歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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栄中日文化センター講座「関ヶ原合戦を読み解く」第4回

7月24日(木)、昼前、京都から名古屋へ向かう。
講座も早、4回目。
今回のタイトルは表題どおり。

冒頭に、「出頭人」としての、石田三成と本多正純の類似性、共通性を話した。
出頭人」については、高木昭作氏の論考がある(『日本近世国家史の研究』、岩波書店)。
ふつう、「出頭人」といえば、主君の信任厚い側近、重臣で、主君に変わって権勢を振るう人物という意味でとらえられるのが一般的だった。
しかし、高木氏はそのような一般的な意味だけでなく、のち徳川秀忠の出頭人となった土井利勝の事例から、「出頭人」とは主君の「口真似」をする存在として描かれていたことが印象に残っている。つまり、「出頭人」の口から発せられる言葉はそのまま主君の言葉に等しいことになるわけで、「出頭人」たる所以はそこにあったのである。
もっとも、高木氏は「出頭人」は自ら光を発せず、主人の光を受けて輝く存在とも述べており、出頭人の権勢は主人一代限りでしかないことを喝破している。

まさに三成も太閤秀吉の「出頭人」だったといえる。その点では、徳川家康の「出頭人」だった本多正信・正純父子、とくに正純とよく似ていると思う。
正信は家康と相前後して他界したが、正純は若かったので余命が長かった。
三成と正純は秀吉・家康の存命中、権勢を振るった点が共通しているだけでなく、主人の死後、「出頭人」として没落を宿命づけられているのにもかかわらず、その宿命に抗した点も共通し、結局、宿命に抗えずに没落していった点も共通している。

そして、2人が宿命に抗って権勢を回復するために勢力基盤にしようとしたのが、当該政権の譜代衆(豊家恩顧や徳川譜代)ではなく、外様衆だったことも共通している。
三成は、毛利・上杉・島津などを。
正純は、福島正則を中心とする西国の外様大名を。

そのような意味で、関ヶ原合戦の仕掛け人は三成にほかならないという前提をひとくさり話した。

ここまでで、30分近くかかってしまったのが、三成ならぬ私の誤算だった。ほんの5分くらいのつもりだったのに……。
おかげで、本論部分に大きなしわ寄せが。
とくに、三成が決戦3日前に増田長盛に宛てた書状を詳しく検討する時間がなくなってしまった。

もうひとつのポイントは、三成と上杉景勝・直江兼続の間での共同謀議の有無の検討だった。
このなかで、両者の間の往復書簡のやりとりが、最低でも9回あることを確認した。もっとも、そのなかには偽文書ではないかとされるものも含まれている。
兼続宛て三成書状の2点がそうだが、真正の文書だとしてもおかしくないのではという話をした。
とくに書状中の用語について、先行研究が偽文書の根拠としているが、ほとんどが感覚的な批判にすぎず、三成の他の文書にも同じ言葉、あるいは似た言葉があることから、三成がよく使う言葉だったのではないかと指摘した。

結局、予定を20分以上オーバーし、さらにたくさんの質問があった。
とくに「なぜ偽文書を作る必要があるのか」という質問には、一瞬、どう答えたらよいものやら、言葉に詰まった。
考えてみれば、そうだよね。誰しも疑問に思うことだ。
個人的な考えとして、ある事柄の真相を追究するとき、たとえば、歴史家と小説家では史実のありように対する態度が異なるのと似ているのではないかという趣旨を答えた。
歴史家は真相がわからなければ、わからないとして結論を留保するが、小説家はそれに飽き足らず想像力の翼を拡げて、あえて結論を求めようとする。それは自分が満足できる結論だったり、多くの受け手が望む結論だったりする。偽文書はそのような史実の空白を埋めるために、小説家のような考え方をする者の人為的営為として、どこからともなく登場するのでは、とわかったような、わからないような回答をしたが、満足してもらえたかどうか。

次回は、徳川秀忠軍の動向についてやります。とくに本戦に間に合わなかったとされる「遅参」理由について。

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【2008/07/27 17:43】 | 中日文化センター
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びわこ
桐野さん、こんにちは。

「出頭人」のこと、先日、木之本で開かれた「石田三成と関ヶ原合戦」という講演で、講師の伊藤真昭氏も同じようなことを話されていました。

桐野さんのお話は、明智光秀と本能寺しか聞いていませんので、がっつりと関ヶ原の話を聞きたいものです。
あぁ、この講座、受講できなかったことが、かえすがえすも悔やまれます・・・

さて、
>史実の空白を埋める

なんか、妙に納得しました。
でも、こういうのが、何年も経つうちに定説になってしまうところがこわいかも。。。


出頭人
桐野作人
びわこさん、こんにちは。

伊藤真昭氏の講演を拝聴されたんですね。
彼も三成の佐和山領有時期など、いろいろな論考を発表していますね。

「出頭人」という用語は、三成を考えるうえで、重要なキーワードであろうと思います。
たとえば、いわゆる武断派七将による三成襲撃も、秀吉の死によって三成が「出頭人」としての地位をすべり落ちたからこそ実行されたわけで、秀吉健在なら起こりっこありませんね。

三成もまた元「出頭人」としてわずかに残る権勢の余韻を総動員して、西軍の組織化を図ったと思われます。その地位の低下からすれば、予想以上の仕事だったと思います。その点は家康をさぞや驚かしたことと思います。
問題は、三成が西軍の主導権を確立できなかったことですね。「出頭人」としても、もととも無理筋ですし、すでに没落が始まっていますから、なおさら難しく、輝元と秀家に頼るしかなかったのでしょう。
関ヶ原合戦の仕掛け人でありながら、最後まで自分のいくさができなかったことはさぞや無念だったと思います。

第4回の講座につきまして
木暮兼人
出頭人のお話。私は、大変興味深く拝聴いたしました。
そのような見方があったのか、と目からウロコが落ちたような感想を抱きましたが・・・。数分であの話題が終了していても、もったいなかった気がいたします。
講座のお時間がもう少しあれば、と思いました。

石田三成から増田長盛への手紙の件については
自分でもなんとか読んでみたのですが、克明に石田三成の心情が書かれすぎていて、三成の誤算がほとんどすべて読み取れてしまいます。
自分の悩みを書状という形にしてしまったのも、まずかったのではないかと思いますが。こうしたことはこの当時は普通に行われていたのでしょうか?

話は変わりますが「慶長の危機」を証明する一次史料となる書状がみつかった、と今朝の中日新聞に掲載されていました。
古文書や史料の世界というのは、実際に触れてみると、大変興味深いです。

三成書簡
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

出頭人という視点から三成をみれば、その権勢の秘密も、秀吉死後の地位の低下も理解できますね。

増田長盛宛て三成書簡は私信ということもあり、かなり生々しいです。この時代、こういう書簡は珍しいかもしれません。まあ、親子関係かそれに近い関係ならあるでしょうが。

三成はよほど長盛を気が許せる親友だと思っていたんでしょうね。その長盛は家康にも内通するなど、二股膏薬なのに。
そんな人物を信用していた三成も哀れですし、逆に言えば、人物の鑑定には暗かったというか、人間心理がよくわからない人だったのでしょうか。

「慶長の危機」というのも興味深そうですね。
一度拝読したいものです。

<特別展>戦国から江戸を駆け抜けた親子 本多正信・正純・政重
市野澤
こんにちわ。

財団法人 藩老本多蔵品館にて、
平成22年4月23日(金)~7月25日(日) 
徳川家康の重臣として高名な本多正信・正純。
彼らを父兄とする本多政重は加賀藩で五万石の筆頭家老となる。
「加賀八家」本多家のルーツについて。
初公開の史料を含め紹介・展示。

会期中の平成22年5月30日(日)
10:00~12:00
※電話・FAXにて受付中
演題 「藩政初期の本多家」
講師 長谷川孝徳氏(北陸大学教授)
会場 石川県立図書館2階県民交流室
定員 70名
参加費 500円(入館料込み)

だそうです。
去年に開催されていたら、
大河ドラマの相乗効果もあったかと思われますが、
興味深い特別展と推察します。

それでは失礼します。





本多政重
桐野
市野澤さん、こんにちは。

イベント情報、有難うございます。
本多政重なら、たしかに昨年開催したほうがよかったですね(笑)。
いずれにしろ、興味深い人物ですし、あと、なぜあのように遍歴したのか、謎でもあります。
少しはそのあたりの真相がわかるのでしょうか。
もっとも、遠すぎてとても行けそうもありません。


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この記事へのコメント
桐野さん、こんにちは。

「出頭人」のこと、先日、木之本で開かれた「石田三成と関ヶ原合戦」という講演で、講師の伊藤真昭氏も同じようなことを話されていました。

桐野さんのお話は、明智光秀と本能寺しか聞いていませんので、がっつりと関ヶ原の話を聞きたいものです。
あぁ、この講座、受講できなかったことが、かえすがえすも悔やまれます・・・

さて、
>史実の空白を埋める

なんか、妙に納得しました。
でも、こういうのが、何年も経つうちに定説になってしまうところがこわいかも。。。
2008/07/31(Thu) 00:32 | URL  | びわこ #-[ 編集]
出頭人
びわこさん、こんにちは。

伊藤真昭氏の講演を拝聴されたんですね。
彼も三成の佐和山領有時期など、いろいろな論考を発表していますね。

「出頭人」という用語は、三成を考えるうえで、重要なキーワードであろうと思います。
たとえば、いわゆる武断派七将による三成襲撃も、秀吉の死によって三成が「出頭人」としての地位をすべり落ちたからこそ実行されたわけで、秀吉健在なら起こりっこありませんね。

三成もまた元「出頭人」としてわずかに残る権勢の余韻を総動員して、西軍の組織化を図ったと思われます。その地位の低下からすれば、予想以上の仕事だったと思います。その点は家康をさぞや驚かしたことと思います。
問題は、三成が西軍の主導権を確立できなかったことですね。「出頭人」としても、もととも無理筋ですし、すでに没落が始まっていますから、なおさら難しく、輝元と秀家に頼るしかなかったのでしょう。
関ヶ原合戦の仕掛け人でありながら、最後まで自分のいくさができなかったことはさぞや無念だったと思います。
2008/07/31(Thu) 12:31 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
第4回の講座につきまして
出頭人のお話。私は、大変興味深く拝聴いたしました。
そのような見方があったのか、と目からウロコが落ちたような感想を抱きましたが・・・。数分であの話題が終了していても、もったいなかった気がいたします。
講座のお時間がもう少しあれば、と思いました。

石田三成から増田長盛への手紙の件については
自分でもなんとか読んでみたのですが、克明に石田三成の心情が書かれすぎていて、三成の誤算がほとんどすべて読み取れてしまいます。
自分の悩みを書状という形にしてしまったのも、まずかったのではないかと思いますが。こうしたことはこの当時は普通に行われていたのでしょうか?

話は変わりますが「慶長の危機」を証明する一次史料となる書状がみつかった、と今朝の中日新聞に掲載されていました。
古文書や史料の世界というのは、実際に触れてみると、大変興味深いです。
2008/08/01(Fri) 21:45 | URL  | 木暮兼人 #-[ 編集]
三成書簡
木暮兼人さん、こんにちは。

出頭人という視点から三成をみれば、その権勢の秘密も、秀吉死後の地位の低下も理解できますね。

増田長盛宛て三成書簡は私信ということもあり、かなり生々しいです。この時代、こういう書簡は珍しいかもしれません。まあ、親子関係かそれに近い関係ならあるでしょうが。

三成はよほど長盛を気が許せる親友だと思っていたんでしょうね。その長盛は家康にも内通するなど、二股膏薬なのに。
そんな人物を信用していた三成も哀れですし、逆に言えば、人物の鑑定には暗かったというか、人間心理がよくわからない人だったのでしょうか。

「慶長の危機」というのも興味深そうですね。
一度拝読したいものです。
2008/08/02(Sat) 12:01 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
<特別展>戦国から江戸を駆け抜けた親子 本多正信・正純・政重
こんにちわ。

財団法人 藩老本多蔵品館にて、
平成22年4月23日(金)~7月25日(日) 
徳川家康の重臣として高名な本多正信・正純。
彼らを父兄とする本多政重は加賀藩で五万石の筆頭家老となる。
「加賀八家」本多家のルーツについて。
初公開の史料を含め紹介・展示。

会期中の平成22年5月30日(日)
10:00~12:00
※電話・FAXにて受付中
演題 「藩政初期の本多家」
講師 長谷川孝徳氏(北陸大学教授)
会場 石川県立図書館2階県民交流室
定員 70名
参加費 500円(入館料込み)

だそうです。
去年に開催されていたら、
大河ドラマの相乗効果もあったかと思われますが、
興味深い特別展と推察します。

それでは失礼します。



2010/05/05(Wed) 13:58 | URL  | 市野澤 #-[ 編集]
本多政重
市野澤さん、こんにちは。

イベント情報、有難うございます。
本多政重なら、たしかに昨年開催したほうがよかったですね(笑)。
いずれにしろ、興味深い人物ですし、あと、なぜあのように遍歴したのか、謎でもあります。
少しはそのあたりの真相がわかるのでしょうか。
もっとも、遠すぎてとても行けそうもありません。
2010/05/07(Fri) 10:08 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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