歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

NHK大河ドラマ「篤姫」第27回「徳川の妻」

ドラマの進行時点は安政5年(1858)4月頃。

ハリスとの会見が終わったせいか、将軍家定の見せ場づくりに苦心している感じで、早、死後の伏線が張られていますね。
しかも、家定だけではなく、島津斉彬についても。
それもそのはず、2人は同じ年に、しかも、ドラマ進行時点からわずか3カ月後、10日違いで相前後して他界しますから。

今回のポイントは井伊直弼の大老就任でしたが、そのライバルとして、越前福井藩主・松平慶永がクローズアップされました。
そして、前々回、一橋慶喜と紀州慶喜の品定めと同様、2人の大老候補を、篤姫が家定と共に引見するという趣向。

いかにも創作ですが、気になったのは、はて、引見の場所はどこかという点です。将軍執務室の中奥(なかおく)には、いかに御台所とて入れるわけはありません。
となると、やはり大奥の御殿向(御台所の居住空間)にある御対面所ということになるんでしょうね。
むろん、家定と篤姫が御対面所に直弼と慶永を招き入れたというのは史料には見えません。

それに関連して、篤姫が年寄以下の女中の制止を振り切って大奥を出て、家定のところに押しかけたのは中奥ということになるんでしょうな。どちらにしろ、フィクションなので、とくに説明していませんでしたね。

それで、肝心の慶永の大老職就任の話ですが、ドラマでは斉彬が発案したように見えましたが、そうではないと思います。
幕府の海防掛で一橋派の川路聖謨や岩瀬忠震あたりが老中堀田正睦の上洛に随行しており、おそらく、その間に建議し、堀田もその説に傾いたというあたりが真相かと思われます。

というのは、岩瀬が京都で橋本左内と会ったとき、慶永の「宰輔」就任を説いているからです。岩瀬によれば、「宰輔」とは大老以上の要職で、将軍を補佐し重大政務のみを決裁するというものでした。重大政務として念頭に置かれているのは、条約勅許問題と将軍継嗣問題でしょうね。
職務内容はほとんど大老と変わりませんが、慶永は譜代ではなく家門大名(親藩)ですから、本来、大老に就任する筋ではありません。ですから、「宰輔」なる新たな臨時職をひねり出したのでしょう。
宰輔と大老は違うのですが、ドラマでは面倒なので、その説明は省いたのでしょう。

条約勅許の獲得に失敗した堀田が江戸に帰府したのが4月20日で、家定に謁見するのが翌21日ですが、じつはその間に素早く、井伊の大老就任の根回しが行われました。首謀者は老中松平忠固です。ドラマでは松澤一之でしたね。なかなか一癖ありそうな目つきでした。
堀田が家定に、慶永の大老職就任を建議したところ、家定がはっきりと拒否します。

井伊の腹心である宇津木六之丞の『公用方秘録』には、堀田から聞いた話として、次のように書かれています。

「松平越前守へ御大老仰せ付け然るべき旨伺いに相成り候処、上様御驚、家柄と申し、人物に候へば、彦根を差し置き、越前へ仰せ付けらるべき筋これなし、掃部頭へ仰せ付けらるべしとの上意にて、俄かに御取り極に相成り候」

堀田が慶永を推薦すると、家定が驚き、「家柄といい、人物といい、彦根を差し置いて、越前を任命する筋ではない。掃部頭(井伊)に申し付ける」という答えだったという。

家定にしては、かなりはっきりしたもの言いです。
井伊の大老就任は、つまるところ、紀州慶福の継嗣決定の布石ですから、家定も当然承知していたと見るべきでしょうね。

一方、一橋派、とくに幕府の中堅官僚である海防掛の連中の井伊評はなかなか辛辣です。
たとえば、『昨夢紀事』三には、
越前藩の橋本左内が岩瀬忠震から聞いた言葉として、「児輩に等しき男」
また永井尚志などは「掃部は其器にあらず、かゝる人を薦挙有りて、かゝる艱難の天下の治まるべきや」と老中衆に食ってかかったとか。

まあ、彼らが井伊大老の命で失脚させられるのもむべなるかなですな。

あと、本寿院がすでに何度か口走っていると思いますが、慶喜が将軍継嗣になったら自害すると言っている件。
これも史実ですね。『昨夢紀事』三に、岩瀬忠震の談話中に出てきます。ちょうど井伊が大老に就任する前後のことです。

「彼の例の本寿院の尼公余りに厳しく御拒絶にて三月以来御潔斎にて御願を立らるゝばかりの御事ゆえ 上よりも態と度々は仰せ立かねられしかど、此比(このごろ)、又々仰せ上られしかば、さらば御自殺もあらるべき御決心の由を仰せ立てらる」云々

本寿院は慶喜の継嗣決定を阻止しようと、1カ月以上、毎日潔斎して願掛けをしているというのですから、ただの脅しではなく、本気のようですね。
篤姫が態度を変えたのは、この姑の決死の覚悟に影響された面もあるかもしれませんね。

次回は、篤姫の大事な人である家定と斉彬の双方が他界してしまいます。一大事です。

余談
先日、といってももう3カ月ほど前だったでしょうか。
大河ドラマの時代考証を担当されている原口泉氏が上京されたとき、少し裏話をうかがいました。
そのとき、制作側の意向として、斉彬が入輿後の篤姫と対面する場面を設定したいが、江戸城中は無理なので、浜離宮でひそかに会うという設定にするかもと仰せだったのですが、この分ではカットされたみたいですね。考えてみれば、斉彬は参勤交代で国許にいますから、会える状況にはありません。
その浜離宮が「篤姫紀行」に登場していましたね。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
スポンサーサイト

【2008/07/06 23:42】 | 篤姫
トラックバック(1) |

「ドイツ」とか
ばんない
某所ではその松平慶永がその当時存在してなかったはずの「ドイツ」なんてお国の名前を出されたとか話題になってますが…(汗)
もう一つ、原口先生におかれましては、あのフジテレビ大奥でもやらなかった「御台様のご錠廊下突破」は身を挺してお止めして欲しかったです(苦笑)。まあ、再来週から家茂公の義理の母として西太后もビックリの垂廉政治を篤姫がされても全然おかしくない状況の今年の大河ですけど。

それと、この大河では全然史実と違う人格にされてしまって、見せ場が無くてかわいそうな小松帯刀ですが、この後、篤姫によって大奥にやってくるシーンがあるようです…これが脚本家が精一杯考えた帯刀の見せ場としたら悲しすぎるのですが。また、『時代劇マガジン』という雑誌で、プロデューサーの佐藤峰世氏が小松帯刀の最期について早くもネタばらししているのですが、「また悪いことは全部大久保と西郷のせいにするのか」という内容になっています。

ところで、井伊直弼を大老に推挙した上田藩主・松平忠固という人をちょっとネットで検索してみたら、この後、その恩を売ったはずの直弼に冷や飯を食わされるようですね(ネタバレ?)。松澤一之という配役はいい人選だったかも知れません(汗)。

ドイツ
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

そういえば、「ドイツ」って言ってましたね。
まだ統一されていないし、プロシアぐらいにしておけばよかったかもしれませんね。

小松の今後については、私も先行き不安に思っておりました。
気弱なキャラから脱却できないんじゃないかと。
そうならないように祈るばかりですが……。

家定賢君説?
御座候
先日、彦根城博物館の特別展「政治の時代―井伊直弼と幕末の群像」を見学したのですが、安政5年5月9日に直弼腹心の宇津木景福が京都の長野義言に宛てた書状の中に「(直弼が)段々上慮御伺被遊候処、天下之義深く御愁ひ御討論も御座候処、御賢明ニて御仁憐之御方と被仰候、実ニ可憎ハ奸佞邪智之人ニ御座候」とありました。

もしかすると、この史料も家定賢君説の根拠になっているんでしょうか??
まあ井伊直弼の立場からすると、「将軍が暗愚なのをいいことに幕政を壟断」などと批判されては叶いませんから、是が非でも名君ということにしなければならないわけで、その点は割り引いて考える必要があるのでしょうが・・・

家定は賢君?
桐野
御座候さん、こんにちは。

彦根城博物館の展示、存じてはいたのですが、なかなか見に行けません。

それでご紹介の書状ですが、まことに興味深い内容ですね。
「御賢明」「御仁憐」ですか……。

まあ、松平春嶽を「宰補」にする話を、家定が拒絶した理由は、徳川家にとっては常識的な考え方ですから、家定には将軍として常識的な意見表明できる能力は十分あったのはたしかなんでしょう。

ただ、常識的なことが「賢君」かといえば、?ですね。
「賢君」とは、やはり常識にとらわれず、何らかの改革をなし遂げた君主ではないかと思いますが……。
家定の場合は病弱で短命、将軍在職期間も短いです。それに奇矯な行動を云々されたため、その分、常識的な振る舞いがあれば、相対的に「賢君」に見えるのかもしれませんね。
歴代将軍同様の常識人だったということでしょうか。

なかなか面白い展示でした
御座候
>彦根城博物館の展示、存じてはいたのですが、なかなか見に行けません。

書状類が多く出ておりましたので、図録だけでも御覧になられるとよろしいかと愚考致します。
当該文書の写真も掲載されています。



>家定の場合は病弱で短命、将軍在職期間も短いです。それに奇矯な行動を云々されたため、その分、常識的な振る舞いがあれば、相対的に「賢君」に見えるのかもしれませんね。


暗君の噂が流れていたのに、会ってみたら意外にまともだったので「賢君」と評した、ということでしょうか(^_^;)
幕府の権威を取り戻すためにも、家定暗君説を打ち消す必要が直弼にはあったのでしょうが。

なお、この書状には「君上御賢察被遊候間、向後ハ思召之義ハ聊御遠慮なく十分に被仰出候様被仰上、其後ハ追々思召も被仰出候」ともあり、直弼が「公方様は御賢明でいらっしゃいますから、これからはお考えはご遠慮なくおっしゃって下さいませ」と申し上げたところ、その後はだんだん家定が意見表明するようになったことが分かります。
直弼の主張なのでこれも割り引いて考える必要はあるでしょうが、大河ドラマ『篤姫』と異なり、家定―直弼間に信頼関係が醸成されていたと見て良いように思います。

図録
桐野
御座候さん、こんばんは。

図録の紹介も有難うございます。
さっそく注文したいと思います。

家定-直弼の信頼関係が醸成されたのなら、一橋派には一層勝ち目がなかったことになりますね。
家定の再評価の動きがありますが、この図録もその一環ととなりそうですね。
有難うございました。

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
「ドイツ」とか
某所ではその松平慶永がその当時存在してなかったはずの「ドイツ」なんてお国の名前を出されたとか話題になってますが…(汗)
もう一つ、原口先生におかれましては、あのフジテレビ大奥でもやらなかった「御台様のご錠廊下突破」は身を挺してお止めして欲しかったです(苦笑)。まあ、再来週から家茂公の義理の母として西太后もビックリの垂廉政治を篤姫がされても全然おかしくない状況の今年の大河ですけど。

それと、この大河では全然史実と違う人格にされてしまって、見せ場が無くてかわいそうな小松帯刀ですが、この後、篤姫によって大奥にやってくるシーンがあるようです…これが脚本家が精一杯考えた帯刀の見せ場としたら悲しすぎるのですが。また、『時代劇マガジン』という雑誌で、プロデューサーの佐藤峰世氏が小松帯刀の最期について早くもネタばらししているのですが、「また悪いことは全部大久保と西郷のせいにするのか」という内容になっています。

ところで、井伊直弼を大老に推挙した上田藩主・松平忠固という人をちょっとネットで検索してみたら、この後、その恩を売ったはずの直弼に冷や飯を食わされるようですね(ネタバレ?)。松澤一之という配役はいい人選だったかも知れません(汗)。
2008/07/07(Mon) 20:34 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
ドイツ
ばんないさん、こんばんは。

そういえば、「ドイツ」って言ってましたね。
まだ統一されていないし、プロシアぐらいにしておけばよかったかもしれませんね。

小松の今後については、私も先行き不安に思っておりました。
気弱なキャラから脱却できないんじゃないかと。
そうならないように祈るばかりですが……。
2008/07/07(Mon) 22:52 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
家定賢君説?
先日、彦根城博物館の特別展「政治の時代―井伊直弼と幕末の群像」を見学したのですが、安政5年5月9日に直弼腹心の宇津木景福が京都の長野義言に宛てた書状の中に「(直弼が)段々上慮御伺被遊候処、天下之義深く御愁ひ御討論も御座候処、御賢明ニて御仁憐之御方と被仰候、実ニ可憎ハ奸佞邪智之人ニ御座候」とありました。

もしかすると、この史料も家定賢君説の根拠になっているんでしょうか??
まあ井伊直弼の立場からすると、「将軍が暗愚なのをいいことに幕政を壟断」などと批判されては叶いませんから、是が非でも名君ということにしなければならないわけで、その点は割り引いて考える必要があるのでしょうが・・・
2009/12/01(Tue) 21:46 | URL  | 御座候 #vWEeux/c[ 編集]
家定は賢君?
御座候さん、こんにちは。

彦根城博物館の展示、存じてはいたのですが、なかなか見に行けません。

それでご紹介の書状ですが、まことに興味深い内容ですね。
「御賢明」「御仁憐」ですか……。

まあ、松平春嶽を「宰補」にする話を、家定が拒絶した理由は、徳川家にとっては常識的な考え方ですから、家定には将軍として常識的な意見表明できる能力は十分あったのはたしかなんでしょう。

ただ、常識的なことが「賢君」かといえば、?ですね。
「賢君」とは、やはり常識にとらわれず、何らかの改革をなし遂げた君主ではないかと思いますが……。
家定の場合は病弱で短命、将軍在職期間も短いです。それに奇矯な行動を云々されたため、その分、常識的な振る舞いがあれば、相対的に「賢君」に見えるのかもしれませんね。
歴代将軍同様の常識人だったということでしょうか。
2009/12/02(Wed) 10:37 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
なかなか面白い展示でした
>彦根城博物館の展示、存じてはいたのですが、なかなか見に行けません。

書状類が多く出ておりましたので、図録だけでも御覧になられるとよろしいかと愚考致します。
当該文書の写真も掲載されています。



>家定の場合は病弱で短命、将軍在職期間も短いです。それに奇矯な行動を云々されたため、その分、常識的な振る舞いがあれば、相対的に「賢君」に見えるのかもしれませんね。


暗君の噂が流れていたのに、会ってみたら意外にまともだったので「賢君」と評した、ということでしょうか(^_^;)
幕府の権威を取り戻すためにも、家定暗君説を打ち消す必要が直弼にはあったのでしょうが。

なお、この書状には「君上御賢察被遊候間、向後ハ思召之義ハ聊御遠慮なく十分に被仰出候様被仰上、其後ハ追々思召も被仰出候」ともあり、直弼が「公方様は御賢明でいらっしゃいますから、これからはお考えはご遠慮なくおっしゃって下さいませ」と申し上げたところ、その後はだんだん家定が意見表明するようになったことが分かります。
直弼の主張なのでこれも割り引いて考える必要はあるでしょうが、大河ドラマ『篤姫』と異なり、家定―直弼間に信頼関係が醸成されていたと見て良いように思います。
2009/12/02(Wed) 13:23 | URL  | 御座候 #vWEeux/c[ 編集]
図録
御座候さん、こんばんは。

図録の紹介も有難うございます。
さっそく注文したいと思います。

家定-直弼の信頼関係が醸成されたのなら、一橋派には一層勝ち目がなかったことになりますね。
家定の再評価の動きがありますが、この図録もその一環ととなりそうですね。
有難うございました。
2009/12/03(Thu) 19:50 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
トホホ、『篤姫』の前にひと寝入りしておこうとして起きたら、もう終わりの5分。目覚...
2008/07/12(Sat) 19:05:15 |  旅じゃ.com
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。