歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第71回
―「薩の両立」解消されず―

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今回は、いわゆる明治六年政変後の分裂した薩閥の動向に焦点を当てました。
吉井友実がスイス滞在の大山巌に宛てた書簡で、政変後に大久保を中心とする東京組と、西郷を中心とする鹿児島組に分裂した状態を「薩の両立」と表現しています。

ぴったりする言葉だと思うのと同時に、この分裂を危惧する薩摩人が少なくなかったことを示しています。
西郷・大久保の双方と仲がよかった吉井などはその典型ですが、ほかにも、黒田清隆や川村純義なども西郷の復職を望んでいました。
黒田・川村は政変では大久保側についていますが、必ずしも大久保と同じ考えをもっていたわけではないようです。また台湾出兵についても、西郷従道は積極派兵論でしたが、大久保は自重論でした。一枚岩に見える大久保派内でもその対外路線はかなり異なっています。

一方、西郷にしてみれば、いわゆる「征韓論」であれだけ対立したのですから、何らかのきっかけがなければ、再上京するはずがありません。
そこで、黒田や川村は折からの台湾出兵を契機として、征台論に基づいて薩閥の再結集を図ろうと考え、政府に建白書を提出しています。それは来るべき中国との戦争で、西郷を総司令官として迎えるというものでした。

折から、大久保は全権大使として北京に乗り込み、台湾問題の談判に臨んでいました。
黒田・川村らは大久保の談判が失敗し、中国と臨戦状態に入ると予想しており、そうなれば西郷の出番だと考えていたのです。
しかし、大久保の粘り腰が功を奏して停戦合意に至り、賠償金まで獲得しました。対外戦争の危機は去り、黒田・川村らの目論見は潰えました。

こうして、「薩の両立」を解消する動きは頓挫してしまいます。
そこから、西南戦争開戦まではまだ距離があるのですが、「薩の両立」から「二つの薩の激突」を回避する術がなくなってしまったのもたしかです。

薩の両立」はいわゆる「征韓論」が直接のきっかけとなったのは間違いありませんが、その根底には何があったのか。「征韓」か「遣韓」かという単純な二項対立の議論だけでは解けないような気がしています。
西郷・大久保だけでなく、黒田や西郷従道などを含めた薩閥の主要人物の対外観や対外政策の違いをより具体的に見ていく必要があると思っています。

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【2008/08/16 10:39】 | さつま人国誌
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大山巌に絡んで
アリア・ヴァレリ
大山巌は西郷隆盛の従兄弟で有名ですが、その祖父は江戸芝の御広敷用人(つまり一代小番)で、曾祖父は「文化朋党実録」にも名がでる側用人兼串木野地頭ですが、やはり巌の渡欧中の大山家文書の散逸のせいか「元帥公爵大山巌」でも詳しい話がでないですよね。芝藩邸の御広敷用人ということは斉彬の正室付きだった可能性もあるんですが・・・。あと巌の父は史料が少ないせいで個人的にはただの砲術マニアにしか見えませんが・・・。「元帥公爵大山巌」の綱昌の遺言を見る限りではそうとうな砲術好きですよね。

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大山巌に絡んで
大山巌は西郷隆盛の従兄弟で有名ですが、その祖父は江戸芝の御広敷用人(つまり一代小番)で、曾祖父は「文化朋党実録」にも名がでる側用人兼串木野地頭ですが、やはり巌の渡欧中の大山家文書の散逸のせいか「元帥公爵大山巌」でも詳しい話がでないですよね。芝藩邸の御広敷用人ということは斉彬の正室付きだった可能性もあるんですが・・・。あと巌の父は史料が少ないせいで個人的にはただの砲術マニアにしか見えませんが・・・。「元帥公爵大山巌」の綱昌の遺言を見る限りではそうとうな砲術好きですよね。
2008/10/22(Wed) 20:22 | URL  | アリア・ヴァレリ #-[ 編集]
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