もっとも、それには大名や大衆の拝金思想が抜きがたくあることが前提ですが。

家康も知っていた倭国年号
いしやま
最近珍しい書籍を教えてもらいましたので、ご存知かもしれませんが、紹介します。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て、日本語教科書を作るため、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。
400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。
興味深いことに、この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、倭国年号から大和年号に継続する522年善記からの年号が記載されています。この頃あった、古代からの日本の歴史についての考を知ることができる タイムカプセル でしょうか。家康はこの倭国からの王朝交代を知っていたはず。この内容はウィキなどどこにも出ていないようです、もう既に見ていますか。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年日本紀と 日本書紀 は別物という考証です。
宜しくお願いします。


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この記事へのコメント
クルザド
私もこの本買ったんですが、まだ読んでません…。

私も金銀流通の関係からイエズス会関連の史料をめくったりしたんですが、信長の援助額はすごいですね。確か大友では2000クルザド(クルサド)ぐらいで、信長の初発段階とほぼ同額だったようです。もっとも大友の方が少し早いですが。

ところで「クルザド"cruzado"」ですが、これを単なる「尺度」として用いているのか(元々は重さの単位らしい)、銀価格として使用しているのかが、私としては気になってます。後者だとすると、永禄年間から大友は銀で援助していた、ということになるわけですが。
ただし、イエズス会士は銀を価値尺度の基本単位として計算していたであろうことは確かなようです。

すみません。完全に独り言でした(笑)。
2006/12/19(Tue) 00:16 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
クルザド、金、銀
かわとさん

クルザドが銀の秤量単位だとすると、たしかに銀換算がいいのかもしれませんね。

私が金換算で書いたのは、『イエズス会日本年報』(一五八二年の日本年報追加)での、本能寺の変後、明智軍が安土城を占拠して、その御金蔵から金銀を略奪した記事のなかに次のように記されていたことに拠っています。

「高貴な人達には各々金の一両、一千すなはち七千クルサドを与へた」

ちょっとわかりにくいですが、金1.000両=7.000クルザド(金1両=7クルザド)という関係を示していると解していいですかね?
ここでは、イエズス会は金をクルザドに換算しているようです。

一方、『兼見卿記』によれば、光秀がその後、京都五山や大徳寺・妙心寺に銀子100枚ずつ配っています。この一件について、『~日本年報』には次のように記されています。

「これを五山と称したが、この僧院に各々七千クルサドを贈って、信長の葬儀を行はせた」

つまり、銀子100枚が7.000クルサドと等価になっています。とすれば、銀子100枚と金1.000両も等価になるのでしょうか? 

銀子1枚=金10両

というレートはちょっとおかしいような気もします。
銀子1枚が10両だとしても、ちょっと不等価ではないでしょうか。下記によれば、銀子1枚は75両程度にならないといけないですね。

たとえば、奥野高広『織田信長文書文書の研究』上の153号には、

「金子ハ拾両之代拾五貫文、銀子ハ拾両之代弐貫文たるへし」

とあり、これを換算すれば、

金:銀=15:2=7.5:1

という交換比率になるのは有名な話ですね。

となると、最初の金のクルザド換算が間違っているのですかね? 頭が混乱してきました。
安土城の御金蔵の金は「悉く一定の目方の棒」だったとあります。これが1本で1両換算だと思いますが、ここからよく考えないといけないのでしょうかね。


2006/12/19(Tue) 21:05 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
度量衡は苦手ですが…
ロドリゲスの『日本大文典』によると、1クルザドは10匁と書いてありまして、1両=京目4匁5分とすれば、17世紀初頭段階では、1クルザドはおよそ2両になります。

ですので、金1両=7クルザドだとすれば、銀では14両ぐらいと等価になりますので…、信長段階からすると金の銀比価が倍ぐらいになっていることになるんですかねぇ…。

いずれにせよ、金と銀の比価が同額になることはあり得ない一方、金1両=7クルザドの等式の方が事実に近いように思います。
ですので、明智光秀の五山への分与に関する記述の方に齟齬がありそうな気がします。実際は銀だったのに、これを書いたフロイスが金と聞き間違えた、とか。

ちょっと苦しいですが、今のところ、そういう想定しかできないですね。
2006/12/20(Wed) 16:21 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
大徳寺の史料から
かわとさん

光秀の五山などへの分与は、請け手側のひとつ、大徳寺に、次のような光秀自筆文書があります(『大徳寺文書』)。

「 大徳寺
 銀子百枚
  日向守」

銀子であるのは間違いないですね。

それに関連して、大徳寺にもうひとつの史料があるのを忘れておりました。『龍宝山大徳寺誌』に次のようにあります。

「方丈・南門、明智日向守光秀所建、故名明智(門脱カ)、日向守光秀弑其君信長公、知命不保、納白金千両於本寺、為冥福、因建方丈・南門」

大徳寺の方丈と南門は光秀の寄進で建てたようで、南門はもとは明智門と呼んでいたようです。
光秀の寄進は信長を討ったのち、その供養料という名目で行われ、金額は「白金千両」だったと思われます。これが先の『大徳寺文書』の「銀百両」のことでしょう。ちなみに、白金は銀のことですね。

としますと、「銀百枚」=「白金千両」という関係が成り立ちます。
つまり、銀100枚=銀1.000両ということになりますね。
金か銀かは別にして、1.000両=7.000クルザドという公式は一応矛盾なく成立します。

ただ問題は、銀100両と金100両が等価なのかどうかという点です。
銀はもともと秤量ですから、金のように何枚とか何両という数え方はしないはずです。
ところが、ここではあえて銀を両換算しているということは、この「両」は金に準じたものととらえれば、一応矛盾は解消します。

そういう考え方が成立するかどうかははなはだ怪しいですけど(笑)。
 
2006/12/21(Thu) 19:17 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
フロイスに学んで
先に書いたコメントが説明不足でした。

明智光秀が寄進をしたことについて見聞した『イエズス会士日本通信』所収ルイス・フロイス(だったかと)の書翰において、

「これを五山と称したが、この僧院に各々七千クルサドを贈って、信長の葬儀を行はせた」

の記述が、本来は「銀」であるのに、「金」とフロイスが誤解してその価格を計算したのではないかと思われまして、それゆえ金1000両=7000クルザドという計算式が後に続いたのではないかなぁと。
そうだとすれば、銀1000両=7000クルザドという等式は成立しないものと考えられます。

そこで小葉田淳『金銀貿易史の研究』(法政大学出版局、1976年)を繰ってみると、16世紀の金銀比価について言及がありました。

信長が制定した永禄12年(1569)については、桐野さんが既に1:7.5であったことをお示しになっていますが、その後天正前半にかけて金の銀比価が上昇して1:12ぐらいになった後、天正10年(1582)頃はおおよそ1:10程度になるようです。

孫引きなんですが…小葉田さんが引用しているフロイス『日本史』の一節に、次のような文章があるそうです(どのあたりに書いてあるのか、確認できてませんでして…)、

「或る人が他の人に何本"barre"の金または銀を贈与したとある場合に、その一本を日本では一枚と称し、或る限られた重さを持つ。すなわち日本には鋳造された金貨または銀貨なるものはなく、その重さによって取引される。(中略)銀の一枚は4テール3マースの重みがあり、わが国の貨幣では4クルザド6ヴィンテンに相当する。金の一枚は、四三銀一枚"43 Silver Ichimai"よりなり(かわと注:この部分は不詳)、43クルザドに相当する。」

最初にこれを見ておけば良かったです(笑)。これによると、
銀1枚=4.6クルザド
となりますが、「テール」が中国の「両」に相当するならば、約37gだそうですので、1枚は約159g。1匁を3.75gとすれば、1枚は約42匁で、1両=4匁5分とすれば、1枚は約9両になります。やはり銀も1枚=10両であると考えた方がよさそうです。
一方、
金1枚=10両=43クルザド
とフロイスは認識していたようですので、金と銀の比価は1:9.3となり、おおよそ符合します。
やはり金と銀の価格差はこの辺りにあったと考えた方が良いように思います。

以上をまとめると、
銀1両=0.46クルザド
金1両=4.3クルザド
あたりで推移していたと思われます。これだと先に『日本大文典』で書いた1クルザド=銀約2両という記述とも齟齬が無いと言えますね。ただ金1両=7クルザドとする一連の記述とは少し差異があるわけですが…。この辺は、変動幅の範囲内と考えていいかどうか、課題は残るところです。
2006/12/22(Fri) 00:35 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
勉強になりました
かわとさん

詳しいご説明、有難うございます。
やはりご専門と重なっている分野だけに、史料のどこを見ればよいか、よくご存じですね。大変勉強になりました。今後、大いに参考にさせていただきます。

信長時代と近世初期、わずか30年ほどの間に金銀の為替レートにかなり大きな変動が生じているようにも見えますね。相対的に金の価値が上がっていると考えてよいのでしょうか。

あるいは、イエズス会史料が金銀とクルザドの価値関係について大雑把すぎるだけなのかもしれませんが。
2006/12/22(Fri) 20:57 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
金価格と銀価格
あくまで生半可な知識に基づく私見ですが、16世紀後半から17世紀初頭にかけては、金価格の上昇を見るより、銀価格の下落を見る方が良いかもしれません。
世界的には、主流となっていた石見銀を押し流すほどの莫大な量の南米ポトシ銀が席巻して、銀がだぶつき気味だったようです。

もっとも日本はやはり銀の産出国だからか、世界水準と比べて銀価格がやはり低かったようで、この時代は基本的に金が流入する一方、銀は流出し続けたと考えられています(前掲小葉田著書参照)。

これは妄想ですが、日本で銀価格が下落傾向だったのは、秀吉が金に執着したせいで国内需要が伸びなかったせいかもしれません(笑)。
2006/12/26(Tue) 01:39 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
金と銀
かわとさん

当時、メキシコ銀と日本銀で世界の銀産出量のほとんどを占めていたというのを読んだ記憶があります。

銀の増産によって、その価値が金に比して低下したというメカニズムは素人の私でも理解できます。

秀吉の金への執着は有名ですね。銀が国際的な決済通貨になっているなかで、銀との差別化から金の占有を一種の権威の源泉とでも考えていたのでしょうか。もっとも、それには大名や大衆の拝金思想が抜きがたくあることが前提ですが。
2006/12/26(Tue) 13:18 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
家康も知っていた倭国年号
最近珍しい書籍を教えてもらいましたので、ご存知かもしれませんが、紹介します。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て、日本語教科書を作るため、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。
400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。
興味深いことに、この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、倭国年号から大和年号に継続する522年善記からの年号が記載されています。この頃あった、古代からの日本の歴史についての考を知ることができる タイムカプセル でしょうか。家康はこの倭国からの王朝交代を知っていたはず。この内容はウィキなどどこにも出ていないようです、もう既に見ていますか。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年日本紀と 日本書紀 は別物という考証です。
宜しくお願いします。
2013/12/16(Mon) 11:48 | URL  | いしやま #j1BwbPXw[ 編集]
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