NHK大河ドラマ「
篤姫」第24回「許すまじ、篤姫」
遅くなりましたが、一週間前のものを本日、再放送で観ました。
その感想をアップします。
ドラマ進行時点は安政4年(1857)冬、10月頃
今回のメインは何といっても、将軍家定と米国総領事ハリスの対面でしょう。
ときに安政4年10月21日。西暦だと1857年12月7日ですから、もう冬です。
場所は江戸城本丸表向の大広間。
通常は国持など大身の外様大名の詰め所です。
例の畳を積み上げる一件、篤姫の献策だったとは思えませんが、畳を何枚か積み上げてあったのは史実だと思われます。
ハリスの『日本滞在記』下(岩波文庫版)によりますと、
「大君は床から二呎(フィート)ばかり高くなっている席に設けられた椅子にかけていた」2フィートは約60センチですが、ドラマではもっと高かった感じですね。
一方、日本側の史料「温恭院殿御実紀」には次のように書いてあります。
「大広間江出御。御立烏帽子、御小直衣を召させらる。御先立久世大和守(広周)、御太刀、御刀御小姓これを持つ。御上段へ七重の御厚畳、錦を以て之を包む。四方の角江紅の大総飾を附く。御刀掛これに置き、御曲■(竹かんむり+録、以下同)江着御」)これによれば、厚畳を7枚重ねたもののようです。
畳1枚の厚さは10センチもないでしょうから、ハリスの観察したように、60センチ前後というのは、ほぼ正確でしょうね。
「御曲■(ろく)とありますから、家定が座った椅子のことでしょうが、「■」の字義は本来、本箱の意で、椅子の意味はないようですが、はて?
畳の高さ:60センチ
「御曲■」の高さ:50センチほど
家定の坐高:80センチほど
と仮定すれば、ハリスと対面したときの坐った家定の高さは190センチ程度となり、6尺(180センチ)近いというハリスより目線が若干高くなるでしょうか。
もしそうなら、辛うじて将軍の面目は立ったことになるのかもしれません。
なお、ハリスの上記本によれば、家定の前には天井から簾がかかっていて、ちょうど家定の額あたりに下端があったので、ハリスは家定の烏帽子を見ることができなかったとも記しています。
そして、ドラマで家定が歌舞伎ばりに大げさな見得を切ったシーン。
ハリスの上記本には次のように書かれています。
ハリスが日米両国の友好を願う旨述べると、
「短い沈黙ののち、大君は自分の頭を、その左肩をこえて、後方へぐいっと反らしはじめた。同時に右足をふみ鳴らした。これが三、四回くりかえされた。それから彼は、よく聞える、気持ちのよい、しっかりした声で、次のような意味のことを言った。
『遠方の国から、使節をもって送られた書翰に満足する。同じく、使節の口上に満足する。両国の交際は、永久につづくであろう』」家定の言葉を日本側の史料でみると、
「遠境の処、使節を以て書簡差越し、口上の趣、満足せしめ候、猶幾久しく申し通ずべし、此段大統領へ宜しく申し述ぶべし」まあ、同趣旨ですね。
問題は、家定の所作ですが、たしかに首を左に大きくひねって、右足を何度か踏み鳴らしたところまでは、大見得のようにも見えますが、腕の所作が書かれていませんね。
やはり、もと大奥女中の佐々鎮子が証言した「
首を振る癖がありました」という癇癖と合致するのではないでしょうか(『旧事諮問録』)。
ただ、声は明瞭ではっきりしていたといいますから、暗愚説への反証です。
それにしても、この一節を歌舞伎風の大見得に読み換えたのは面白い趣向でしたね。
もっとも、家定が歌舞伎を観たことがあるのかどうかはわかりませんが……。
もうひとつは、一橋慶喜が家定に扈従したか否かという点。
一橋家の御用日記を収めた『新稿 一橋徳川家記』にあるハリス登城の日の条には、
「二十一日 アメリカ使節ハリス登城し、大広間にて将軍家定に謁す。邸よりも布衣以上の役人として、側用人兼番頭平山市郎兵衛、番頭兼用人倉林五郎右衛門・中根長十郎、用人嶋崎一郎右衛門列居す」とあります。
これによれば、登城したのは一橋家の側用人以下、布衣以上の家来だけのようで、慶喜が登城したとは書かれていませんから、慶喜の扈従は史実ではない可能性が高いです。
なお、布衣(ほい)とは、諸大夫(五位)の下、六位相当の役人で、その着する衣類から転訛した家格です。「公儀」の末端に位置しています。
一橋家の側用人以下の家来はもともと幕臣で、出向してきた者が多く、また一定年数が経過すると他に転任します。
また、「温恭院殿御実紀」も、このとき登城を命じられた大名や役人のことを次のように記しています。
「亜墨利加使節、登城御目見仰せつけらるるに就き、溜詰、御譜代大名、同嫡子、高家、雁之間詰、同嫡子、御奏者番、同嫡子、菊之間縁頬詰、布衣以上の御役人、法印法眼の医師登城」これによれば、大名でも譜代大名と幕府諸役人が列座したようです。
溜詰(溜間詰)は井伊・酒井など大身の譜代と会津松平・高松などの親藩、老中経験者など。
雁之間詰と菊之間詰は小身の譜代大名です。
なお、帝鑑間詰の比較的大身の譜代大名は召集されなかったようですね。
ハリスの上記本によれば、会見の間に行く途中、「
三、四百人ばかりの大名と高位の貴人」がいたと書いています。上記の該当者を合わせれば、それくらいになるでしょうね。
ひとつ疑問があります。ハリスは家定との会見の間で、向かって右手に堀田正睦ほか、5人の閣老(老中)がおり、左手には「
大君の三人の兄弟が同様に平伏」していたと書いています。
当時、家定の兄弟はすべて他界していますから、兄弟はおりません。
とすると、この「三人の兄弟」とは、御三家か御三卿でしょうか。
御三卿は将軍家の家族扱いですから、このような公式な行事に居並ぶ可能性は少なく、やはり御三家だと見た方がいいのでしょうね。
なお、当日、ハリスは体調が悪かったようです。
上記本によれば、風邪を引いていて、肺に炎症を起こして悪寒がしていたとか。
家定へ合衆国大統領の代理として語るとき、声が震えているように聞こえたのは、緊張のせいではなく、風邪を引いていたためでしょうか?
将軍家定の見せ場はもう終わってしまいましたね。
あとは、将軍継嗣問題の顛末として、その死を描くことがいちばんの見せ場になりそうです。
余談ですが、篤姫と家定の五目並べ。
あれも創作でしょうね。
ただ、篤姫入輿のとき、島津家からの引出物のなかに碁盤と碁石はあります。
それなんでしょうか?
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