歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第25回「母の愛憎」

ドラマ進行時点は安政4年(1857)11月頃。

本寿院が篤姫を家定から遠ざけようとする大奥のゴタゴタはこの際、措いといて(笑)。

今回は、西郷と大久保が熊本の長岡監物を訪問し、大久保が屈辱を味わったという一件を取り上げてみます。

長岡監物(是容、1813~59)は熊本藩の家老です。旧姓を米田(こめだ)といい、祖先は細川藤孝・忠興の頃からの老臣米田求政ですね。求政とその子是季の功労により、主家が一時名乗った長岡名字の名乗りを許されています。
この頃、監物は実学党のメンバーで、熊本藩の改革派のリーダーでしたが、同志の横井小楠とは絶交していました(最後まで和解せず)。
嘉永6年(1853)、浦賀警備の任にあったとき、水戸斉昭・藤田東湖・佐久間象山・吉田松陰とも親交があったといわれています。

西郷・大久保が監物と対面したのは11月4日のことです。
もっとも、西郷は同年4月、参勤交代での帰国の途次、熊本で監物と会っています。この縁から再訪したものでしょう。
西郷が大久保を伴ったのは、むろん、善意からのもので、大久保に藩外の空気を吸わせ、薩摩と熊本両藩の交流に資するためだったと思われます。

ドラマでは、西郷が監物と内密な話に入るとき、大久保に座を外してくれるよう頼み、大久保は西郷の意外な言葉に戸惑いながら、その通りにしたものの、屈辱でいっぱいになります。
それは国事に奔走する西郷と、国許に埋もれる自分との立場の違いを思い知らされるという狙いなんでしょうね。

西郷がそこまで露骨な対応をしたのかどうか、なかなか微妙な問題ですね。

田中惣五郎は「今度出府の折、大久保にも会わせたくて、二人で同行した。人間にほれっぽい、とくに理路整然と大局を論ずる人に頭をさげる西郷のくせである」と評している。
田中説はやや単純すぎる意見で、これだと、西郷が大久保に退出を促すはずもないと思われます。

あと、当時の2人の役職ですが、前回のドラマで斉彬が西郷を徒目付に引き上げておりました。
これは史実で、同年10月1日付で、西郷は徒目付と鳥預り庭方兼務の辞令が出ております。
また辞令が出た直後の10月18日、西郷は江戸出府に際して、「出水筋」からの出府を申請して許可されています。これが大久保を伴う伏線だと思います。

一方、大久保もほぼ同時期に徒目付に任ぜられたという史料もあります。
『大久保利通文書』十所収の「大久保利通年譜」です。それには、

「十一月一日西郷隆盛と共に徒目付と成る」

とあります。
これを信じるなら、西郷と大久保は同役ということになり、西郷が大久保を退出させることはありえないのではと思われます。

もっとも、この史料は信頼できるのかどうか疑問があります。
「西郷と共に」とありますが、徒目付になったのは西郷のほうが1カ月早いですね。
それに、大久保への辞令発令日の11月1日は、西郷・大久保が鹿児島を発して熊本に向かうときです。そんなときに辞令が出たのかどうか。
それに同年譜はほとんどの項目に出典が掲載されているのですが、この項には出典が書かれていません。つまり、どこまで信じていいのかわからない記事だということです。

同年譜によれば、この年、大久保が郡奉行下役と下加治屋町方限取締であったことはたしかだと思います。果たして徒目付に昇進したかどうか。

なお、長岡監物がこのとき、西郷らとどんな話をしたかですが、西郷・大久保と会った当日に、監物は出立しようとする西郷を引き留めて、わざわざ一書をしたため、それを西郷に託しています。
宛所は越前藩の橋本左内。
それによれば、監物は越前藩の村田巳三郎とは交流があったようで、その一節には「薩藩の西郷、御地に於いて深くお交わり申し候との事にて」云々とあり、すでに西郷と左内の間に交流があったことを書いています。
これを読むと、監物もいわゆる一橋派にくくってよい人物かと思われます。

また、監物はこのとき、尾張藩の田宮如雲に対しても、西郷のために紹介状を書いています。西郷について、次のように述べています。

「天下の事に付て君侯の意を受け出府いたし候やに御座候、有志の人にて候」

とあります。
監物が紹介状を書いたのはおそらく西郷の依頼があったものと見え、御三家筆頭である尾張藩の支持を取り付けようとするためだったと思われます。これも斉彬の密命だったかもしれません。

監物の左内宛て書簡にも、水戸藩では「両田」つまり、戸田蓬軒と藤田東湖の2人が安政大地震で亡くなったため、力が衰え、また老中阿部正弘も他界したため、越前・尾張両藩と薩摩藩が頑張るしかないと書いていますから、紀州派に対抗するためにも、一橋派は尾張藩を取り込むことが重要だったと思われます。

また、監物の書簡には、大久保の名前はまったく出てこないのが特徴的です。
これによる限り、監物は西郷を斉彬の意を受けて国事周旋に関わっている人物ととらえ、大久保とは差別化していたと思われます。
ですから、密事に関しては、監物は西郷だけを呼び出して対面したかもしれず、あるいは、ドラマのような場面もまったくなかったとは言いきれないかもしれません。

当時の大久保が西郷とくらべて、まだ水を開けられていたのはたしかだったといえそうです。
ドラマでは「鬼になる」と言っておりましたが、どういう意味でしょうね。
一切感情にはとらわれず、冷徹に生きるという意味でしょうか?

些細なことかもしれませんが、気になったので、少し調べて書いてみました。

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【2008/06/23 10:59】 | 篤姫
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