腫れ物にお苦しみのご様子、心よりお見舞い申し上げます。
さて、遅まきながらくだんの雑誌、拝見いたしました。
ご連載の桶狭間の記事も整理されていて、勉強させていただきました(^^
ただ一点だけ気になったことが・・・。
桐野さんのご見解ではなく、記事中で御紹介があった蓬左文庫「桶狭間合戦之図」の「義元本陣」を漆山に比定している説なんですが、これは疑問に思っています。
といいますのも、この図の真ん中、鳴海城の下あたりに書き込みがあって、そこには「同所ヨリ桶狭間合戦場迄廿三町拾三間」とあるからです。
(なおこの23町13間というのは、江戸前期成立の『武家事紀』の記述と一致しています。因果関係は不明ですが・・・)
鳴海城から約2.53kmですから、この「義元本陣」は漆山ではなく、有松駅南方の丘陵地帯(高根・幕山・生山あたり)に比定するのが妥当なように思います。
本陣西南の「明神森」は有松愛宕、東南の「雨池」は地蔵池か大池が該当するのでしょう。
まあ、史料的価値からして参考程度にすべきなんでしょうけど(^^;、軍事的合理性から考えても(鳴海・中島方面を一望でき、谷筋を押さえる要衝でもある)、上記高地に布陣した可能性は高いのではないかと(現時点では)考えております。
史学科など出ておりません、素人の意見で申し訳ないのですが
私も「漆山」説に疑問を持った一人であります。
蓬左文庫「桶狭間合戦之図」は私も見ているのですが
あの義元本陣の位置を漆山とするのは
名古屋市緑区役所が発行した資料からみても厳しいのでは、と
陣の展開についての伝承が有松側にあるらしいのです。
記事としてまとめるべきかどうか、手をつかねておりました。
始めまして、木暮兼人様
小生、趣味で桶狭間の戦いを探索しているものです。
失礼を顧みず、貴殿のコメントをみて桐野様のブログをかりてお便りさせていただきました。
名古屋市緑区役所が発行した資料とはどのようなもので、何が書いてあるのか、有松側にあるらしいとの陣の展開についての伝承とはどのようなものか教えていただければありがたいのですが、
宜しくお願いします。
>かぎや散人さま
緑区役所地域振興課において配布されている
「緑区散策マップ、桶狭間古戦場コース」
というもので、有松側の桶狭間の史蹟紹介および伝承などをまとめた散策地図です。
所在がはっきりしているのは今川軍先発の瀬名氏俊の表記のみ、など、史料価値が高いとは言えない部分もありますが
火のないところに煙は立たない、と考えればこういった言い伝えも興味深いと思われます。
ただ、有松の桶狭間古戦場公園は、昭和63年の区画整理のタイミング作られており、実際の位置より史蹟が移動しています。
正確な陣地の特定には役に立たないと思われます。
木暮様 さっそくのお知らせ有難うございます。
緑区の観光案内地図の一種ですね。
恐らく、梶野氏が監修されているのではないかと思うのですが、史跡めぐりには大変便利なものでして、氏の説を検証するには格好の案内書だと思います。
小生も、関連するものを一式緑区図書館で入手して拝見しましたが、漆山本陣説を否定することができる手掛りは発見できませんでした。
木暮兼人さん、かぎや散人さん
資料の紹介や漆山説の反証など有難うございます。
勉強になります。
ご紹介の資料入手してみたいと思います。
お二人とも、現地の地理・地勢にお詳しいですね。
何度も現地調査されたのでしょうね。
板倉丈浩さん
お久しぶりです。
お見舞の言葉、有難うございます。
私も漆山説は全面的に賛成というわけではなく、「信長記」をある程度矛盾なく解釈できるという意味で取り上げたものです。
板倉さんのご指摘のように、有松南方の丘陵地帯が妥当だとすれば、そこから中嶋砦付近は視認できないのではないかと思えますが、どうなのでしょうか?
もし視認できないなら、再検討しないといけないですね。
ご教示有難うございます。
おはようございます。
>「信長記」をある程度矛盾なく解釈できる
そうですね。
義元本陣と討死箇所は多少離れていたほうが無理がないと思えます。
ですから、現在の古戦場跡は義元本陣ではなく討死箇所なのではないかという御指摘は当たっているような気がしています。
>そこから中嶋砦付近は視認できないのではないかと思えますが
この丘陵にある有松中学校は非常に眺望のよいところのようなんですが↓
http://www.arimatsu-j.nagoya-c.ed.jp/arimatu/index.htm
ひょっとしたら中島は微妙に隠れてしまう・・・のかな?
そこまで検証していません。すみませんorz
確かご引用の藤井尚夫氏の考察でも、A(通説の桶狭間山)からE(漆山)まで候補を挙げて、A高地からだと鳴海方面は見えないが、それ以外からだと見えるとあったと思います。
僭越ながら
割り込み失礼いたします。
おそらく、中島砦はお写真の左側に位置すると思われます
写真内には写りこんでいない可能性があります
右側の丘陵地帯らしきところは、「鳴海団地」でしょうか
私自身、藤井尚夫氏の著作を確認しておりませんのでお話が見えてない部分があるのですが、
逆に、中島砦(やや低地)から見えるのは確かに漆山とその後方に控える大高緑地公園くらい。
今残っている善照寺砦あとから有松町幕山方面を遠望すると、
これまた大高緑地公園に眺望が阻まれていたような。
自分自身が幕山に訪れる機会を今まで逃していて、こんなことを申し上げるのは心苦しいのですが、有松町幕山あたりから中島・善照寺を眺望するのは今現在、難しいのではないでしょうか。
木暮兼人さん、レスありがとうございます。
地元の方からの情報はありがたいです。
>中島・善照寺を眺望するのは今現在、難しいのではないでしょうか
ネットで調べてみたのですが、有松中学校の裏手の有松神社あたりが付近最高峰で、鳴海・善照寺・中島が一望できるみたいです。
http://enokama.exblog.jp/7956583/
しかし、現地にはデカデカと「布陣図」が張り出されているんですねえ。
地元の郷土史家(梶野渡氏)の説のようですが、各部隊の配置や移動についてはほとんど史料がないのに、ここまで言い切ってしまってよいものかどうか・・・。
板倉さん、木暮さん
藤井尚夫氏の論考をもう一度見てみました。
板倉さんのご指摘のように、5つの候補地のうち、一番奥のA地点からは中嶋砦は見えないようですね。
有松神社の近くの幕山が藤井氏のB地点になるようで、ここからは見えると書いています。
しかも、有松神社の境内には、陣地構築した跡があるようですね。ここも義元本陣があったとしてもおかしくないのかもしれません。藤井氏は否定的ですが。
僭越ながら一言、疑問を。
藤井尚夫氏が「信長と織田軍団p17」に掲示し、同p18で解説したなかで、「B地点は幕山と呼ばれ」とあるのは、明らかに誤植であると思います。
Bの文字が印刷された丘陵は、大池や二つ池の北にあり、地蔵池の東北方面にありますから、これは明らかに生山です。
そして、Cと書かれた文字の右下の高地が高根であり、その下の高地が幕山にあたるものと思います。その間を長坂からくる鳴海〜桶狭間道が通っています。
生山は標高55m強ですし、その西側の高根も50m強ありますから、生山からは名島砦は見えないと思います。
小生が間違っているかもしれませんが、一度地形図を確認してみることをお勧めします。
かぎや散人さん、こんにちは。
藤井氏が使った地図は少し古いもののようですが、現在の25000分の1の地図とは、宅地開発が進んでいるせいか、対応関係がよくわかりませんね。
ただ、現在の25000分の1の地図でも、田楽坪の位置はわかります。そのほぼ真北の丘陵が生山ですから、藤井氏の地図のB地点にあたることになりますね。
となると、ご指摘のとおり、幕山は生山の西方にあたりますから、C地点になりますね。より正確には、幕山の北の有松神社(高根)を指しているようです。
妥当なるご指摘、有難うございました。
>>板倉様
大変興味深いブログ記事のご紹介、ありがとうございました。
ためになります。この場を借りてお礼申し上げます。
有松神社は予想以上に高所のようですね
この状態であれば善照寺砦は目視できる可能性はあります
実際に訪れる価値がありそうです
このあたりは山を削って宅地開発をした、という噂も聞きましたので
現状に当時をしのぶことは余り期待できないのかな、と解釈しておりました。
桐野先生ご指摘の有松の陣地構築については、調べがつきませんでした。
もう少し地元の史料をあたってみます。