歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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日次記です。

5月7日(水)丁未 天晴
午前中、霞会館に行く。
大久保利泰氏と面談。
甲東祭の資料写真を見せていただく。昭和30年代の大久保家旧邸が鮮やかに蘇っていた。
新聞連載の関係で、大久保利通の長男利和と二男牧野伸顕の幼少の頃の写真を拝借した。
岩倉使節団で渡米したときのフィラデルフィア時代のもの。
13歳と11歳で、凛々しいながら、とてもかわいい。
10日(土)の「さつま人国誌」に掲載予定。

5月8日(木)庚戌 天晴
10日の馬の博物館での講演レジュメに四苦八苦。
結局、枚数が多くなってしまった。主催者側にも、聴講者のみなさんにも負担をかけそう。
でも、馬揃えの意義を語るには、左大臣推任や譲位問題に触れないわけにはいかず、致し方ない。諒としていただきたい。

5月10日(金)己酉 天晴
来週火曜日から鹿児島への史跡ツアーが始まる。そのための細々とした準備に忙殺された。
来週はほとんど自宅にいないから、あらかじめ来週分の仕事を済ましておかないといけない。てんてこ舞いとはこのこと。

息抜きに自宅庭にたわわに稔ったサクランボを収穫。
お隣さんの敷地に枝が伸びていたので、その分を剪定し、実を付けたまま差し上げる。迷惑料として。
通りがかりのおばさんが興味津々で尋ねてくるので、次々に差し上げる。どっちにしろ、食べきれないのだ。
あとは鳥が食べてくれるだろう。でも、完熟期を狙って、カラスが大群でやってくるのは何とも。いつぞや樹がまっ黒になっていたのには驚いた。

京王のツアーが応募者殺到で、いくつか追加興行と相成る。
有難い話だが、何かと大変である。

信長ものの企画も大変だ。
最近はレジュメか企画書かガイドブックばかり書いているような気がする(爆)。

ネットで申し込んでいた古書やCDが届く。
CDは懐かしの70年代ものが多い。ベスト盤なのは致し方ないが、意外とリーズナブルだった。

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【2008/05/09 18:02】 | 日次記
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ぶるぼん
桐野先生、このたびは急な締め切りが入ってしまい、馬の博物館の講演会に行けず申し訳ありませんでした。
せっかくお会いできるチャンスだったのですが。別の機会でぜひお会いできることを期待しています。

御料所代官の交替要求
Tm.
桐野先生、講演お疲れ様でした。

今回のお話のなかでは特に、『お湯殿』天正9年1月4日の条に正親町天皇の側室格であるべき大典侍・万理小路房子について「女院」との表記が見られるとご指摘に興味が惹かれました。
そのことからも先生は、誠仁親王(房子の子)が当時既に実質的に「天皇」として見られていたことの例証に挙げられておられましたが、ただ『お湯殿』の場合は宮中女房の記録ということで、房子に対する天皇の寵愛が一際深かかったことが反映され、薨去した彼女を実質的に「女御」であったと見てそのような表現がなされたものであり、親王に対する巷間の認識とはまた別のものではないかとも思われますが如何でしょう。

親王が実質的にも「天皇」として(天皇は「上皇」?として)振舞っていたのも事実でしょうが、一方で『お湯殿』は親王を「宮の御かた」と記していることも事実であり、譲位が成されていない上ではあくまで「東宮(皇太子)」であり、それだけに朝廷としても一刻も早い譲位、即位が望まれていたのでしょね。

さて質問の際には上手く説明できなかった「腹立事件」の流れでの「御料所代官の交替要求」についてですが、『お湯殿』天正8年8月15日の条に次ぎのようにあります。
  むら井より御れい所のたいくわんともみな(みな)かへのよし申。
  よへ御れい所の事に。宮のかたより文しん大すけとのまてまいる。
  御きもいりに上せうゐんをニてうへまいらせるヽ。
元は言えば、この問題は3年前に端を発するもののようであり(『お湯殿』天正5年2月7-8日の条)、そのときには天皇の意向によって代官の交替が行なわれています。
村井貞勝はその折の「三ねんきうあん(阿野休庵)もち(待ち)」との約定を実行したものと考えられますが問題は何故それが「腹立事件」直後に持ち出されているのかということです。

そもそも「休庵の三年待ち」というのが誰の意向なのかということもあり、自分はどうも貞勝の調停ではなかったのかと考えますが、よしんば天皇の裁定であったとしても、「安土山図屏風」を高覧に供し賛辞の勅書を要求した翌日にそのような要求を申し入れるというのは唐突過ぎるやに思われますし、何よりそれが信長が大坂への検分に下る当日であったというのも気にかかります。
しかも、交替させられる公家公家の八人の半数(※飛鳥井雅継は不明)が親王の側近であり、それが親王から大典侍への書状に関わるのではないかと推察されます。
それはすなわち、「腹立事件」でこじれた?関係の修復と言うより、逆に信長が主権の再確認を迫った行為であったと見るべきではないでしょうか。

実際に「腹立事件」が何時起きたかは不明ですが、同じころに石山本願寺が焼失するという事件が起きており、それを落ち度に(それだけではないのですが)佐久間親子が追放され、続いて三人の重臣たちの追放までもが行われているなかでそうした出来事があった訳ですから、このときの信長は不機嫌の極みにあったのではないかと思われます。
また、信長が嫡男・信忠から能道具や津田宗及から文琳の茶壷を取り上げたのはそれから程なくしてのことと思われ、信忠との和解が翌9年7月に(『お湯殿』)、そして宗及への返還が8月と伝えられている(『宗及茶会記』)ことも見過ごせません。

つまり自分としては、馬揃の背景はそう単純なものではなく、信長自身が人間関係に様々な問題を抱えているなかでそれらを解決すべく行ったのではないかと考えるものです。


また長々と愚見を述べてしまいましたが、今後もまた講演(信長関連でですが)のあることを楽しみにしております。


講演、お疲れ様でした!
織田 創
地元神奈川で桐野先生の講演ということで、参加させていただきました。数分遅刻しての入場申し訳ありませんでした。

普段あまり目にすることの出来ない史料に解説も加えていただきいろいろと勉強になりました。ありがとうございます。
また、このような講演が開かれるのを楽しみにしています。

講演拝聴しました
ぴえーる
先日の講演、途中からですが拝聴しました。
馬揃えとその周辺の話題に関して知らなかった史料や事実を多々学ぶことができました。
時間も無く、馬揃えからも離れる話題なので質問は控えたのですが、譲位や金神を持ち出してまで信長が左大臣任官を避けたのはなぜなのか、お考えを伺いたいです。
講演の中ではその辺の説明が無かったように記憶していますので(記憶違いでしたら申し訳ありません)。

『お湯殿』2月1日の条
Tm.
追申です。

改めて「馬揃」について論じた論文に目を通したところ、今回のレジュメには採録されていなかったのですが、『お湯殿』2月1日の条に、中山親綱が誠仁親王に「こんと馬のりのふれのかきたて」を見せたところ、親王もまた「御うれしきよし申」されたとの記述がありました。
橋本政宣氏(『近世公家社会の研究』)によれば、「かきたて」とは例の光秀宛ての朱印状ではないかとのことであり、とすれば、親王もまた「馬揃」を楽しみにしていたのは間違いないようですね。

ただその上でなお指摘すべき点があるとすれば、3月5日の2回目の「馬揃」を見物する皇族、公家衆の描写について『信長(公)記』と『兼見』に相違が見られることであり、前者が前回同様であったように伝えるのに対し、後者の記述からは前回とは打って変わって簡素なものであっと見られ、親王も忍んでまて見たかったというより、そうせざるを得なかったと見るべきでなのではないかと思われます。
『お湯殿』が「むまそろへひんかしにてあり」と素っ気無い記述に止めているのも、2回目の「馬揃」が必ずしも望まれたものではなかったことを物語っているのではないでしょうか。

つまり、2回目の「馬揃」には1回目のそれとは異なる意図が込められており、と言うより、本来、秘められていた意図を全面に打ち出して行われたものであり、朝廷方でもそれを感じ取っていたことが『兼見』の如き状況に現れているのではないでしょうか。


講演お疲れさまでした
板倉丈浩
いつもお世話になっております。
さて、レジュメが厚くなったと聞いて(笑)、急遽参加・拝聴させていただきました。
期待に違わず充実した内容で、特に『言継卿記』永禄13年(元亀元年)3月17日の記事にある、徳川家臣50人の騎乗披露(見物人2万人!)が先例となっていたのではないかという指摘は、管見の限りこれまでに無いもので、非常に斬新なものでした。

長文で恐縮ですが、レジュメの項目ごとに気になった点を列挙しておきます。

(1)明智光秀あて信長朱印状の異同について

史料を丁寧に読む桐野さんならではの指摘だなあと感心して聞いておりました。
ただ、帰宅して関連書籍を読み返しておりましたら、橋本政宣氏が『近世公家社会の研究』p175~176で同様な指摘をしていましたね(^^;
(追記)立花京子氏の『信長権力と朝廷 第二版』のp280にも同様な指摘がありました。

(2)戦場に出る公家衆:陣参公家衆

信長政権は朝廷と室町幕府の関係を引き継いでいる側面があり、「馬揃え」は公家衆や旧公方衆も含めた軍事力再編成でもあったということで、なるほどと思いました。

ただ、禅宗五山住持への公帖発給のように、追放された将軍義昭が権限を保持し続けている分野もあったこと、秀吉政権には陣参公家衆に相当するものが存在しなかったことも指摘しておきたいと思います。

(3)馬揃の発端は何か

史料的には朝廷側の自発的希望とあるが、信長側にも生母の死に悲しむ誠仁親王を励ます意図があったのではないかという堀新氏の説に沿ったご説明でした。

ちょっと思い出したのは、戦国期の左義長(三毬打)というのは朝廷と京都民衆を結びつける重要行事であったという清水克行氏の指摘でして(「戦国期における禁裏空間と都市民衆」日本史研究426)、親王個人への激励というよりは「何か派手なイベントをやってほしい」という一般的なニーズがあったようにも思えますがいかがでしょう。

(4)信長が目指したものは何か

左大臣推任と譲位問題は随伴事象であって、譲位は朝廷側の希望であり、「金神により譲位延期」を申し出たのは信長側だった、という立花京子氏や堀新氏の説に沿ったご説明だったと思います。

以前から引っかかっていたのは、ではなぜ朝廷側が熱望する譲位が実現しなかったのかということなんですが、立花氏や堀氏はこの点あまり明確ではありません。
橋本政宣氏は譲位に伴う財政負担を理由に挙げていますが、問題が提起されてから実に10年近くも先送りを繰り返すのは、それなりの政治的理由があったと考えるべきでしょう。
桐野さんは統一戦争による多忙が理由ではないかというご説明でしたが、後の秀吉政権下において天下統一前の天正14年に譲位が実現していることをどう考えるか。

で、ここからは私見ですが、

・戦国期の室町幕府が一貫して生前譲位を認めていなかったこと
・正親町天皇の即位が将軍不在により、なかなかできなかったこと
・秀吉による五山公帖発給(前述)の開始と正親町天皇の譲位実現がほぼ同時期であること

を併せて考えると、室町幕府を完全に否定して自分が取って代わることを信長は躊躇していたように思えます。
譲位問題については、「誠仁親王の即位」「義昭の引退」「義尋(義昭の子)の将軍襲職」を同時に実現する構想を信長が持っており、それゆえになかなか実現しなかったのだとする朝尾直弘氏の説に魅力を感じています。


Tm.
板倉さんこんにちは。
当日は、事前の準備もちゃんとせず要点を得ない質問で、余計なお時間を摂らせてすいませんでした(笑

家康の「馬揃」については、以前ヤフーの掲示板の方でも触れたことがあり、何方かの論文で知ったのかも知れませんが思い出せません。
かなりの評判を呼んだようですが『信長(公)記』には記されておらず、信長がそれを如何に思ったか興味を持たれるところですが、後々の「馬揃」に繋がっていたのではないかと自分も思っています。


>室町幕府を完全に否定して自分が取って代わることを
 信長は躊躇していたように思えます。

とのことですが、おそらく信長も義昭追放直後はその様に考えていたと思います。ただ、蘭奢待の切り取り辺りから義尋の擁立については考えを改め、信長は自身の政権創りを模索し始めたと考えられます。信雄の将軍任官が噂(『尋憲記』天正2年3月24日の条)されたのもそれを窺わせるものと存じます。

その上で譲位が遅々として進まなかった理由としては、信忠の官位昇進が絡んでいると自分は考えます。信長としては、息子の信忠を将軍とした上で譲位を図る心算があったのでしょう。
天正10年の三職推任の際に晴豊が特に将軍を推したのも、そうした経緯を察してのことだ思います。

ただ朝廷としては信忠を将軍に任官する名分がなく、信長もそれを強要出来なかったことが譲位の進まなかった真の理由だと思います。


レスありがとうございます
板倉丈浩
Tm. さん、こんばんは。
熱心に質問されている後姿を拝見しましたが、よく調べていらっしゃいますねえ。

>家康の「馬揃」については、以前ヤフーの掲示板の方でも触れたことがあり

これも全然知りませんでした(汗)

>信長としては、息子の信忠を将軍とした上で譲位を図る心算があったのでしょう

確かに信長が天正6年に右大臣を辞したときに信忠への顕職譲与を要望していますが、その後も信忠は全く昇進しておらず、信長の後継者として礼遇されているものの、昇進は話題にすら上っていませんので、結局は建前論だったのではないでしょうか。

このへんは意見が分かれるでしょうが、敵対し続けた義昭が最後まで解官されなかったことから見ても、信長が朝廷と協調しながらも義昭との和解という選択肢を棄てきれなかったのに対し、朝廷は信長を早く将軍にして譲位(=朝家再興)を実現したいと考えており、そのへんに行き違いがあったんじゃないかという印象を私は持っています。

中将さま 被成御光儀候
Tm.
板倉さんどうも。

>確かに信長が天正6年に右大臣を辞したときに信忠への顕職譲与を要望していますが、
 その後も信忠は全く昇進しておらず、信長の後継者として礼遇されているものの、
 昇進は話題にすら上っていませんので、結局は建前論だったのではないでしょうか。

安土城天主倒壊?の件で述べたかと思いますが、本来、天正6年という年は織田政権?にとって一大転機となるハズではなかったかと自分は考えています。

4月9日に信長が両官を辞任する直前、信忠は連枝衆、滝川一益、明智光秀ら重臣、近江、若狭、五畿内の軍勢を率い大坂へ出陣していますか、それは当に顕職譲与の為のアピールなのではないでしょうか。
また、『宗及茶湯日記』の4月20日の記述によれば、その日、妙覚寺で信忠主催の茶会が行われ、佐久間親子から献上された茶道具のお開きが行われていますが、それらは先の出馬を受け、顕職譲与(内定)を祝うものであったのではないかと思われます。

結局、直後に出陣した播磨攻略が思わしくなく、荒木村重の謀叛などもあり西国平定が膠着状態に陥り、その後も佐久間親子の処分を巡ってと思われる信長と不和もあり、信忠への顕職譲与(昇進)は実行されなかったのではないかと推察されます。

誠仁親王のへの譲位もまた、それに吊られる形で延びてしまったものと考えています。


>このへんは意見が分かれるでしょうが、敵対し続けた義昭が最後まで解官されなかったこと
 から見ても、信長が朝廷と協調しながらも義昭との和解という選択肢を棄てきれなかった
 のに対し、

先に「信忠を将軍に」と述べましたが、実際のところ信長は征夷大将軍という肩書きにはそれ程こだわっていなかったのではないでしょうか?
出典は不明なのですが、藤田さんの『謎とき本能寺の変』に、信長が義昭について「西国の公方になられるべきである」と言ったということが記されており、そのことが窺わせられます。

またもし信長が義昭との和解を望んでいたとしたら、天正2年以降も何かにつけて義尋を立てていてもよさそうな気がしますが、その点いいがでしょうか。

まぁその意味でも、将軍にこだわっていたのは朝廷側であったのかも知れませんが。



信長・義昭の和解
板倉丈浩
Tm. さん、こんばんは。
ブログ主さんをさておいてこれ以上議論するのも何なので、手短に。

>信長が義昭との和解を望んでいたとしたら、天正2年以降も何かにつけて義尋を立てていてもよさそうな気がしますが

そうなんですけど、それは義昭あっての義尋ということであって、還京交渉が再開すれば、その存在が再浮上したのではないでしょうか。
義昭は信長以外の大名には「京都に帰りたいから尽力せよ」と訴えまくっていますから、信長としてはもうしばらく待てば自分に泣きついてくるという読みがあって、放置プレイを決め込んでいたということなのではないかと。

うーん。。。手短になっていませんね(汗)。
「西国公方」の典拠については、私もちょっとわかりません・・・。

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桐野先生、このたびは急な締め切りが入ってしまい、馬の博物館の講演会に行けず申し訳ありませんでした。
せっかくお会いできるチャンスだったのですが。別の機会でぜひお会いできることを期待しています。
2008/05/11(Sun) 01:54 | URL  | ぶるぼん #41Gd1xPo[ 編集]
御料所代官の交替要求
桐野先生、講演お疲れ様でした。

今回のお話のなかでは特に、『お湯殿』天正9年1月4日の条に正親町天皇の側室格であるべき大典侍・万理小路房子について「女院」との表記が見られるとご指摘に興味が惹かれました。
そのことからも先生は、誠仁親王(房子の子)が当時既に実質的に「天皇」として見られていたことの例証に挙げられておられましたが、ただ『お湯殿』の場合は宮中女房の記録ということで、房子に対する天皇の寵愛が一際深かかったことが反映され、薨去した彼女を実質的に「女御」であったと見てそのような表現がなされたものであり、親王に対する巷間の認識とはまた別のものではないかとも思われますが如何でしょう。

親王が実質的にも「天皇」として(天皇は「上皇」?として)振舞っていたのも事実でしょうが、一方で『お湯殿』は親王を「宮の御かた」と記していることも事実であり、譲位が成されていない上ではあくまで「東宮(皇太子)」であり、それだけに朝廷としても一刻も早い譲位、即位が望まれていたのでしょね。

さて質問の際には上手く説明できなかった「腹立事件」の流れでの「御料所代官の交替要求」についてですが、『お湯殿』天正8年8月15日の条に次ぎのようにあります。
  むら井より御れい所のたいくわんともみな(みな)かへのよし申。
  よへ御れい所の事に。宮のかたより文しん大すけとのまてまいる。
  御きもいりに上せうゐんをニてうへまいらせるヽ。
元は言えば、この問題は3年前に端を発するもののようであり(『お湯殿』天正5年2月7-8日の条)、そのときには天皇の意向によって代官の交替が行なわれています。
村井貞勝はその折の「三ねんきうあん(阿野休庵)もち(待ち)」との約定を実行したものと考えられますが問題は何故それが「腹立事件」直後に持ち出されているのかということです。

そもそも「休庵の三年待ち」というのが誰の意向なのかということもあり、自分はどうも貞勝の調停ではなかったのかと考えますが、よしんば天皇の裁定であったとしても、「安土山図屏風」を高覧に供し賛辞の勅書を要求した翌日にそのような要求を申し入れるというのは唐突過ぎるやに思われますし、何よりそれが信長が大坂への検分に下る当日であったというのも気にかかります。
しかも、交替させられる公家公家の八人の半数(※飛鳥井雅継は不明)が親王の側近であり、それが親王から大典侍への書状に関わるのではないかと推察されます。
それはすなわち、「腹立事件」でこじれた?関係の修復と言うより、逆に信長が主権の再確認を迫った行為であったと見るべきではないでしょうか。

実際に「腹立事件」が何時起きたかは不明ですが、同じころに石山本願寺が焼失するという事件が起きており、それを落ち度に(それだけではないのですが)佐久間親子が追放され、続いて三人の重臣たちの追放までもが行われているなかでそうした出来事があった訳ですから、このときの信長は不機嫌の極みにあったのではないかと思われます。
また、信長が嫡男・信忠から能道具や津田宗及から文琳の茶壷を取り上げたのはそれから程なくしてのことと思われ、信忠との和解が翌9年7月に(『お湯殿』)、そして宗及への返還が8月と伝えられている(『宗及茶会記』)ことも見過ごせません。

つまり自分としては、馬揃の背景はそう単純なものではなく、信長自身が人間関係に様々な問題を抱えているなかでそれらを解決すべく行ったのではないかと考えるものです。


また長々と愚見を述べてしまいましたが、今後もまた講演(信長関連でですが)のあることを楽しみにしております。
2008/05/11(Sun) 05:34 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
講演、お疲れ様でした!
地元神奈川で桐野先生の講演ということで、参加させていただきました。数分遅刻しての入場申し訳ありませんでした。

普段あまり目にすることの出来ない史料に解説も加えていただきいろいろと勉強になりました。ありがとうございます。
また、このような講演が開かれるのを楽しみにしています。
2008/05/11(Sun) 11:34 | URL  | 織田 創 #RoHUgdWQ[ 編集]
講演拝聴しました
先日の講演、途中からですが拝聴しました。
馬揃えとその周辺の話題に関して知らなかった史料や事実を多々学ぶことができました。
時間も無く、馬揃えからも離れる話題なので質問は控えたのですが、譲位や金神を持ち出してまで信長が左大臣任官を避けたのはなぜなのか、お考えを伺いたいです。
講演の中ではその辺の説明が無かったように記憶していますので(記憶違いでしたら申し訳ありません)。
2008/05/11(Sun) 17:29 | URL  | ぴえーる #cxOfCZlk[ 編集]
『お湯殿』2月1日の条
追申です。

改めて「馬揃」について論じた論文に目を通したところ、今回のレジュメには採録されていなかったのですが、『お湯殿』2月1日の条に、中山親綱が誠仁親王に「こんと馬のりのふれのかきたて」を見せたところ、親王もまた「御うれしきよし申」されたとの記述がありました。
橋本政宣氏(『近世公家社会の研究』)によれば、「かきたて」とは例の光秀宛ての朱印状ではないかとのことであり、とすれば、親王もまた「馬揃」を楽しみにしていたのは間違いないようですね。

ただその上でなお指摘すべき点があるとすれば、3月5日の2回目の「馬揃」を見物する皇族、公家衆の描写について『信長(公)記』と『兼見』に相違が見られることであり、前者が前回同様であったように伝えるのに対し、後者の記述からは前回とは打って変わって簡素なものであっと見られ、親王も忍んでまて見たかったというより、そうせざるを得なかったと見るべきでなのではないかと思われます。
『お湯殿』が「むまそろへひんかしにてあり」と素っ気無い記述に止めているのも、2回目の「馬揃」が必ずしも望まれたものではなかったことを物語っているのではないでしょうか。

つまり、2回目の「馬揃」には1回目のそれとは異なる意図が込められており、と言うより、本来、秘められていた意図を全面に打ち出して行われたものであり、朝廷方でもそれを感じ取っていたことが『兼見』の如き状況に現れているのではないでしょうか。
2008/05/11(Sun) 19:36 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
講演お疲れさまでした
いつもお世話になっております。
さて、レジュメが厚くなったと聞いて(笑)、急遽参加・拝聴させていただきました。
期待に違わず充実した内容で、特に『言継卿記』永禄13年(元亀元年)3月17日の記事にある、徳川家臣50人の騎乗披露(見物人2万人!)が先例となっていたのではないかという指摘は、管見の限りこれまでに無いもので、非常に斬新なものでした。

長文で恐縮ですが、レジュメの項目ごとに気になった点を列挙しておきます。

(1)明智光秀あて信長朱印状の異同について

史料を丁寧に読む桐野さんならではの指摘だなあと感心して聞いておりました。
ただ、帰宅して関連書籍を読み返しておりましたら、橋本政宣氏が『近世公家社会の研究』p175~176で同様な指摘をしていましたね(^^;
(追記)立花京子氏の『信長権力と朝廷 第二版』のp280にも同様な指摘がありました。

(2)戦場に出る公家衆:陣参公家衆

信長政権は朝廷と室町幕府の関係を引き継いでいる側面があり、「馬揃え」は公家衆や旧公方衆も含めた軍事力再編成でもあったということで、なるほどと思いました。

ただ、禅宗五山住持への公帖発給のように、追放された将軍義昭が権限を保持し続けている分野もあったこと、秀吉政権には陣参公家衆に相当するものが存在しなかったことも指摘しておきたいと思います。

(3)馬揃の発端は何か

史料的には朝廷側の自発的希望とあるが、信長側にも生母の死に悲しむ誠仁親王を励ます意図があったのではないかという堀新氏の説に沿ったご説明でした。

ちょっと思い出したのは、戦国期の左義長(三毬打)というのは朝廷と京都民衆を結びつける重要行事であったという清水克行氏の指摘でして(「戦国期における禁裏空間と都市民衆」日本史研究426)、親王個人への激励というよりは「何か派手なイベントをやってほしい」という一般的なニーズがあったようにも思えますがいかがでしょう。

(4)信長が目指したものは何か

左大臣推任と譲位問題は随伴事象であって、譲位は朝廷側の希望であり、「金神により譲位延期」を申し出たのは信長側だった、という立花京子氏や堀新氏の説に沿ったご説明だったと思います。

以前から引っかかっていたのは、ではなぜ朝廷側が熱望する譲位が実現しなかったのかということなんですが、立花氏や堀氏はこの点あまり明確ではありません。
橋本政宣氏は譲位に伴う財政負担を理由に挙げていますが、問題が提起されてから実に10年近くも先送りを繰り返すのは、それなりの政治的理由があったと考えるべきでしょう。
桐野さんは統一戦争による多忙が理由ではないかというご説明でしたが、後の秀吉政権下において天下統一前の天正14年に譲位が実現していることをどう考えるか。

で、ここからは私見ですが、

・戦国期の室町幕府が一貫して生前譲位を認めていなかったこと
・正親町天皇の即位が将軍不在により、なかなかできなかったこと
・秀吉による五山公帖発給(前述)の開始と正親町天皇の譲位実現がほぼ同時期であること

を併せて考えると、室町幕府を完全に否定して自分が取って代わることを信長は躊躇していたように思えます。
譲位問題については、「誠仁親王の即位」「義昭の引退」「義尋(義昭の子)の将軍襲職」を同時に実現する構想を信長が持っており、それゆえになかなか実現しなかったのだとする朝尾直弘氏の説に魅力を感じています。
2008/05/16(Fri) 06:32 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
板倉さんこんにちは。
当日は、事前の準備もちゃんとせず要点を得ない質問で、余計なお時間を摂らせてすいませんでした(笑

家康の「馬揃」については、以前ヤフーの掲示板の方でも触れたことがあり、何方かの論文で知ったのかも知れませんが思い出せません。
かなりの評判を呼んだようですが『信長(公)記』には記されておらず、信長がそれを如何に思ったか興味を持たれるところですが、後々の「馬揃」に繋がっていたのではないかと自分も思っています。


>室町幕府を完全に否定して自分が取って代わることを
 信長は躊躇していたように思えます。

とのことですが、おそらく信長も義昭追放直後はその様に考えていたと思います。ただ、蘭奢待の切り取り辺りから義尋の擁立については考えを改め、信長は自身の政権創りを模索し始めたと考えられます。信雄の将軍任官が噂(『尋憲記』天正2年3月24日の条)されたのもそれを窺わせるものと存じます。

その上で譲位が遅々として進まなかった理由としては、信忠の官位昇進が絡んでいると自分は考えます。信長としては、息子の信忠を将軍とした上で譲位を図る心算があったのでしょう。
天正10年の三職推任の際に晴豊が特に将軍を推したのも、そうした経緯を察してのことだ思います。

ただ朝廷としては信忠を将軍に任官する名分がなく、信長もそれを強要出来なかったことが譲位の進まなかった真の理由だと思います。
2008/05/18(Sun) 17:12 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
レスありがとうございます
Tm. さん、こんばんは。
熱心に質問されている後姿を拝見しましたが、よく調べていらっしゃいますねえ。

>家康の「馬揃」については、以前ヤフーの掲示板の方でも触れたことがあり

これも全然知りませんでした(汗)

>信長としては、息子の信忠を将軍とした上で譲位を図る心算があったのでしょう

確かに信長が天正6年に右大臣を辞したときに信忠への顕職譲与を要望していますが、その後も信忠は全く昇進しておらず、信長の後継者として礼遇されているものの、昇進は話題にすら上っていませんので、結局は建前論だったのではないでしょうか。

このへんは意見が分かれるでしょうが、敵対し続けた義昭が最後まで解官されなかったことから見ても、信長が朝廷と協調しながらも義昭との和解という選択肢を棄てきれなかったのに対し、朝廷は信長を早く将軍にして譲位(=朝家再興)を実現したいと考えており、そのへんに行き違いがあったんじゃないかという印象を私は持っています。
2008/05/19(Mon) 23:40 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
中将さま 被成御光儀候
板倉さんどうも。

>確かに信長が天正6年に右大臣を辞したときに信忠への顕職譲与を要望していますが、
 その後も信忠は全く昇進しておらず、信長の後継者として礼遇されているものの、
 昇進は話題にすら上っていませんので、結局は建前論だったのではないでしょうか。

安土城天主倒壊?の件で述べたかと思いますが、本来、天正6年という年は織田政権?にとって一大転機となるハズではなかったかと自分は考えています。

4月9日に信長が両官を辞任する直前、信忠は連枝衆、滝川一益、明智光秀ら重臣、近江、若狭、五畿内の軍勢を率い大坂へ出陣していますか、それは当に顕職譲与の為のアピールなのではないでしょうか。
また、『宗及茶湯日記』の4月20日の記述によれば、その日、妙覚寺で信忠主催の茶会が行われ、佐久間親子から献上された茶道具のお開きが行われていますが、それらは先の出馬を受け、顕職譲与(内定)を祝うものであったのではないかと思われます。

結局、直後に出陣した播磨攻略が思わしくなく、荒木村重の謀叛などもあり西国平定が膠着状態に陥り、その後も佐久間親子の処分を巡ってと思われる信長と不和もあり、信忠への顕職譲与(昇進)は実行されなかったのではないかと推察されます。

誠仁親王のへの譲位もまた、それに吊られる形で延びてしまったものと考えています。


>このへんは意見が分かれるでしょうが、敵対し続けた義昭が最後まで解官されなかったこと
 から見ても、信長が朝廷と協調しながらも義昭との和解という選択肢を棄てきれなかった
 のに対し、

先に「信忠を将軍に」と述べましたが、実際のところ信長は征夷大将軍という肩書きにはそれ程こだわっていなかったのではないでしょうか?
出典は不明なのですが、藤田さんの『謎とき本能寺の変』に、信長が義昭について「西国の公方になられるべきである」と言ったということが記されており、そのことが窺わせられます。

またもし信長が義昭との和解を望んでいたとしたら、天正2年以降も何かにつけて義尋を立てていてもよさそうな気がしますが、その点いいがでしょうか。

まぁその意味でも、将軍にこだわっていたのは朝廷側であったのかも知れませんが。

2008/05/21(Wed) 00:24 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
信長・義昭の和解
Tm. さん、こんばんは。
ブログ主さんをさておいてこれ以上議論するのも何なので、手短に。

>信長が義昭との和解を望んでいたとしたら、天正2年以降も何かにつけて義尋を立てていてもよさそうな気がしますが

そうなんですけど、それは義昭あっての義尋ということであって、還京交渉が再開すれば、その存在が再浮上したのではないでしょうか。
義昭は信長以外の大名には「京都に帰りたいから尽力せよ」と訴えまくっていますから、信長としてはもうしばらく待てば自分に泣きついてくるという読みがあって、放置プレイを決め込んでいたということなのではないかと。

うーん。。。手短になっていませんね(汗)。
「西国公方」の典拠については、私もちょっとわかりません・・・。
2008/05/22(Thu) 07:07 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
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