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歴史読本連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第6回

現在発売中の6月号掲載分です。
先月下旬には発売されていましたから、少し紹介が遅れました。

今回のタイトルは表題の通りです。
~前夜で、なかなか桶狭間合戦に入れません。
このペースでは2年間で書ききれなくなる恐れもあります。
もう少しペース配分を考えたほうがいいと思いますが、桶狭間合戦だけはゆるがせにできないので、痛し痒しです。

さて、今回は岩倉城の伊勢守織田家との最終的な対決を書きました。
信長と岩倉方が戦った浮野合戦について、『信長公記』首巻の記述だけではとてももの足りないので、『甫庵信長記』『武功夜話』などを援用してみました。
これらの軍記物は史料的な信頼性という点では少し疑問符がつきますが、慎重に補足的に使用してもよいのではと思っています。
とくに『武功夜話』に関しては、近年、筆誅されておりますが、少なくとも浮野合戦で織田方が付城を築いたという記事は首巻には見えませんが、この合戦の不明な点を補う典拠になるのではと思っています。
というのも、同書における前野長康の記事が、首巻とも合致しているように見えるからです。

あと、首巻は天理本も紹介しました。
斎藤道三が討死した長良川合戦で、信長は救援に赴きますが、間に合いませんでした。
織田軍は美濃太良というところに陣を構えていましたが、そこからの退却戦の様子が、陽明本と天理本では異なります。
とくに天理本の記述が面白いです。
信長は家来たちを先に退却させたうえで、自分一人残って殿(しんがり)します。そして鉄砲を放って斎藤方を撃退するというかっこよさです。
天理本には「御一人残り候」とありますが、おそらく助手というか、弾込めする中間か小者も随伴していたはずで、信長は何挺かの鉄砲を装填させながら、次々と発射したものでしょう。橋本一巴に習った腕前は相当なものだったと想像されます。斎藤方が撃退されたというのがそのことを示しています。

といったような内容を書いております。

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【2008/05/05 23:25】 | 信長
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桶狭間合戦
木暮兼人
実は私の家と実家は桶狭間合戦の史蹟が
点在している真ん中にありまして
そのご縁で少しばかり史蹟を取材したこともあります。

勉強不足がバレてしまうので詳しくは書きませんが
赤塚の合戦(織田VS今川の小競り合い)から
桶狭間への流れはとても興味深いです。

赤塚のあたりは今は墓地なのは古戦場だからだろうかと
子供のころにぼんやりと思ったことがあります。

いいところ
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

桶狭間の近くにお住まいなのですね。
うらやましい。

赤塚は私も行ったことがなく、原稿は史料だけ見て書きました。とくに「三の山」の比定地については確認したわけではありません。
木暮さんは「三之山」という現地名のあたりは行かれたことがあるでしょうか?

またいろいろ教えて下さい。

僭越ながら
木暮兼人
生まれてこの方、ほぼ緑区の鳴海地区在住で
当地での生活は正味30年くらいでしょうか(笑)

作家の方々が現地に赴いて取材をされて
その上でお話を展開されるのは難しいことなのでしょうね
某作家さんなどは「イメージが壊れるから訪れない」とまで
おっしゃっておられました

「三の山」という表現の地名には私は覚えがありませんが
「三王山」という土地は確かに存在します
地元では赤塚合戦よりも松尾芭蕉にちなんだ史蹟で
有名なところだと記憶しています
「千句塚公園」と言うのですが、鳴海城の北側につらなる
丘陵地帯の一端に存在します
同じ敷地内に「鉾の木貝塚」、という史蹟もあるくらいで
旧石器時代は海に面していた土地と私は想像しています。

三王山
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

前回のコメント、うっかりしておりました。
「三王山」でした。訂正していただき、有難うございます。
松尾芭蕉で有名とは知りませんでした。
鳴海城の北側に連なる丘陵地帯とのこと。
多少、比高はあるというか、小高い丘という感じなのでしょうか? そこから東方の赤塚あたりは見えるんでしょうかね?
赤塚も小高い丘のような気もしますが。

地元の方と知り、質問ばかりですみません。

三王山
木暮兼人
いえ、こちらこそ、知ってることしか書くことが出来ず
却って申し訳ありません。

三王山は周辺に比べれば盛り上がった土地ですが
赤塚まで距離があることと、
現状、間に住宅地が挟まっていて
#ここも多少、小高かった記憶があります
本当に三王山から赤塚が俯瞰できるかというと疑問です

多少お時間をいただければ、写真など撮ってまいりますが。
ご希望の地点や方角などおありでしょうか。
ネットで検索した限りでは三王山から赤塚方面を撮影した
写真は見つかりませんでした。

余談になりますが。
緑区在住の有志の方が作成された、鳴海宿の散策コースの地図
(公的に発行された・鳴海の史蹟の地図)は
等高線の書かれた地図がベースになっています。
千句塚公園関連で、三王山も含まれているのですが
それによると三王山と赤塚の間の「山の根」あたりが
多少、小高そうです。
地図をみて「三王山」と「山の根」のつらなりは
どうなっているのかが気になりました。

山王山
かぎや散人
三王山(さんおうやま) 三王社を祀った山ですから、三ノ山とも書かれますが山王山が正しいとされています。
明治二十四年の1/20000地形図によれば、三王山から鳴海城は十分に俯瞰できます。赤塚は新海池の西側辺りをいうわけですが、三王山から尾根続きで同等高線の陰になっているので、尾根を下りれば見通すことはできません。当時の鳴海城から完全に行軍を秘匿して赤塚に九郎次郎が赤塚に集結するには、善照寺砦の南側からその東へ回り込み、そこから北上するコースが可能だったかも知れません。

簡単にこの辺りの地形をいいますと、「。?」型をした尾根をもつ丘陵でして、?の始点が山王山、天辺が標高33mの最高点、弧の右肩が赤塚でその右(東)が新海池、?の点が善照寺砦で、それから左に離れて孤立した「。」が鳴海城です。

ですから、山王山を攻めるには尾根伝いに行くのが最も簡単な攻撃路なのです。迂回でも何でもありません。兵法の常套経路です。おそらく、当時の道も鳴海城から花井~光正寺(光正寺貝塚、室町以前の寺)~赤塚という丘陵上を通っていたものと考えてもよいのではないでしょうか。
しかも三王山には既に信長が付城に相当する陣城(幅5m以上、深さ2m超の堀を有す)を築いていたらしいと『名古屋市史』では考えていますから、それを攻撃するとなると、尾根続きになる赤塚から行くのが自然な選択だと思います。
迂回したわけではありません。山上の砦を下から攻めるよりも、同一標高の尾根から攻めるほうが攻撃正面は狭くなっても、攻めやすいからです。
そう考えますと、九郎次郎は既存の道を通ったとしますと、山王山の信長はこれを知ることができたわけです。

いかがでしょうか?

三王山-赤塚の補足
木暮兼人
歴史読本の方がまだ手に入っていなかったので
お話が見えてない部分がありました。申し訳ありません。

地形についての説明は、かぎや数人様の上記の説明は
大変わかりやすい。
丘の点在する丘陵地帯をどう説明したものか、悩んでおりました。
ただ、鳴海城から赤塚への移動は今の「乙子山」を経由しては
いないでしょうか?
それとも今の地名でいう「光正寺」周辺から「丹下」へ展開したのでしょうか?
右側へ展開したのであれば「乙子山」経由のはずですが
当方、なにより当該の記事を読んでおりませんので・・・
申し訳ありません、取り急ぎ手に入れるようにします。

今日明日あたりで、名古屋市の図書館で史料を紐解いて見ます。


名古屋市史
桐野作人
かぎや散人さん、こんにちは。

三王山についての詳しいご教示有難うございます。
それで、出典の「名古屋市史」ですが、最近刊行された「新修~」ではなく、旧版のほうでしょうか?
もし旧版ならチェック洩れでした。
やはり先行研究でもやられていたのですね。
三王山に付城が築かれたのは、赤塚合戦の頃なのでしょうか? 付城は当然鳴海城が対象ですよね?

三王山に関して管見の限り、目につかなかったので不勉強を恥じ入るばかりです。

山王山陣城
かぎや散人
ご無沙汰しました。
先生の連載は毎号楽しみにしています。

名古屋市史ですが新修の第二巻第五節p622で、丹下砦が築かれるまで機能したと考えられているようです。

赤塚 その2
かぎや散人
最近、江戸期の村絵図を見ていて次のような記載がありましたので、先のコメントを撤回して考え直します。

天保十二年(1841)丑五月の愛知郡鳴海村絵図によると、鳴海神社の北側で現在の乙子山(オトコヤマ)という辺りが「赤塚」となっており、その北が「大塚」、その北が「娵(嫁)ケ茶屋」、その北が「田知山」(その後、伝次山や田地山とも書いた)となっており、その東側が「新海池」とあります。

三ノ山は「三王山」という表示になっています。

問題は、桶狭間合戦当時も同様な地名であったかということと、牛一の書く距離と合致しないことがあります。この場合にはどちらからも600m程度しかありません。

鳴海神社は天武天皇朱鳥元年尊とその御東征を翼賛した尾張氏祖とを併せ祀ってこの所に創建されたとされ、延喜五年制定の律令書「延喜式神名帳」には尾張国愛知郡成海神社と登録せられ、文治二年の「尾張国内神名帳」には従三位上成海天神と称えられています。戦国時代当初の応永年中に、足利氏の武将・安原宗範が字「城」の地に築城するため成海神社を乙子山の現在地に奉遷したともいいます。

ともあれ、戦国時代の「赤塚」が乙子山だとしますと、信長と九郎次郎は山王山と鳴海城のちょうど真ん中あたりで戦ったことになるわけです。

すると、『信長公記』の記事は次のようにも解釈できると思います。

信長は、鳴海城を攻撃するためにその後彼の常套手段となる付城を拵えるために、昔砦があって工事のし易い山王山に陣城を築くために出陣した。

それを見た九郎次郎が、工事を妨害すべく出動してきたために、信長はそうはさせじと、これを迎え撃ったことになるわけです。

つまり、九郎次郎は信長を笠寺の駿河勢と挟撃する目的で出陣したわけなどではないというわけです。

この場合の信長は、笠寺や中村などにも付城を築かせて、山口左馬助や駿河勢を封じ込めていた可能性もあります。たとえば、『尾張徇行記』によれば南区岩戸町の白毫寺のある場所には山崎砦があったといいますが、これなどは桜中村城の山口左馬助を押さえるために佐久間信盛によって築かれたとものとも考えられるかもしれません。つまり、山口氏の寝返りによって大幅に西え伸びた義元の勢力も、中国大陸での日本帝国軍のように、点と線だけの支配であったのかも知れないわけです。

もう一つの問題は、赤塚の地名が移動した時期と謂れです。何方か御存じの方が居られましたら教えていただきたくお願いします。


赤塚
桐野作人
かぎや散人さん、こんにちは。

詳しい考証をご教示いただき、有難うございます。
天保年間の地図によれば、当時と現代とでは、赤塚の位置が違うとのこと。重要なご指摘ですね。

赤塚の位置が違えば、信長の作戦意図も異なってくるのではというお考えも納得です。

その天保12年の地図は何に載っているものでしょうか? 蓬左文庫所蔵でしょうかね。

re赤塚
かぎや散人
徳川黎明会所蔵のものを国書刊行会が出版した徳川黎明会編『尾張国町村絵図・名古屋市編』という村絵図集成です。

御礼
桐野作人
かぎや散人さん、こんにちは。

出典を教えていただき、有難うございます。
細かい史料までご覧になっていますね。
取り急ぎ御礼まで。

展示のお知らせ
市野澤 永
こんばんわ。

お世話になります。

守備範囲の展示がございましたので、お知らせ致します

出雲文化伝承館
特別展 『大名茶人 細川三斎とその周辺』
平成22年 10月 20日(水)~ 11月 28日(日)
図録は3000円http://www.city.izumo.shimane.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1117845552536&SiteID=0000000000000

大府市歴史民俗資料館
企画展1560年 桶狭間の戦いと知多北部」
2010年12月14日(火)~2011年1月16日(日)
http://www.city.obu.aichi.jp/rekimin/index.html

長宗曽我氏関連の新出史料が発表されましたね。
土佐山内家宝物資料館で現在、開催中の特別展で見れるようですね。

情報御礼
桐野
市野澤さん

また情報提供有難うございます。
とくに大府市の桶狭間展示が興味深いですね。
今月の名古屋での講座が終わってから見に行けると思ったら、今回はめったにない祝日開催で、資料館は休館日ですね。残念です。

発行物
市野澤 永
こんばんわ。


お世話になります。

>大府市の桶狭間展示

発行物は入館時に配布しているリーフレット
(A4・4頁)のみだそうです。



情報御礼
桐野
市野澤さん

大府市の展示会情報有難うございます。
図録でもあればと思いましたが、リーフレットでは展示の全容をつかむのはおそらく難しいでしょうね。
無理してでも行くべきか?


市野澤 永
こんばんわ。

>無理してでも行くべきか?

企画展「1560年~桶狭間の戦いと知多北部」につきましては、
1階展示室にて開催している小規模な展示会だそうで、
展示品は他の博物館等からの借用展示品が主となっているそうです。
このため、発行物は入館時に配布しているリーフレット(A4判・4ページ)のみと伺っております。
リーフレットは、展示概要と展示品一覧等を載せたものですが、
希望者には郵送またはEメールにしてお送してしてくれるそうです。
親切な対応で大変感じ入りました。

ご参考までに。

特別シンポジウム「桶狭間を語る!!」
市野澤 永
1月23日(日)に静岡にて開催される
「第1回静岡戦国祭」
第三会場の静岡県立図書館で行われる
特別シンポジウム「桶狭間を語る!!」
は事前の申込が必要ということで
今月11日から受け付けるそうです。
定員270名、先着順。
http://shizuokasengokup.com/event/outline.html



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桶狭間合戦
実は私の家と実家は桶狭間合戦の史蹟が
点在している真ん中にありまして
そのご縁で少しばかり史蹟を取材したこともあります。

勉強不足がバレてしまうので詳しくは書きませんが
赤塚の合戦(織田VS今川の小競り合い)から
桶狭間への流れはとても興味深いです。

赤塚のあたりは今は墓地なのは古戦場だからだろうかと
子供のころにぼんやりと思ったことがあります。
2008/05/06(Tue) 00:31 | URL  | 木暮兼人 #wRRLtgnQ[ 編集]
いいところ
木暮兼人さん、こんにちは。

桶狭間の近くにお住まいなのですね。
うらやましい。

赤塚は私も行ったことがなく、原稿は史料だけ見て書きました。とくに「三の山」の比定地については確認したわけではありません。
木暮さんは「三之山」という現地名のあたりは行かれたことがあるでしょうか?

またいろいろ教えて下さい。
2008/05/06(Tue) 18:34 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
僭越ながら
生まれてこの方、ほぼ緑区の鳴海地区在住で
当地での生活は正味30年くらいでしょうか(笑)

作家の方々が現地に赴いて取材をされて
その上でお話を展開されるのは難しいことなのでしょうね
某作家さんなどは「イメージが壊れるから訪れない」とまで
おっしゃっておられました

「三の山」という表現の地名には私は覚えがありませんが
「三王山」という土地は確かに存在します
地元では赤塚合戦よりも松尾芭蕉にちなんだ史蹟で
有名なところだと記憶しています
「千句塚公園」と言うのですが、鳴海城の北側につらなる
丘陵地帯の一端に存在します
同じ敷地内に「鉾の木貝塚」、という史蹟もあるくらいで
旧石器時代は海に面していた土地と私は想像しています。
2008/05/06(Tue) 23:59 | URL  | 木暮兼人 #gC8uIuwI[ 編集]
三王山
木暮兼人さん、こんにちは。

前回のコメント、うっかりしておりました。
「三王山」でした。訂正していただき、有難うございます。
松尾芭蕉で有名とは知りませんでした。
鳴海城の北側に連なる丘陵地帯とのこと。
多少、比高はあるというか、小高い丘という感じなのでしょうか? そこから東方の赤塚あたりは見えるんでしょうかね?
赤塚も小高い丘のような気もしますが。

地元の方と知り、質問ばかりですみません。
2008/05/07(Wed) 15:47 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
三王山
いえ、こちらこそ、知ってることしか書くことが出来ず
却って申し訳ありません。

三王山は周辺に比べれば盛り上がった土地ですが
赤塚まで距離があることと、
現状、間に住宅地が挟まっていて
#ここも多少、小高かった記憶があります
本当に三王山から赤塚が俯瞰できるかというと疑問です

多少お時間をいただければ、写真など撮ってまいりますが。
ご希望の地点や方角などおありでしょうか。
ネットで検索した限りでは三王山から赤塚方面を撮影した
写真は見つかりませんでした。

余談になりますが。
緑区在住の有志の方が作成された、鳴海宿の散策コースの地図
(公的に発行された・鳴海の史蹟の地図)は
等高線の書かれた地図がベースになっています。
千句塚公園関連で、三王山も含まれているのですが
それによると三王山と赤塚の間の「山の根」あたりが
多少、小高そうです。
地図をみて「三王山」と「山の根」のつらなりは
どうなっているのかが気になりました。
2008/05/08(Thu) 00:02 | URL  | 木暮兼人 #gC8uIuwI[ 編集]
山王山
三王山(さんおうやま) 三王社を祀った山ですから、三ノ山とも書かれますが山王山が正しいとされています。
明治二十四年の1/20000地形図によれば、三王山から鳴海城は十分に俯瞰できます。赤塚は新海池の西側辺りをいうわけですが、三王山から尾根続きで同等高線の陰になっているので、尾根を下りれば見通すことはできません。当時の鳴海城から完全に行軍を秘匿して赤塚に九郎次郎が赤塚に集結するには、善照寺砦の南側からその東へ回り込み、そこから北上するコースが可能だったかも知れません。

簡単にこの辺りの地形をいいますと、「。?」型をした尾根をもつ丘陵でして、?の始点が山王山、天辺が標高33mの最高点、弧の右肩が赤塚でその右(東)が新海池、?の点が善照寺砦で、それから左に離れて孤立した「。」が鳴海城です。

ですから、山王山を攻めるには尾根伝いに行くのが最も簡単な攻撃路なのです。迂回でも何でもありません。兵法の常套経路です。おそらく、当時の道も鳴海城から花井~光正寺(光正寺貝塚、室町以前の寺)~赤塚という丘陵上を通っていたものと考えてもよいのではないでしょうか。
しかも三王山には既に信長が付城に相当する陣城(幅5m以上、深さ2m超の堀を有す)を築いていたらしいと『名古屋市史』では考えていますから、それを攻撃するとなると、尾根続きになる赤塚から行くのが自然な選択だと思います。
迂回したわけではありません。山上の砦を下から攻めるよりも、同一標高の尾根から攻めるほうが攻撃正面は狭くなっても、攻めやすいからです。
そう考えますと、九郎次郎は既存の道を通ったとしますと、山王山の信長はこれを知ることができたわけです。

いかがでしょうか?
2008/05/08(Thu) 08:18 | URL  | かぎや散人 #jOGvZT7o[ 編集]
三王山-赤塚の補足
歴史読本の方がまだ手に入っていなかったので
お話が見えてない部分がありました。申し訳ありません。

地形についての説明は、かぎや数人様の上記の説明は
大変わかりやすい。
丘の点在する丘陵地帯をどう説明したものか、悩んでおりました。
ただ、鳴海城から赤塚への移動は今の「乙子山」を経由しては
いないでしょうか?
それとも今の地名でいう「光正寺」周辺から「丹下」へ展開したのでしょうか?
右側へ展開したのであれば「乙子山」経由のはずですが
当方、なにより当該の記事を読んでおりませんので・・・
申し訳ありません、取り急ぎ手に入れるようにします。

今日明日あたりで、名古屋市の図書館で史料を紐解いて見ます。
2008/05/08(Thu) 10:50 | URL  | 木暮兼人 #gC8uIuwI[ 編集]
名古屋市史
かぎや散人さん、こんにちは。

三王山についての詳しいご教示有難うございます。
それで、出典の「名古屋市史」ですが、最近刊行された「新修~」ではなく、旧版のほうでしょうか?
もし旧版ならチェック洩れでした。
やはり先行研究でもやられていたのですね。
三王山に付城が築かれたのは、赤塚合戦の頃なのでしょうか? 付城は当然鳴海城が対象ですよね?

三王山に関して管見の限り、目につかなかったので不勉強を恥じ入るばかりです。
2008/05/09(Fri) 18:07 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
山王山陣城
ご無沙汰しました。
先生の連載は毎号楽しみにしています。

名古屋市史ですが新修の第二巻第五節p622で、丹下砦が築かれるまで機能したと考えられているようです。
2008/05/09(Fri) 19:27 | URL  | かぎや散人 #jOGvZT7o[ 編集]
赤塚 その2
最近、江戸期の村絵図を見ていて次のような記載がありましたので、先のコメントを撤回して考え直します。

天保十二年(1841)丑五月の愛知郡鳴海村絵図によると、鳴海神社の北側で現在の乙子山(オトコヤマ)という辺りが「赤塚」となっており、その北が「大塚」、その北が「娵(嫁)ケ茶屋」、その北が「田知山」(その後、伝次山や田地山とも書いた)となっており、その東側が「新海池」とあります。

三ノ山は「三王山」という表示になっています。

問題は、桶狭間合戦当時も同様な地名であったかということと、牛一の書く距離と合致しないことがあります。この場合にはどちらからも600m程度しかありません。

鳴海神社は天武天皇朱鳥元年尊とその御東征を翼賛した尾張氏祖とを併せ祀ってこの所に創建されたとされ、延喜五年制定の律令書「延喜式神名帳」には尾張国愛知郡成海神社と登録せられ、文治二年の「尾張国内神名帳」には従三位上成海天神と称えられています。戦国時代当初の応永年中に、足利氏の武将・安原宗範が字「城」の地に築城するため成海神社を乙子山の現在地に奉遷したともいいます。

ともあれ、戦国時代の「赤塚」が乙子山だとしますと、信長と九郎次郎は山王山と鳴海城のちょうど真ん中あたりで戦ったことになるわけです。

すると、『信長公記』の記事は次のようにも解釈できると思います。

信長は、鳴海城を攻撃するためにその後彼の常套手段となる付城を拵えるために、昔砦があって工事のし易い山王山に陣城を築くために出陣した。

それを見た九郎次郎が、工事を妨害すべく出動してきたために、信長はそうはさせじと、これを迎え撃ったことになるわけです。

つまり、九郎次郎は信長を笠寺の駿河勢と挟撃する目的で出陣したわけなどではないというわけです。

この場合の信長は、笠寺や中村などにも付城を築かせて、山口左馬助や駿河勢を封じ込めていた可能性もあります。たとえば、『尾張徇行記』によれば南区岩戸町の白毫寺のある場所には山崎砦があったといいますが、これなどは桜中村城の山口左馬助を押さえるために佐久間信盛によって築かれたとものとも考えられるかもしれません。つまり、山口氏の寝返りによって大幅に西え伸びた義元の勢力も、中国大陸での日本帝国軍のように、点と線だけの支配であったのかも知れないわけです。

もう一つの問題は、赤塚の地名が移動した時期と謂れです。何方か御存じの方が居られましたら教えていただきたくお願いします。
2008/07/05(Sat) 23:40 | URL  | かぎや散人 #jOGvZT7o[ 編集]
赤塚
かぎや散人さん、こんにちは。

詳しい考証をご教示いただき、有難うございます。
天保年間の地図によれば、当時と現代とでは、赤塚の位置が違うとのこと。重要なご指摘ですね。

赤塚の位置が違えば、信長の作戦意図も異なってくるのではというお考えも納得です。

その天保12年の地図は何に載っているものでしょうか? 蓬左文庫所蔵でしょうかね。
2008/07/06(Sun) 12:22 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
re赤塚
徳川黎明会所蔵のものを国書刊行会が出版した徳川黎明会編『尾張国町村絵図・名古屋市編』という村絵図集成です。
2008/07/06(Sun) 21:57 | URL  | かぎや散人 #jOGvZT7o[ 編集]
御礼
かぎや散人さん、こんにちは。

出典を教えていただき、有難うございます。
細かい史料までご覧になっていますね。
取り急ぎ御礼まで。
2008/07/07(Mon) 22:28 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
展示のお知らせ
こんばんわ。

お世話になります。

守備範囲の展示がございましたので、お知らせ致します

出雲文化伝承館
特別展 『大名茶人 細川三斎とその周辺』
平成22年 10月 20日(水)~ 11月 28日(日)
図録は3000円http://www.city.izumo.shimane.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1117845552536&SiteID=0000000000000

大府市歴史民俗資料館
企画展1560年 桶狭間の戦いと知多北部」
2010年12月14日(火)~2011年1月16日(日)
http://www.city.obu.aichi.jp/rekimin/index.html

長宗曽我氏関連の新出史料が発表されましたね。
土佐山内家宝物資料館で現在、開催中の特別展で見れるようですね。
2010/12/11(Sat) 18:30 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
情報御礼
市野澤さん

また情報提供有難うございます。
とくに大府市の桶狭間展示が興味深いですね。
今月の名古屋での講座が終わってから見に行けると思ったら、今回はめったにない祝日開催で、資料館は休館日ですね。残念です。
2010/12/12(Sun) 23:35 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
発行物
こんばんわ。


お世話になります。

>大府市の桶狭間展示

発行物は入館時に配布しているリーフレット
(A4・4頁)のみだそうです。

2010/12/18(Sat) 00:09 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
情報御礼
市野澤さん

大府市の展示会情報有難うございます。
図録でもあればと思いましたが、リーフレットでは展示の全容をつかむのはおそらく難しいでしょうね。
無理してでも行くべきか?
2010/12/19(Sun) 00:34 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんわ。

>無理してでも行くべきか?

企画展「1560年~桶狭間の戦いと知多北部」につきましては、
1階展示室にて開催している小規模な展示会だそうで、
展示品は他の博物館等からの借用展示品が主となっているそうです。
このため、発行物は入館時に配布しているリーフレット(A4判・4ページ)のみと伺っております。
リーフレットは、展示概要と展示品一覧等を載せたものですが、
希望者には郵送またはEメールにしてお送してしてくれるそうです。
親切な対応で大変感じ入りました。

ご参考までに。
2010/12/19(Sun) 01:39 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
特別シンポジウム「桶狭間を語る!!」
1月23日(日)に静岡にて開催される
「第1回静岡戦国祭」
第三会場の静岡県立図書館で行われる
特別シンポジウム「桶狭間を語る!!」
は事前の申込が必要ということで
今月11日から受け付けるそうです。
定員270名、先着順。
http://shizuokasengokup.com/event/outline.html

2011/01/10(Mon) 00:10 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
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