歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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小松帯刀の命日がどうやら違うらしい。

一応、命日は明治3年(1870)7月20日ということになっている。

明治維新人名辞典』(吉川弘文館)にもそのように記されている。
出典は「小松帯刀伝」(鹿児島県史料集21)だろう。

しかし、最近史料を見ていて、どうやら命日は7月18日であり、通説より2日前ではないかと思う。

薩摩藩士で大坂留守居役をつとめた木場伝内という人物がいる。
西郷隆盛が奄美流謫中、世話をした関係で、西郷とずっと親しかった。
木場が大久保利通に宛てた書簡に、小松が息を引き取ったのは「十八日夜一字比(一時頃)」と書かれている。
また、臨終のとき、苦しみもせず、安らかな顔をしていたと書かれている。
生涯、病気で苦しんだ人だけに、最後は安らかに眠りにつけたことがわかって、よかったなと思う。
小松の臨終の様子を書き残してくれた木場伝内に感謝。

木場は臨終には間に合わず、小松が息を引き取った数時間後の明け方に駆けつけたようで、臨終に立ち合った人たちからの情報を葬儀終了直後に書簡にしたためたものだから、その内容はかなり信憑性が高い。
命日は18日深夜。正確には19日午前1時だろうが、当時は夜が明けないと日付は変わらなかったから、18日が命日と考えてよいと思う。

木場によれば、葬式は21日に挙行されている。
この点からも、20日他界説は少し不自然だろう。通夜など必要な儀式を行う時間を考えれば、死の翌日に葬儀が行われるとは考えにくい。まず準備ができないだろう。

なお、葬儀は仏式ではなく、神葬祭だった。取り仕切ったのは重野安繹。
「夕日の岡」(夕陽ヶ丘)に葬ったと書いてある。「摂海」(大坂湾)の見晴らしがよいとも。
「摂海」は小松にとってもゆかりの地。薩摩商社や徳川慶喜との駆け引きも「摂海」をめぐってのものだった。あるいは、大坂湾がよく見える夕陽ヶ丘に葬ってほしいという小松の遺言でもあったのかもしれない。
葬儀費用は800両かかったという。なかなか盛大だったと思われる。

先日、京都で「小松帯刀寓居参考地」の建碑除幕式があった。
本当は、式を小松の命日とされる7月20日に挙行したかったのだが、私の都合で、その日にできなかった。
でも、命日が違っていたらしいから、結果オーライか(爆)。

命日が2日違っていたからといって、どうというものではないが、有名人だけに、その没年月日は正確を期すに越したことはないだろうと思って、備忘として書き留めた次第。

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【2008/08/01 12:46】 | 幕末維新
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