歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第26回「嵐の建白書」

ドラマ進行時点は、安政4年(1857)12月から翌5年3月頃まで。

いよいよ、小松帯刀が登場しましたね。
これまで、肝付尚五郎、小松尚五郎でしたが、ようやく小松帯刀清廉の名乗りとなりました。

ただ、改名時期がやや微妙だった気がします。
「小松帯刀伝」によれば、帯刀清廉への改名は安政5年(1858)3月1日です。ときに小松、24歳。
ドラマでは、斉彬が幕府に建白書を提出したと、小松に告げていました。建白書提出は前年の4年12月25日ですから、改名はドラマの方が少し早いですね。
もっとも、小松が「帯刀」に改名したのはたしかに3月1日ですが、果たして年次が安政4年なのかどうかは必ずしも明確ではないような気もします。

あと、斉彬が「帯刀清廉」の名乗りを与えたかのように描いていましたが、これもどうか。
「薩藩小松帯刀履歴」には、小松の改名届御免の文書が収録されています。

「       尚五郎事
           小松帯刀
右、継目養子成の御礼に付き、願の通り名替御免なされ候条、申し渡すべき也、
  三月朔日  矢五太夫                                」


これを見るかぎり、改名届は小松家側から藩当局に提出され、許可が出ています。宛所の「矢五太夫」はおそらく小松家の家宰か用人でしょう。

ただ、諱の「清廉」のほうは小松家で決めたか、斉彬が決めたかまでは史料不足でよくわかりませんが、常識的には小松家で決めたのではないでしょうか。

せっかく小松帯刀になったのに、相変わらず、行動基準が篤姫へのこだわりという描き方はいかがなものでしょうね。これじゃ、小松像は矮小化されるばかりではないでしょうか。
篤姫が入輿し、小松もお近さんを娶った以上、そろそろ未練を断ち切った演出にしてもらえませんかねえ。
このような未練たらしい人物に、薩摩藩の若い連中の監督役が果たして勤まるのでしょうか。いささか疑問です。

なお、斉彬が小松に命じた新たな役ですが、果たして何なのか?
「小松帯刀伝」「薩藩小松帯刀履歴」によれば、安政4年12月、小松は当番頭と奏者番兼務の辞令を受けています。時期的にいって、おそらくこれでしょう。

それで、『藩法集』8(鹿児島藩・下)によれば、江戸時代後期、当番頭は単独での役職ではなく、御小姓与番頭(おこしょうぐみ・ばんがしら)と奏者番(そうじゃばん)を兼務するのが慣習だったようです。

ところが、小松については、御小姓与番頭の兼務がありませんね。幕末になって職制が変わったのでしょうか?
御小姓与というのは、西郷・大久保などが属する家柄です。城下士のなかの平士(ひらし)、つまり下級城下士で、城下士ではもっとも家数・人数が多い階層で、約3000家あったといわれています。
この膨大な人数のいる御小姓与を居住地によって、6つの区域に分け、それぞれにそのリーダーとして、番頭を任命しました。つまり、御小姓与番頭は常に6人いることになります。
小松もそれに任命されたとすれば、藩の若い連中を監督してくれという斉彬の指示とも符合します。

あるいは、奏者番のほうが斉彬の指示に合致しているでしょうか。
奏者番は幕府の職制にもあるのはご存じだと思います。将軍の側近であり、これに任ぜられるのは譜代大名のエリートコースに乗ることを意味しました。

薩摩藩の職制も幕府職制にならっています。
薩摩藩では、奏者番は以前、十人衆と称していました。奏者番でも奧(大名の近く)に勤務する奧奏者番は御側御用人も兼務する重職でした。
それはともあれ、上記『藩法集』によれば、奏者番の職務として、以下の4つが挙げられています。

一、講堂勤の事
一、武芸見分の事
一、鬢肩見分の事
一、尊卑の差別・容貌言語等の儀立ち直し候様、下知候事


このうち、最初の2つが斉彬の指示にあった若い連中の監督という仕事にあたりそうです。
残りの2つは風紀の乱れを是正する役目といったらいいでしょうか。
おそらく藩主重豪(斉彬の曾祖父)の治世で取り決められたものでしょう。


今回のタイトルにもなった斉彬の建白書について、最後に少し触れておきます。
この建白書は、私が見た範囲では薩摩藩側の史料には収録されていないようで、『徳川慶喜公伝』史料篇一に収録されています。幕閣に提出されたので、幕府側に残されたということでしょうか。
提出時期は安政4年(1857)12月25日です。

建白書には、開国政策はやむをえないこととしながら、多くの外国人が入国してくるようになったら、人心統一が大事だと述べ、そのためには「西丸建儲之御事」(将軍継嗣問題)が肝心だと述べ、将軍世子がいない状況では人心が不安になるので、一刻も早く「養君」(将軍継嗣)を決めるよう主張しています。
そして、斉彬の将軍継嗣問題への考え方を次のように述べています。

「勿論、お血筋お近き御方当然の御事には御座候え共、かかるご時節に御座候えば、少くもお年増の御方、天下人心の固めにも相成るべし、然れば、一橋殿御事、ご器量・ご年輩・かたがた人望にお叶いなさるべくと存じ奉り候間、第一にこの義仰せ出されたし、もっとも、御台様(篤姫)ご入輿あらせられ候御事ゆえ、ひとえにご出生待ち上げ奉るべく義当然に御座候えども、当時の形勢にては、一日も早く御養君仰せ出されず候てでは、相済がたきご時節と存じ奉り候」

斉彬は将軍継嗣の条件として、血統よりも①器量、②年長、③人望という3つの条件を優先しています。
井伊大老など譜代門閥層の基準はその3つではなく、あくまで血統でしたから、対立するのは必至ですね。

なお、大奥では本寿院が激怒しまくっていました。
その様子は、斉彬が建白書から3カ月ほどのち、松平慶永に宛てた書簡の一節からもわかります(『昨夢紀事』三、安政5年4月3日条)。

「(篤姫が)上の思し召しもいかがと存じ、本寿院様えちょっと相談申し上げ候へば、このほど御咄(おはなし)、ことの外お腹立ちにて何ゆへかよふに大名より申し出候かとの様の事にても、一橋はおいやと、そのうえ奥向き皆々みらひ候ゆへ、この義は叶いがたく」

本寿院はなぜ将軍継嗣問題という徳川家か幕閣の問題に、外様大名が口出しするのかと、腹を立てていますね。
これでは、一橋慶喜は③人望という点でも条件を満たしていなかったようです。
一橋派の敗北は約束されたものだったともいえそうです。

さて、ドラマでは老中堀田正睦が条約勅許を得られませんでした。
厳密に言えば、朝廷は許可しなかったのではなく、もう一度、御三家や大名とよく話し合ってから結論を出してほしいということでした。

そこで、老中堀田はそれを一種のなぞ解きだと理解して、将軍継嗣を一橋慶喜にすれば、朝廷から条約勅許を得られると考え、一橋派にくら替えして、巻き返しを図ろうとするのですが、堀田の望みを断ち切ったのが大老井伊直弼の登場です。

井伊を大老にしたのは、ドラマにも登場していた老中松平忠固(信州上田藩主)ですね。彼が堀田の目論見をうち砕きました。

次回からドラマは新展開ですね。
家定の死、斉彬の死、激動の時代になります。

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【2008/06/29 23:49】 | 信長
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2008/06/30(Mon) 02:40:51 |  旅じゃ.com
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