歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

木下聡氏の論考「山内上杉氏における官途と関東管領職」(『日本歴史』685号、2005年)をたまたま読んだ。
私の知識ではとても批評する能力がないが、ただ一点だけ触発されるところがあった。

それは、山内上杉氏の当主のうち、顕定以降の顕実、憲房、憲寛、憲政がいずれも官途名を名乗らず、仮名(けみょう、通称)の四郎五郎を生涯通していることに対して、木下氏は顕定以下が関東管領職であり、関東管領職そのものが官途を代替したと結論しているのが、非常に興味深かった。

そういえば、将軍足利義輝が上杉輝虎(謙信)に宛てた御内書のなかで、関東管領の養父憲政を「上杉五郎」と呼んでいたのを思い出した。すでに老年の域に達している憲政を「五郎」という通称か幼名で呼ぶのにわずかな違和感を覚えたものの、そのままにしていたが、関東管領が官途の代わりだとすれば、納得がいく。

木下氏はさらに、謙信の養子の一人、上杉三郎景虎についても指摘している。景虎は北条氏康の一子である。越相同盟の象徴として謙信の養子となったことはよく知られている。

謙信が養子の景虎と顕景(のち景勝)の二人を差別なく処遇したのはよく知られている。ところが、官途名に関しては、処遇に差が出ているのではないかと思われるのだ。

木下氏は、天正三年(1575)正月に謙信が長尾喜平次(景勝)を上杉弾正少弼景勝と名乗らせていることを指摘している。
そして、一方の景虎が三郎のままなのは、じつは謙信は関東管領職を景虎に譲るつもりだったからではないのかと推定する。

じつに興味深い説である。

スポンサーサイト

【2006/12/19 18:12】 | 戦国織豊
トラックバック(0) |


かわい
 あー、やっぱり研究しておられる方がいらしたんですね。これでまた楽ができそうです(笑)。
 私はこれまで、景勝が含まれる天正三年の軍役帳から景虎や関東衆が漏れていること、御館の乱で憲政が景虎に加担していることなど、状況証拠だけで景虎が関東管領後継者に内定していたことを説明しようと考えてきたのですが、よいことを教えていただきました。ありがとうございます。

謙信と関東管領職
桐野
かわいさん、どうも。

多少はヒントになってよかったです。
じつは、木下論文を全部読まないで、ならば、三郎景虎もそうだろうと連想して、うれしくなって上の雑記を書いたのですが、同論文を通読してみると、最後のまとめに、三郎景虎が関東管領職に予定されていたのではないかと書かれていてがっかりし、一度アップした文章をあわてて書き直しました。私が考えそうなことはすでに織り込み済みだったわけです(笑)。

私も貴重な指摘だと思うのですが、ひとつだけ疑問があります。
それは謙信の官途と関東管領職の関係です。謙信も弾正少弼の官途をもっていましたが、これは関東管領職就任以前の補任でしたよね。
だとすると、関東管領職に就任したのちはこの官途はどうなるのでしょうか? 謙信も仮名で呼ばれることになるのでしょうかね。

といっても思いつきませんが……。
若い頃は平三景虎でしたが、まさか上杉平三と名乗ったとも思われません。
とすれば、謙信は山内上杉家に変則的に養子入りしたために、呼称が歴代当主とは異なったということになるのでしょうか。

とすれば、謙信を飛び越して三郎景虎だけが従来の正統的な関東管領職だとするのも、少しおかしい気がしますが……。


三郎輝虎では?
かわい
 堆積した本の山に阻まれて『戦國遺文』を確認できないまま書いていますが、そもそも景虎は北条三郎なのでしたっけ?
 北条家では三郎は幻庵の系統の仮名だったと記憶しているのですが、だとすると景虎の元々の仮名をそのまま上杉家で使ったことにはならないですよね。上杉に入って三郎になったことになる。
 で、思ったのですが、謙信は平三の平を取って三郎を称していた、と考えることはできないでしょうか。

 このへん、養子入りする前の景虎を考証する記事の記憶があって、『歴群』の旧赤本と『戦國遺文』の両方を探していたのですが、どちらもいまだに見つからないもので、思考の垂れ流しになってしまったことをお詫びします。ご容赦ください。

北条三郎
桐野
かわいさん

初期の歴史群像シリーズ⑭『真説・戦国北条五代』は1989年刊ですが、いまもって有用な文献ですね。一般向けでこれほど高度でわかりやすい北条氏の概説書はないと思います。

で、上杉三郎景虎についても同書に記事があり、「別人だった氏秀と景虎」と題して黒田基樹氏が執筆しています。

それによれば、上杉三郎は北条氏康八男で、一度北条幻庵の婿養子となって北条三郎と名乗り、越相同盟の成立によって謙信の養子となり、上杉三郎と名乗ったとあります。

「三郎」はご指摘のとおり、幻庵の婿養子になったときの仮名です。そして上杉家に入ってからも「三郎」と名乗ったわけですが、幻庵家での名乗りをそのまま使ったと考えてもそれほどおかしくないのではとも思います。

とすれば、「三郎」は関東管領上杉家に固有の仮名だったわけではないことになりませんんかね?
もし三郎景虎が関東管領職を継いだか、継ぐ予定だったとすれば、山内上杉家の慣例に従って、「三郎」から「四郎」もしくは「五郎」に改名する手続きが必要だったということにならないのか。
それとも、仮名の世襲はそれほど問題ではなく、官途名を名乗らず、仮名を使いつづけること自体を重視するのか、見解が分かれそうなところではあります。

謙信の場合、上杉憲政の養子となり、小田原城を攻めたのち、「上杉三郎輝虎」と名乗っているのか、『上杉家文書』などを調べたほうがいいかもしれませんね。
これについては、要調査ということで。



コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
 あー、やっぱり研究しておられる方がいらしたんですね。これでまた楽ができそうです(笑)。
 私はこれまで、景勝が含まれる天正三年の軍役帳から景虎や関東衆が漏れていること、御館の乱で憲政が景虎に加担していることなど、状況証拠だけで景虎が関東管領後継者に内定していたことを説明しようと考えてきたのですが、よいことを教えていただきました。ありがとうございます。
2006/12/19(Tue) 21:18 | URL  | かわい #-[ 編集]
謙信と関東管領職
かわいさん、どうも。

多少はヒントになってよかったです。
じつは、木下論文を全部読まないで、ならば、三郎景虎もそうだろうと連想して、うれしくなって上の雑記を書いたのですが、同論文を通読してみると、最後のまとめに、三郎景虎が関東管領職に予定されていたのではないかと書かれていてがっかりし、一度アップした文章をあわてて書き直しました。私が考えそうなことはすでに織り込み済みだったわけです(笑)。

私も貴重な指摘だと思うのですが、ひとつだけ疑問があります。
それは謙信の官途と関東管領職の関係です。謙信も弾正少弼の官途をもっていましたが、これは関東管領職就任以前の補任でしたよね。
だとすると、関東管領職に就任したのちはこの官途はどうなるのでしょうか? 謙信も仮名で呼ばれることになるのでしょうかね。

といっても思いつきませんが……。
若い頃は平三景虎でしたが、まさか上杉平三と名乗ったとも思われません。
とすれば、謙信は山内上杉家に変則的に養子入りしたために、呼称が歴代当主とは異なったということになるのでしょうか。

とすれば、謙信を飛び越して三郎景虎だけが従来の正統的な関東管領職だとするのも、少しおかしい気がしますが……。
2006/12/19(Tue) 21:48 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
三郎輝虎では?
 堆積した本の山に阻まれて『戦國遺文』を確認できないまま書いていますが、そもそも景虎は北条三郎なのでしたっけ?
 北条家では三郎は幻庵の系統の仮名だったと記憶しているのですが、だとすると景虎の元々の仮名をそのまま上杉家で使ったことにはならないですよね。上杉に入って三郎になったことになる。
 で、思ったのですが、謙信は平三の平を取って三郎を称していた、と考えることはできないでしょうか。

 このへん、養子入りする前の景虎を考証する記事の記憶があって、『歴群』の旧赤本と『戦國遺文』の両方を探していたのですが、どちらもいまだに見つからないもので、思考の垂れ流しになってしまったことをお詫びします。ご容赦ください。
2006/12/26(Tue) 10:53 | URL  | かわい #-[ 編集]
北条三郎
かわいさん

初期の歴史群像シリーズ⑭『真説・戦国北条五代』は1989年刊ですが、いまもって有用な文献ですね。一般向けでこれほど高度でわかりやすい北条氏の概説書はないと思います。

で、上杉三郎景虎についても同書に記事があり、「別人だった氏秀と景虎」と題して黒田基樹氏が執筆しています。

それによれば、上杉三郎は北条氏康八男で、一度北条幻庵の婿養子となって北条三郎と名乗り、越相同盟の成立によって謙信の養子となり、上杉三郎と名乗ったとあります。

「三郎」はご指摘のとおり、幻庵の婿養子になったときの仮名です。そして上杉家に入ってからも「三郎」と名乗ったわけですが、幻庵家での名乗りをそのまま使ったと考えてもそれほどおかしくないのではとも思います。

とすれば、「三郎」は関東管領上杉家に固有の仮名だったわけではないことになりませんんかね?
もし三郎景虎が関東管領職を継いだか、継ぐ予定だったとすれば、山内上杉家の慣例に従って、「三郎」から「四郎」もしくは「五郎」に改名する手続きが必要だったということにならないのか。
それとも、仮名の世襲はそれほど問題ではなく、官途名を名乗らず、仮名を使いつづけること自体を重視するのか、見解が分かれそうなところではあります。

謙信の場合、上杉憲政の養子となり、小田原城を攻めたのち、「上杉三郎輝虎」と名乗っているのか、『上杉家文書』などを調べたほうがいいかもしれませんね。
これについては、要調査ということで。

2006/12/26(Tue) 14:17 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。