先日、福昌寺跡墓所に、島津斉興夫人池田氏(賢章院)の墓があるのかないのかという疑問を呈したところ、ばんないさんから、少し離れた別の区域にあることを教えてもらった。
そのとき、島津顕彰会編『島津歴代略記』の末尾にある「長谷場御墓」つまり福昌寺跡墓所の略図を見ていて、あることに気づいた。
島津斉彬夫妻の墓は夫婦墓になっていて、次のように2基並んで立っている。

ところが、上記略図によれば、この夫婦墓の、向かって右斜め後ろに、じつはもうひとつ、島津斉彬の墓があると記されている(47番)。
福昌寺跡墓所に立っている案内板にも、番号こそ付されていないが、ちゃんと記載されている。
次の案内板の写真のうち、15番が斉彬夫妻の墓だが、その右斜め後ろに、もうひとつ墓があるのがおわかりだろうか。これが上記の47番に該当すると思われる。

いつも、上の写真の夫婦墓にばかり目がいっていたため、過去に撮影した斉彬のどの写真を見ても、右斜め後ろを撮影していないことにも気づかされた。
迂闊である。
果たして、その場所にどんな墓が立っているのか、写真がないし、記憶を辿っても、まったく覚えていない。
考えてみれば、立派な夫婦墓があるのだから、もうひとつ墓は必要ないはずである。
なぜ、あるのか? 島津家は明治になって神式祭祀を執り行うようになったから、もしかして神式の墓でもあるのか?
しかし、神式の墓だったら、珍しいから写真に撮るなり、記憶していたりするはず。それに、神式といえば、斉彬や島津家にとっては、照国神社や鶴嶺神社もある。あえて、福昌寺跡に建立する理由はない。
そこで、はたと思い当たったことがある。
以前、南日本新聞連載
「さつま人国誌」で、天璋院篤姫が斉彬の一周忌に大円寺(江戸における島津家の菩提寺)に斉彬の供養塔と立てたという記事を書いたことがあった。
ここです。
明治になってから、島津家が神道祭祀となったため、大円寺にあった島津家関係の墓や位牌をすべて整理して鹿児島に持ち帰ったのではないかといわれている。
ばんないさんによれば、大円寺から移転された墓は福昌寺跡墓所に、あまり整理されない形で配置されているという。
この、もうひとつの斉彬の墓というのは、もしかして大円寺から移転された墓ではないのか?
もしそうだったら、篤姫が建立した供養塔ということになるが……。
あくまで臆測です。
実際にその墓を見ないことには始まりませんね。
また宿題がひとつ増えました(笑)。
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