某古書店から古書目録が送られてきた。
その巻頭にあった古文書写真を見て驚いた。
島津義久書状である。
しかも、宛所が
龍吟庵東堂。
といっても、おわかりの方は少ないかもしれないが、龍吟庵は京都五山のひとつ、東福寺の有名な塔頭である。そこの方丈は国宝に指定されていることでも有名。
少し翻刻してみたが、いくつか不明字が出て(要は私が読めない)、文意を正確に把握するところまでに至っていない。
宛所は龍吟庵だが、本当はその隣にある塔頭、即宗院に宛てたかったと思われる。即宗院はこれまでも何度か取り上げてきた。主なのは
ここ。
もっとも、義久は即宗院ではなく、
即宗庵と呼んでいる。当時はそう呼ばれていたのだろうか。
即宗庵が罹災したため、義久はそこに宛てられず、隣の龍吟庵に宛てたと思われる。もしかしたら、その東堂に即宗庵関係者が避難していたのかもしれない。
書状の趣旨は即宗庵再建のために義久が金三十両を寄進するので、早々と造営するようにと書かれている。もっとも、「当国」(南九州)でも干戈が休むところがないので、じつは財政的な余裕がないのだが、それでは違約になるので、何とか工面したという趣旨で、義久側の手許不如意の苦境も察せられる。
即宗院が義久の寄進によって再建されたというのは、同院の由緒にも書かれていたが、一次史料、しかも本人の書状で確認できたことは意義深い。
また書状には、即宗院と縁が深い鹿児島志布志の大慈寺も出てくる。ただ、「
他流」云々とある。おそらく住持の派遣問題かと思うが、大慈寺が妙心寺の末寺で臨済宗関山派に属していて、即宗庵とは別の宗派であることに義久が違和感を感じているのだろうか。
問題はこの書状の年次である。
署名が「義久」なので、天正15年(1587)の出家以前なのは確実。
花押を見たが、義久の花押はほとんど経年変化がないので、あまり手がかりにならない。
感触としては、永禄年間(1558〜1569)かなと臆測しているが。
『旧記雑録後編』を精査すれば、もう少しヒントがあるかも知れないが、忙しくて調べる暇がない。
東福寺側の史料で、即宗院が焼失した記録が現存しないのだろうか?
個人的には、ツボにはまった文書なので、入手できたらいいなと思うけど、お値段がねえ(歎息)。
義久書状って、こんなに高かったかな? 伊達政宗とか毛利元就クラスの値段だぞ。
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