NHK大河ドラマ「
篤姫」第23回「器くらべ」
このところ、忙しくてなかなか更新できずにいます。
ドラマの進行時点、安政4年(1857)夏から秋か
今回は、養父斉彬の密命と、夫家定の「慶喜は好かぬ」という一言の間で板挟みになっている篤姫が、思い余って、将軍継嗣の両候補をじかに見て、品定めをしようという趣向。
それにしても、一橋慶喜役の平岳大。
父は平幹二郎、母は佐久間良子というサラブレッドで、容貌は父似かと思っていましたが、昨日の印象では、渡辺謙の若い頃にも似ていましたね。これから飛躍する役者でしょうか。
一方の紀州慶福役の松田翔太。
こちらも劣らず、父は故・松田優作ですね。
ドラマの趣向は、「直球勝負」の篤姫らしさが表れていましたが、いちばんの疑問はやはり、慶福の年齢でしょう。
慶福(のちの家茂)の生没年は1846〜66年。享年21。
ドラマ進行時点では数えの12歳です。篤姫は23歳です。
とても12歳には見えず、大人びていましたね。年齢を低く見積もっても、10代後半にしか見えません。
ちょっと無理があったのではないでしょうか。
ちなみに、慶喜は天保8年(1837)生まれなので、21歳。篤姫より2歳年下です。
このような篤姫の品定めが史実かどうかですが、おそらく史実ではないと思われます。
一橋家の御用日記が掲載されている『
新稿 一橋徳川家記』(辻達也編、続群書類従完成会)という史料があります。
それには、歴代の一橋家当主の主な行動が記載されています。将軍御台所に大奥に招かれれば、当然記事になってよさそうですが、安政4年にそのような記事はありません。
ですから、篤姫が大奥で慶喜を引見したというのは事実ではないと思います。となると、慶福の引見も同様だったのではないでしょうか。傷んだ和菓子の毒見云々も同様でしょうね。
ちなみに、前回、島津斉彬が慶喜と初めて会見しましたが、それについてはちゃんと記載されています。しかも、2回訪れているようです。同年の3月11日と27日です。ドラマでは老中阿部正弘が同道していましたが、記事には阿部の名前はないので、斉彬一人だったと思われます。
ドラマでは水戸斉昭が幕府に委嘱された海防参与の職を辞す場面がありました。上記御用日記によれば、7月25日条に、実父斉昭に対して、辞職への「
歓びの使者」を遣わしています。辞職を喜ぶというのですから、よほど斉昭は嫌気がさしていたのでしょうか。
篤姫がこの時期、慶福をどう思っていたかは不明ですが、将軍家定の慶福評はあります。家定の小姓だった「
朝比奈閑水手記」には、閑水が家定に将軍継嗣問題をひそかに尋ねたところ、直答があったとしております。慶喜については「
刑部卿様(慶喜)は御いとひ(厭ひ)遊され」という答え。慶福については次のようにあります(『徳川慶喜公伝』史料篇一)。
「紀州様(慶福)は御幼年にて丁度御子様の如く思召さるれば、紀州様の方御好み思召さるゝとの事を伺ひ」云々家定がこのように慶福を自分の子どものように好意を抱いていたことが、篤姫にも影響を与えたかもしれませんし、また将軍継嗣問題の決着にも影響を与えた要因でしょう。
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