歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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小学館古文書塾「てらこや」特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩3

咋29日、その第2回講座に出講。

今回はいわゆる第1次征長について、薩摩藩、長州藩と吉川家の動きについて見ていく。

西郷吉之助(正確には大島吉之助)が征長軍のなかで主導権を確立していく過程が、大久保一蔵宛て書簡から見てとれた。総督の徳川慶勝(尾張藩主)が西郷を頼りにしているさまがよく見える。
また、動員された諸藩が攻め口の担当についてあれこれ差し替えを申し出ていることが尾張藩を悩ませており、その処置を提案した西郷の立場が強化されていくのもわかった。

そのため、西郷の意向が働くことによって、征長が開戦とならずに長州の恭順という方向で戦後処理が進行していくプロセスもわかる。ただ、恭順の条件が3家老と4参謀の首級を差し出すと同時に、減封をどの程度にするか、元治元年(1864)冬の時点ではまだ流動的な様子もわかった。

一方、長州側では、毛利宗家と距離を置く吉川家の立場がクローズアップされることになる。その中立的な立場を活かして、薩摩藩との交渉によって長州藩の危機を救うために、恭順していることを征長軍側に認めてもらおうと奔走している様子を『吉川経幹周旋記』から見ていく。
ひとり大坂に上ってきた同家用人境与一郎の不安な様子が国許への報告から読み取れて興味深かった。

吉川家の周旋によって、毛利の「御両殿様」(敬親・広封親子)も次第に恭順に傾いている。
それに憤激したのが攘夷戦や禁門の変を戦った諸隊である。奇兵隊・御楯隊・膺懲隊・遊撃隊・八幡隊などの諸隊は毛利家ゆかりの常栄寺や鴻峰大神宮社に参籠という名目で立てこもり、藩主父子が誓約した「御国是」(攘夷戦争決行)の死守を嘆願する建白書を提出する。

修訂 防長回天史』から、その建白書の内容を読み解くが、なかなか難解である。
それは、明らかな藩主批判であり、「御国是」に背くことは藩主とはいえ、許されないと痛烈に非難している。もっとも、家来が主君を批判するのはご法度だから、毛利家中興の祖「洞春公」(毛利元就)の名前を持ち出しているあたりが面白かった。

結局、諸隊の抵抗にもかかわらず、長州藩は恭順と定まり、それによって、萩を中心とする門閥保守派のいわゆる「俗論党」の支配が復活する。
しかし、諸隊はなお健在で、攘夷戦争で培った軍事力を保持していたから、のちに功山寺決起をきっかけとする奪権闘争を勝ち抜いていく。
この建白書からは、堂々たる藩主批判をぶてる長州藩内の下からの革命的な雰囲気と、諸隊の実力と気概が示されているのではないかと感じられた。

次回はいよいよ薩長同盟に入れそうな感じである。

帰路、猛烈な豪雨となった。いつもは常連の受講生のみなさんと2次会をしているが、取り止めて早めに帰ることにした。最寄り駅に着いたら、ほとんど雨はやんでいた。コンビニでビニール傘を買ったが、結局、無駄になったのがうらめしい。

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【2008/07/30 09:05】 | てらこや
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