歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第60回
―今熊野に義久の逆修墓―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

もうというべきか、ようやくというべきか、連載も60回に達しました。
でも、予定ではあと40回もありますね(汗)。

今回は、京都の今熊野観音寺にある島津義久の逆修墓を取り上げました。
一部の島津ファンなら、知る人ぞ知るというべき場所です。
私も存在を知ってはいたのですが、なかなか行けずにおり、最近、名古屋の講座のついでに足を伸ばして訪れました。

彭□

義久

春栄

写真上段:義久の逆修墓下部正面「□□彭□逆修」の刻字
写真中段:義久の逆修墓の右側面「藤原氏島津義久」の刻字
写真下段:義久の右隣の墓
(写真をクリックすれば、拡大してご覧になれます)

いつ、なぜこのような逆修墓が建てられたのか、それは連載記事を読んでいただければわかります。
ひとつ、指摘しておきたいのは、義久の右隣にある墓正面の刻字(写真下段)についてです。

この墓の主について、山田有栄(1578~1668)ではないかとも言われているようです。有栄は関ヶ原の退き口の先陣をつとめ、のちの名乗りである昌厳が有名です。私の郷里出水の地頭を長くつとめ、「出水兵児修養掟」を定めたことでも知られています。
さて、有栄説の根拠は、写真下段の刻字が「□栄」とあり、□が「」と読めるのではないかということらしいですが、私は違うと思います。その理由として、

第一に、写真下段を見ていただくとわかるように、剥落した上の字はうっすらとですが、「」の横3本の「一」が残っていますし、右下へ下がる線も残っています。これらからやはり「春」と読むべきでしょう。
なお、下の字は「」と読んでも差し支えないと思いますけれど、上のかんむり部分が一部剥落しているのでよくわかりませんが、「」と読める可能性はないのか。
つまり、「春栄」か「春宋」のどちらかでしょう。

第二に、義久と左隣の平田増宗の五輪塔では、最下部の方形(地輪)の石に、逆修の対象となる戒名(逆修戒名)が刻まれています。つまり、ここに刻まれるのは戒名ですから、実名すなわち俗名が刻まれることはありません。造主の俗名が刻まれるのは、ここの五輪塔の場合、方形石の上段の石ではないかと思います。平田増宗のも円形石に「薩州住平田太郎左衛門尉増宗」と刻んであります。
したがって、「有栄」という俗名は方形石正面に刻まれないと思うのです。

第三に、山田有栄の戒名は、『本藩人物誌』によれば、「昌厳松繁庵主」です。「春栄」もしくは「春宋」とは一致しません。

以上から、この逆修墓は山田有栄ではないと思います。


それとは別に、私は肝心の島津義久とされる逆修墓について、素朴で根本的な疑問があります。これは自分でも考えがまとめられなかったのと、分量の関係で書かなかったのですが、これは果たして、義久の逆修墓なのかどうかという点です。
まず義久の逆修墓なら、写真上段の最下部方形石に義久の逆修戒名が刻まれなければなりません。実際、何と刻まれているかといえば、次のとおりです。

□□彭□逆修

剥落があって、逆修戒名と思われる部分がよくわかりません。
一方、義久の戒名(法号)は『島津氏正統系図』によれば、「貫明存忠庵主妙谷寺殿」です。これは義久死後、菩提寺が妙谷寺(鹿児島市下伊敷)になった際の法号で、島津家の菩提寺である福昌寺では別の法号があるかもしれませんけれど、とにかく逆修戒名と、実際の法号の字が一致しません。法号に「」の字がないのです。
これが、義久の逆修墓なのかどうかを疑う最大の理由です。

そこで、じつは「」の字を法号にもつ義久の縁者がおります。
ほかならぬ、三女亀寿です。
亀寿の法号は『島津氏正統系図』によれば、「持明彭窗庵主興国寺殿」です。
」の一字が含まれていることがおわかりでしょうか。
なお、「」の下の「」は「窓」の異字です。

一方、福昌寺跡墓所にある亀寿の墓石は、「」の字が少し違っていて、下の写真にあるように、
持明

持明彭菴主

と刻んであります。

ここで、今熊野観音寺の義久逆修墓の上段写真を拡大して、刻字をよく見て下さい。
」の下は「」に見えないでしょうか?
もしこの部分が「彭」だとすれば、その上の2字は「持明」だった可能性が高いのではないかと思います。
つまり、「持明彭逆修」と書かれていたのではないか。

もし私の推定どおりであれば、この逆修墓は亀寿のものだということになります。
ただ、方形石の右側面には「藤原氏島津義久」と刻んであります。この不一致をどう理解するのか。
平田増宗の場合、逆修戒名と俗名が増宗のもので一致しております。これは造主と逆修対象者が同一人物だったことを意味するとすれば、義久逆修墓は造主が義久で、逆修対象者が亀寿だったということになるのか。
もしそうなら、義久が亀寿の長寿繁栄を祈願して建立したということになるのか。

連載記事とはあらぬ方向に話が進んでしまいました(汗)。

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【2008/05/31 11:49】 | さつま人国誌
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剥落
こなみん
「藤原氏島津義久」の下に2~3文字剥落してるようにも見えるのですが、そこに「女亀寿」とかなんとか入ってた可能性ってのはないんですかね?

女亀寿
桐野作人
こなみんさん、こんにちは。

なるほど、そういえば、何か下に字があったようにも見えますね。剥落というより削り取ったようにも見えます。

女性の場合、何と刻むのかよくわかりません。
義久と実名を出すのかどうか。修理大夫などの官途名かもという気がしますが、よくわかりません。
女性の場合の表記のしかたがわかればいいのですが……。

墓石の文字
ばんない
こんにちは。興味深く拝見いたしました。

確かにあの逆修墓は設置された場所といい、謎が多いですね。
安土桃山時代末期は熊野信仰は盛んでは無かったと思いますし(汗)今熊野観音寺の近所には確かに島津氏縁の東福寺がありますけれど…。なんでわざわざ…と思いますね。

島津義久逆修墓本体の墓石ですが、向かって正面右側の欠けは劣化による損壊と思えるのですが、向かって右側「島津義久」の下と向かって正面左側「慶長三年」の下は、どうも人為的に削ったようにも見えます。島津氏関係でこの手の物を人為的に削ったと思える例は、高野山の「朝鮮役敵味方戦没者慰霊碑」があります。http://www.realintegrity.net/~shimadzu/shimadzu-histricsite/kohyasan/shimadzu-korea.htm

女性名の表記例ですが、逆修墓の例ではなく申し訳ないのですが、亀寿(姉・新城の可能性もありますが)が奉納したと思われる義久三回忌の経文末尾には「藤原孝女謹書」と書かれていたようです(「旧記雑録」後編4-984)。
逆修墓の例では、島津義久の上臈であった一の台(国上時通の娘)が霧島市の遠寿寺に築いたもの(「慶長十二年丁未 (中略) 喜見院浩隆 逆修」)というのがあります。
書いていて疑問がわいてきたのですが、慶長3年時点、当然亀寿は出家していないのですが、その時点で法名を定めておくと言うことはありえたのでしょうか?

あと、これは個人的な意見になるのですが、逆修という物の性格を考えると、父・義久が娘・亀寿の逆修をするというのは考えにくい物があるのですが…逆ならありだと思いますが。

戒名・法名
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

高野山の「日本高麗戦没者慰霊碑」の場合、人為的な削り取りの目的ははっきりしていますね。
藤原氏から源氏への氏の変更を隠すための細工ですね。なかなか面白い事例です。そこまでするかという感じで(笑)。
始祖忠久の頼朝庶長子伝説の形成と軌を一にする動きでしょうね。
この改竄時期は江戸初期(「寛永伝」編纂期)か、重豪が鎌倉に頼朝の墓を建立し、忠久の祠をつくった時期か、どちらかでしょうかね。

で、亀寿の戒名・法名ですが、戒名を死後に付けるものと思っている人が多いかもしれませんが、本来は、生前に付けるものです。それは出家の有無とは関係ありません。在家で戒名をもっている人はたくさんいましたし。

たとえば、平田増宗の逆修墓にも「字参覚阿」と読める戒名が刻んであります。『本藩人物誌』には「字参覚阿庵主」とありますので、間違いないでしょう。
つまり、増宗も出家していないのに、生前に戒名をもっています。亀寿も同様だったと思います。

逆修の関係については、たしかに義久の逆修墓を亀寿が建立するというのが自然な気がしますね。その逆はたしかに不自然です。
となると、こなみんさんが指摘されたように、右側面の「藤原氏島津義久」の下に亀寿であることを示す文字が刻んであったのかどうか。

ただ、義久はすでに出家して龍伯と名乗っていますから、俗名を使うのかどうか、やや疑問ではあります。




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剥落
「藤原氏島津義久」の下に2~3文字剥落してるようにも見えるのですが、そこに「女亀寿」とかなんとか入ってた可能性ってのはないんですかね?
2008/05/31(Sat) 13:26 | URL  | こなみん #-[ 編集]
女亀寿
こなみんさん、こんにちは。

なるほど、そういえば、何か下に字があったようにも見えますね。剥落というより削り取ったようにも見えます。

女性の場合、何と刻むのかよくわかりません。
義久と実名を出すのかどうか。修理大夫などの官途名かもという気がしますが、よくわかりません。
女性の場合の表記のしかたがわかればいいのですが……。
2008/06/01(Sun) 05:25 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
墓石の文字
こんにちは。興味深く拝見いたしました。

確かにあの逆修墓は設置された場所といい、謎が多いですね。
安土桃山時代末期は熊野信仰は盛んでは無かったと思いますし(汗)今熊野観音寺の近所には確かに島津氏縁の東福寺がありますけれど…。なんでわざわざ…と思いますね。

島津義久逆修墓本体の墓石ですが、向かって正面右側の欠けは劣化による損壊と思えるのですが、向かって右側「島津義久」の下と向かって正面左側「慶長三年」の下は、どうも人為的に削ったようにも見えます。島津氏関係でこの手の物を人為的に削ったと思える例は、高野山の「朝鮮役敵味方戦没者慰霊碑」があります。http://www.realintegrity.net/~shimadzu/shimadzu-histricsite/kohyasan/shimadzu-korea.htm

女性名の表記例ですが、逆修墓の例ではなく申し訳ないのですが、亀寿(姉・新城の可能性もありますが)が奉納したと思われる義久三回忌の経文末尾には「藤原孝女謹書」と書かれていたようです(「旧記雑録」後編4-984)。
逆修墓の例では、島津義久の上臈であった一の台(国上時通の娘)が霧島市の遠寿寺に築いたもの(「慶長十二年丁未 (中略) 喜見院浩隆 逆修」)というのがあります。
書いていて疑問がわいてきたのですが、慶長3年時点、当然亀寿は出家していないのですが、その時点で法名を定めておくと言うことはありえたのでしょうか?

あと、これは個人的な意見になるのですが、逆修という物の性格を考えると、父・義久が娘・亀寿の逆修をするというのは考えにくい物があるのですが…逆ならありだと思いますが。
2008/06/01(Sun) 13:39 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
戒名・法名
ばんないさん、こんにちは。

高野山の「日本高麗戦没者慰霊碑」の場合、人為的な削り取りの目的ははっきりしていますね。
藤原氏から源氏への氏の変更を隠すための細工ですね。なかなか面白い事例です。そこまでするかという感じで(笑)。
始祖忠久の頼朝庶長子伝説の形成と軌を一にする動きでしょうね。
この改竄時期は江戸初期(「寛永伝」編纂期)か、重豪が鎌倉に頼朝の墓を建立し、忠久の祠をつくった時期か、どちらかでしょうかね。

で、亀寿の戒名・法名ですが、戒名を死後に付けるものと思っている人が多いかもしれませんが、本来は、生前に付けるものです。それは出家の有無とは関係ありません。在家で戒名をもっている人はたくさんいましたし。

たとえば、平田増宗の逆修墓にも「字参覚阿」と読める戒名が刻んであります。『本藩人物誌』には「字参覚阿庵主」とありますので、間違いないでしょう。
つまり、増宗も出家していないのに、生前に戒名をもっています。亀寿も同様だったと思います。

逆修の関係については、たしかに義久の逆修墓を亀寿が建立するというのが自然な気がしますね。その逆はたしかに不自然です。
となると、こなみんさんが指摘されたように、右側面の「藤原氏島津義久」の下に亀寿であることを示す文字が刻んであったのかどうか。

ただ、義久はすでに出家して龍伯と名乗っていますから、俗名を使うのかどうか、やや疑問ではあります。


2008/06/01(Sun) 15:58 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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