歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

横浜市根岸にある馬の博物館(根岸競馬記念公苑)。

現在、次の展示を開催中です。

春季特別展「ホースパレード ~華やかなる日本の行列~」  第2・3展示室

展示会の概要については、ここをご覧下さい。

なお、今月10日(土)午後2時から、同館で私の講演もあります。
関東方面で時間と関心のある方は、ご出席下さいませ。

詳しくはここにあります。

天正9年(1581)、洛中で挙行された信長の馬揃えについてお話します。
馬揃えは信長が正親町天皇の希望に応えて開催したものだと思いますが、研究者によっては、そうではなく、信長が朝廷に軍事的圧力をかける目的で行ったのだという見解もあります。織田権力期における公武対立の重大事件というとらえ方です。
そうした見方は果たしてどうでしょうか。まあ、馬揃えが実際に開かれるいきさつなどを考えれば、おのずからわかることだと思います。

なお、この馬揃えは朝廷の左大臣推任と、それに対する信長の譲位取り計らいという、織田権力末期の重要な公武交渉のきっかけにもなりました。むろん、そのあたりにも触れる予定です。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
スポンサーサイト

【2008/05/06 21:37】 | イベント
トラックバック(0) |

腹立事件と馬揃え
Tm.
お久しぶりです桐野先生。
歴読の連載、毎号楽しみに拝読させていただいております。
10日の講演には是非とも出席させていただきたいと思っていますが、事前に愚見を延べさせていただきたいと思います。

>馬揃えは信長が正親町天皇の希望に応えて開催したもの
 だと思いますが、

とのことですが、立花さんの「左義長から馬揃えへのすり替え」論については明らかに飛躍し過ぎた発想であり、自分もそれが、信長が朝廷=正親町天皇に対して軍事的圧力をかける目的行なったとは思っていません。ただしかし、「天皇の希望」が本当に天皇の自発によるものと断じることが出来るのでしょうか。

『お湯殿』によれば織田方に「天皇の希望」が伝えられたのは天正9年の1月24日のことですが、その前日には光秀に対し「京都馬揃え」への指示が出されており、同日には安土での爆竹(左義長)に参加した近衛前久の息子・信基が参賀していることからすれば、天皇の希望の以前に「織田方の開催希望」があり、前年暮れの新大典侍薨去による重苦しい雰囲気の払拭を望んでいた天皇の思いと一致し、結果、「天皇の希望」の申し入れになったというのが真相なのではないでしょうか。

その場合に考えるべきなのが「織田方の開催希望」の意図であり、京都での馬揃えに、広く天下に織田権力の権勢を誇示する目的があったことは言うまでもありませんが、何故それがその時にであったのでしょうか。織田方にも朝廷側と同じ思いが有ったのでしょうか。

一つには、前年に石山本願寺との和睦が成り天下平定の障害の一つが取り除かれたことが挙げられのかも知れませんが、自分は、その際に起きた誠仁親王への「立腹事件」が関連しているのではないかと考えております。
信長としては自分の意に異を唱えた親王に対し何らかの態度を示す必要がり、また同じ頃、嫡男・信忠との間にも不和を生じていたことから、親王の父である天皇の意向(威光)を利用することは一石二鳥の効果があったのではないでしょうか。


>なお、この馬揃えは朝廷の左大臣推任と、それに対する信長の
 譲位取り計らいという、織田権力末期の重要な公武交渉の
 きっかけにもなりました。

「金神」の件も研究者によって見解が分かれていますが、信長は親王に対し「即位」をちら尽かし、結局は延期=取り消すことで追い討ち?を掛けたのではないかと思います。
天皇のアンコールによって行なわれたハズの二回目の馬揃えの様子と、それに対する『お湯殿』の素っ気無い記述が、真さにその辺を物語っているのではないでしょうか。


長々と愚考を述べさせていただきましたが、10日の講演、楽しみにしております。

自発
桐野作人
Tm.さん、こんばんは。

コメントいただいた件ですが、講演内容に関わることなので、先走るのもどうかと思います。

ただ、正親町天皇の「自発」か否かという点について、前提となる点を確認しておきます。
信長のやる左義長は宮廷でやる左義長とは異なっているのは明らかで、正親町天皇もあらかじめ、その違いを認識していいたはずで、誰かがそれを天皇の耳に入れたということでしょう。
そのとき、単に情報伝達だけでなく、よろしかったら気晴らしにご覧になったらどうですかといった慫慂があったとして、それが「強制」と同義だとは限らないと思います。

仮に強制があったとしても、健康上や服喪などを理由に、天皇はいくらでも断れるはずですから。

とりあえず、この場ではこれくらいで。
土曜日は参加されるそうで、有難うございます。


管理人のみ閲覧できます
-


コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
腹立事件と馬揃え
お久しぶりです桐野先生。
歴読の連載、毎号楽しみに拝読させていただいております。
10日の講演には是非とも出席させていただきたいと思っていますが、事前に愚見を延べさせていただきたいと思います。

>馬揃えは信長が正親町天皇の希望に応えて開催したもの
 だと思いますが、

とのことですが、立花さんの「左義長から馬揃えへのすり替え」論については明らかに飛躍し過ぎた発想であり、自分もそれが、信長が朝廷=正親町天皇に対して軍事的圧力をかける目的行なったとは思っていません。ただしかし、「天皇の希望」が本当に天皇の自発によるものと断じることが出来るのでしょうか。

『お湯殿』によれば織田方に「天皇の希望」が伝えられたのは天正9年の1月24日のことですが、その前日には光秀に対し「京都馬揃え」への指示が出されており、同日には安土での爆竹(左義長)に参加した近衛前久の息子・信基が参賀していることからすれば、天皇の希望の以前に「織田方の開催希望」があり、前年暮れの新大典侍薨去による重苦しい雰囲気の払拭を望んでいた天皇の思いと一致し、結果、「天皇の希望」の申し入れになったというのが真相なのではないでしょうか。

その場合に考えるべきなのが「織田方の開催希望」の意図であり、京都での馬揃えに、広く天下に織田権力の権勢を誇示する目的があったことは言うまでもありませんが、何故それがその時にであったのでしょうか。織田方にも朝廷側と同じ思いが有ったのでしょうか。

一つには、前年に石山本願寺との和睦が成り天下平定の障害の一つが取り除かれたことが挙げられのかも知れませんが、自分は、その際に起きた誠仁親王への「立腹事件」が関連しているのではないかと考えております。
信長としては自分の意に異を唱えた親王に対し何らかの態度を示す必要がり、また同じ頃、嫡男・信忠との間にも不和を生じていたことから、親王の父である天皇の意向(威光)を利用することは一石二鳥の効果があったのではないでしょうか。


>なお、この馬揃えは朝廷の左大臣推任と、それに対する信長の
 譲位取り計らいという、織田権力末期の重要な公武交渉の
 きっかけにもなりました。

「金神」の件も研究者によって見解が分かれていますが、信長は親王に対し「即位」をちら尽かし、結局は延期=取り消すことで追い討ち?を掛けたのではないかと思います。
天皇のアンコールによって行なわれたハズの二回目の馬揃えの様子と、それに対する『お湯殿』の素っ気無い記述が、真さにその辺を物語っているのではないでしょうか。


長々と愚考を述べさせていただきましたが、10日の講演、楽しみにしております。
2008/05/07(Wed) 21:02 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
自発
Tm.さん、こんばんは。

コメントいただいた件ですが、講演内容に関わることなので、先走るのもどうかと思います。

ただ、正親町天皇の「自発」か否かという点について、前提となる点を確認しておきます。
信長のやる左義長は宮廷でやる左義長とは異なっているのは明らかで、正親町天皇もあらかじめ、その違いを認識していいたはずで、誰かがそれを天皇の耳に入れたということでしょう。
そのとき、単に情報伝達だけでなく、よろしかったら気晴らしにご覧になったらどうですかといった慫慂があったとして、それが「強制」と同義だとは限らないと思います。

仮に強制があったとしても、健康上や服喪などを理由に、天皇はいくらでも断れるはずですから。

とりあえず、この場ではこれくらいで。
土曜日は参加されるそうで、有難うございます。
2008/05/07(Wed) 22:46 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2008/05/14(Wed) 17:27 |   |  #[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。