歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第29回「天璋院篤姫」

ドラマ進行時点は安政5年(1858)8月頃

将軍家定の葬儀が終わったあと、8月29日、篤姫は落飾し、「天璋院」の院号を名乗ることになりました。
今回のタイトルはそれにちなんでいます。

院号ははじめ、天皇の追号、太上天皇(上皇)や女院の称号でしたが、のちに社会全体に広まり、将軍や大名はむろん、一般にまで広がりました。

ちなみに、将軍家定の院号はドラマにもあったように、「温恭院」です。

なお、鶴田真由演じる側室のお志賀の方ですが、ドラマのように将軍家定がなくなったのを理由に大奥を去ったわけではないようです。三田村鳶魚『御殿女中』に次のように書かれています。

「家定将軍の御中臈志賀が瓦壊後に、この上は主取りもしない、縁付きもしない、托鉢して暮すと言った」

これを見るかぎり、お志賀の方は江戸開城まで大奥にいたことがうかがえます。
将軍家定が他界した以上、もう出番もありませんから、女優鶴田真由を拘束できないので、お別れの挨拶になったのでしょう(笑)。

なお、お志賀の方の院号は「豊倹院」で、お墓は谷中天王院にあるそうですが、三田村鳶魚は探せなかったそうです。
天王院はいまも、谷中墓地の一角にありますね。もし興味のある方がおいでなら、「豊倹院」の院号を頼りに探されてはいかがでしょうか。もっとも、戒名は違うかも知れませんが。

さて、今回のお題は、本寿院が口走った将軍家定毒殺説の真偽についてです。

その前に気になったのは、本寿院の逆上ぶりです。
いくら実の子がなくなったとはいえ、御台所を折檻するなんてできるはずがありません。御台所は大奥の主人ですから。また逆上する理由が「毒殺」云々というのもかなり飛躍がありますね。
将軍生母とはいい条、身分はせいぜい大奥の年寄格ですから、御台所の家来にすぎません。
ドラマの本寿院のキャラが定まっているだけに、ああいう形になったのでしょうが、大奥の身分秩序からはありえないだろうと思います。

もうひとつ、その前に将軍家定が亡くなった状況を検討しておきたいと思います。
家定が他界したのは、当年7月6日ですが、『旧事諮問録』(岩波文庫)で、もと大奥女中の箕浦はな子と佐々鎮子が将軍不例について、次のように語っています。

「温恭院様(家定)はちょうど宰相様(慶福・家茂)の御広めの時に、御広めが済んで松の御廊下からつかまって御出になる位で、御小座敷で御仆れになったのでございます」

紀州慶福が将軍継嗣と決まったお披露目があったのは6月25日です。このお披露目は御三家・御三卿はじめ、譜代大名や布衣以上の旗本まで対象になっています。

「温恭院御実紀」(続徳川実紀三)によれば、家定は「御座間」で慶福と対面しています。「御座間」は将軍執務室のある中奥にある「御座之間」で、通常の将軍の居室です。その後、表向(政庁空間)に出て、慶福を伴い、大名・旗本のそれぞれの詰の間(殿席)を回ったのでしょうか。あるいは、大広間が接見の間に使われることもあるようですので、そこに行くのに松の廊下を通ったということでしょうか。

そうでなければ、松の廊下あたりで、「(近習に)つかまって御出」にはならないでしょう。松の廊下の近くには大廊下という御三家の詰の間もあります。そのあたりですでに家定は一人で歩行できないくらい弱っていたのですね。

そして、とうとう「御小座敷」で倒れたわけですが、ここは中奥にある将軍の寝所(御小座敷)なのか、それとも大奥の寝室である御小座敷のどちらでしょうか。
名称はどちらも同じですから、ややこしいです。そして10日ほどたってから他界したことになります。

一方、畑尚子『幕末の大奥』(岩波新書)では、家定が大奥で亡くなったとしています。
彦根藩公用方秘録」によれば、脚気衝心の症状が出た家定は「大奥御寝所」で病床にあったため、井伊直弼や老中は大奥に召されたとあります。
大奥御寝所」とは御鈴廊下近くの将軍奧泊まりの寝室である「御小座敷」のことでしょう。
家定が亡くなる2日前の7月4日も井伊は大奥に行き、家定のもとを訪れ政務の話をしたとあります。その時点では症状は安定していたけれど、2日後に急死することになります。

畑氏は「家定は大奥で死去したと考えられる。よって敬子(篤姫のこと)はその病床を見舞い、家定の手を握りしめることもできたのではないだろうか」と書いています。

家定が大奥で亡くなったのなら、篤姫が看病したり、臨終に立ち会い、死を看取ることもできた可能性が高いですね。

『旧事諮問録』のもと大奥女中たちの証言にある「御小座敷」が中奥御小座敷なのか、それとも大奥の御小座敷なのでしょうか?
後者なら、畑説と一致することになり、篤姫が夫を看取れる可能性は高いですね。前者なら、看取れないことになります。
ドラマは前者を採用したということになるのでしょうか。

さて、本寿院が口走った家定暗殺説ですが、これについては、私が知るかぎり、風聞という形で2つの史料があります。

①「野口家文書」
これは畑尚子氏の上記著書に紹介されています。大奥で家定付きの使番女中だった藤波が弟の郁三郎に宛てた書簡で、次のように書かれています。

「御手前さまゆへ極々内々ながら御毒薬にて御わるく成らせられ候、御医師も当番つき居り候、水戸・尾張・一ツ橋・越前、まづケ様なる所皆くみして居り候、外にもこの間しくじり候御老中二人の外にも色々の人御座候」

弟だから内密に話すけれども、家定は「御毒薬」で悪くなったと書いています。
そして毒を盛ったのは、いわゆる一橋派の面々、それに最近失脚した老中2人も加わっていると書かれています。この2人は井伊によって失脚した堀田正睦と松平忠固のことでしょうね。
しかし、これら最低でも6人の諸侯が共謀して毒殺したとは考えられませんね。しかも、将軍継嗣問題は決着してしまったわけで、いまさら家定を暗殺したとしても、大勢が覆るわけではありません。

②『井伊家史料 幕末風雲探索書』上
これは井伊家の密偵の活動をまとめた報告書です。井伊直弼の命で集められた情報ということになります。そのなかに、安政5年7月、彦根藩江戸内目付日下部弥右衛門の探索書「治乱密書」の一節に次のように書かれています。

「人気不穏の処、兼て水戸前中納言殿御計りにて、奥医師岡櫟仙院奧女中一味の者共毒薬を用い、指し上げられ候処、大君様少しも御存知これなく、その薬御上り遊ばされ候処、それを以て御様子一通りならざるゆえ、当時名高き医師の内、町宅致し居り候芸州侯抱え戸塚静海・津山侯抱え遠田長庵・紀州侯抱え伊東玄朴・松平駿河守抱え青山春岱、いずれも早駕にて登城、取り仕切り、御薬指し上げられ候処、御毒を吐き出させられ、少々御快く相見え候。然る処、奧女中一味の四人御全快に相成り候てはとても相叶わずと心得、さっそく自害致し候に付き、すぐさま療治仰せ付けられ候えども、終に事切れに相成り申し候由、右の始終も水府前黄門殿の御計りに相違これなきに付き」

これによれば、水戸斉昭の密命を受けた奥医師岡櫟仙院と奥女中4人がひそかに家定に毒を盛ったけれど、町医者の戸塚静海・伊東玄朴などの手当てによって毒を吐き出したので、事なきを得た。奧女中4人は事が露見したので、自害した。すぐ手当てしてみたが、助からなかったということのようです。
引用のあとに、この一件があったので、尾張殿・水戸殿・越前殿が処罰されたとありますが、彼らが処罰されたのは、不時登城をしたからであり、毒殺の嫌疑ではありません。

どうも一橋派の政敵である井伊家の史料だけに、バイアスがかかっているように読めてしまうのですが。また①も水戸嫌いの大奥女中の手紙だけにどこまで信用できるのかどうか、わかりませんね。

ともあれ、家定毒殺説が風聞とはいえ、根強かった証拠ではあると思いましたので、紹介してみました。

最後に、ドラマで面白かったのは、篤姫付きの中臈が家定が亡くなって、篤姫が未亡人になってしまったことを、「まだ23とお若いのに」と嘆いていました。

篤姫は天保6年(1835)12月19日生まれということですから、この時点で、本来は24歳(数え)になります。
最初、満年齢と数え年を混同したのかと思いましたが、そうではないと気づきました。
島津斉彬が篤姫を実子として幕府に届け出をしたとき、鹿児島滞在中に儲けた子どもだということで辻褄を合わせるために、篤姫の生年月日を少し遅らせて、翌7年2月19日にして届け出たのです。年齢詐称ですね(笑)。

したがって、篤姫は公称で23歳(数え)になるのです。例の中臈はその公称を信じているということになりますね。何げないセリフでしたが、史実を踏まえた細かい芸で、少し感心しました。

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【2008/07/20 23:36】 | 篤姫
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