拙ブログをご覧の方から、ご自宅所蔵の古文書を見てもらいたいというメールが舞い込んだ。
熊本県在住の方で、
村田新八が
「甲東先生」に宛てた手紙ではないかと仰せ。
村田文書なら、数が少ないから貴重である。期待に胸を膨らませて、写真版を送っていただきたいとお願いする。
さっそく送っていただいたが、残念ながら、村田新八のものではなかった。「頓首九拝」という書止文言のくずし方と多少の虫損が作用して、「新八」に読めたということらしい。
よく見ると、な、なんと
木戸孝允の書簡だった。むろん、「甲東先生」こと利通宛てである。すごいのが出てくるものである。
折しも、小学6年生にもっとも知名度の低い2人の組み合わせである(笑)。
年次は明治2年(1869)で決まりだと思う。
待詔院学士任命の件だった。待詔院とは、太政官政府にできた各種建白書を受理して審議する役所。2カ月ほどで消滅したマイナーな役所である。
私でも何とか読めたので、翻刻文をお送りしたあとで、ハタと気づいた。
『木戸孝允文書』(全8巻)をもっていたことを。
日頃使わないから、すっかり忘れていた(汗)。
そしたら、何と、同文書にはその案文のほうが収録されているではないか(同文は『大久保利通関係文書』二にも収録。『木戸孝允文書』からの転載か)。
つまり、木戸は案文を一度書き、それをさらに浄書して大久保に送った。案文はそのまま手許に残したから、木戸家に所蔵されて同文書に収録された。
一方、正文は大久保家には伝来せず、どういう経緯があったのか、人知れず熊本のほうに保管されていて、ずっと世間に知られていなかったという次第。もちろん、同文書に正文は収録されていない。
両者を読みくらべてみたら、少なからぬ文章の異同があった。木戸が待詔院学士の拝命を断りたい理由については、案文のほうが詳しい。
しかし、その部分を削除したのは、言い訳がましかったからだろうか。
ともあれ、木戸孝允文書を本格的に拝見させてもらったのは初めてで、眼福でした。有難うございます。
伝来の経緯が気になるところだが……。
ほかにも、古文書をたくさんお持ちのようである。
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