歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第33回「皇女和宮」

ドラマの進行時点は万延元年(1860)3月から10月頃。

前回分の補足です。
大老・老中たちが咸臨丸に乗る木村喜毅と勝麟太郎を西ノ丸で引見したのは不思議だと書きましたが、真相がわかりました。

安政6年(1859)10月17日、やはり江戸城本丸は焼失しておりました。
「昭徳院御実紀」(家茂の伝記)によれば、将軍家茂・天璋院・本寿院は西ノ丸に移ったとあります。
西ノ丸は将軍世子や大御所の居住空間ですが、この時点ではどちらもいないので、移転は都合がよかったと思われます。

ドラマでは、大事件にもかかわらず、まったく触れていませんでしたね。こちらもうっかりしていました。
余談ながら、天璋院の愛猫サト姫も管籠に入れられて一緒に避難したのでしょう。

さて、今回は何といっても、和宮の登場がハイライトでしたね。
井伊大老による戊午の密勅への報復から悪化した公武関係を修復する有効な手立てが和宮降下でした。
関白九条尚忠がその件を孝明天皇に奏上したとき、7代将軍家継の先例に触れていました。聞き逃した方も多いのではないでしょうか。
孝明天皇の典侍の庭田嗣子が天皇家と武家との縁組など先例もなくとんでもないと反対したのに対して、九条関白が先例があるとして持ち出してきたのが、将軍家継と婚約した八十宮(やそのみや)のことです。
八十宮は霊元天皇の姫宮で、家継と婚約したとき、わずか3歳。家継も8歳と幼少でした。
結局、婚約からわずか3カ月後に家継が死去してしまいますので、八十宮は御台所ではなく、御簾中の身分に留まったようです。八十宮はそのまま故・家継夫人として45歳で他界しています。

九条関白はこの先例を持ち出して、和宮降嫁を天皇に迫ったというわけです。
のち文久2年以降、攘夷運動が激化したとき、和宮降嫁は幕府の「不敬」であるという論理が持ち出されてきますが、八十宮の縁組という先例があったのに、攘夷派には都合が悪いので顧みられることはありませんでした。

岩倉具視が和宮降嫁を推進する人物として描かれていました。
間違いではありませんが、むしろ、中心人物は議奏(権大納言)の久我建通(こが・たけみち)だといわれています。久我氏は清華家(摂関家の次)と家格が高く、公家のなかで村上源氏の氏長者でもあります。岩倉氏も村上源氏の一員で、久我氏とは同族です。

のちに、攘夷派から「四奸二嬪」(しかんにひん)として排斥されることになる久我建通・岩倉具視・千種有文はみな村上源氏です。和宮降嫁は村上源氏グループによって推進されたといえましょう。

なお、片岡鶴太郎演じる岩倉具視が、孝明天皇に和宮降嫁を実現して幕府に恩を売るのがよい、その代わり鎖国攘夷を誓約させましょうと献策していました。

これはその後の展開にとって、非常に重要です。ドラマでも、それを受けて老中の安藤信正が7年から10年のうちに攘夷をすると約束した、でも詭弁ですと、天璋院に言い訳をして一喝されていましたが、これがのちに幕府に、とくに将軍家茂に祟ります。
文久2年(1862)、上京した家茂は朝廷から攘夷決行を誓約させられました。その根拠はこのときの誓約だったからです。

何回かあとのドラマで、天璋院がわが子のように可愛がっている家茂を苦しめたのは、あのとき老中どもが出来もしない攘夷を安請け合いしたからだと憤慨する場面が見られそうですね(笑)。

和宮は婚約者の有栖川宮熾仁親王との仲を引き裂かれて、関東に下ることを渋々承諾させられますが、典侍の庭田嗣子が自分も一緒に関東に下ると申し出ていました。嗣子は先代仁孝天皇の典侍でしたが、孝明天皇のたっての願いで、後宮女官の輔導を命じられた人です。
ドラマとは実際は少し違うようで、孝明天皇が和宮の輔導として関東下向を依頼したのに、嗣子は再三辞退し、ようやく引き受けたというのが真相のようです。

ところで、和宮降嫁に伴い、天璋院が薩摩に帰るという話が出ていました。
ドラマでは、幕府の要請で、薩摩藩家老が伺書を提出したという設定になっていました。
一瞬だったのでたしかではありませんが、伺書には「島津石見」という署名があったような。
これは江戸詰の家老でしょうね。島津石見というのは、都城島津家の島津石見久静、あるいは敷根家の島津石見久浮などがいますが、都城島津家は格式が高いので、家老職には就かないと思いますし、敷根家の久浮は天保年間の家老ですから、時代が違いますね。
この頃の江戸詰家老は日置家の島津左衛門久徴か、川上式部久美あたりかなという気もしますが。

里帰りの話を聞かされた天璋院が「私が島津の分家の出だからか」と反問しておりました。
これはおかしいです。養父島津斉彬はあくまで篤姫を実子として幕府に届け出ていますから、斉彬の苦労を無にするような、分家の出だとは決していわないはずです。

それで、この時期、天璋院の里帰りの話があったのかどうか、薩摩藩側の史料にはなかったような気がしていたのですが、徳永和喜氏『天璋院篤姫』(新人物往来社)のなかに、『玉里島津家史料』一に風聞書として収録されているという指摘がありました。
それは「久光公入京ヨリ寺田屋事変迄ノ風聞書」というもので、次のような記述があります。、ただし、文久2年頃の風聞で、時期が少し遅いです。久光が率兵上京して、近衛邸で中山忠能・久我建通・正親町三条実愛らと会見したときに、近衛忠房らから告げられたことのひとつとして、

「第一は天璋院の儀は、何分卑賤の娘にて、一旦近衛殿御養女とは申しながら、一天万乗の至尊の御妹を子と仕る儀、冥加に背き、何とも申し上げようもこれなく、既に去春公辺え歎願致し、里方え引き取り、隠居致させ申すべき段申し立て候えども、取り用いこれなし」

つまり、天璋院は身分が低いので、天皇の妹君を子とするのは恐れ多い。だから、去年春、幕府に対して、天璋院を島津家で引き取り隠居させたいと申し出たけれど、幕府からは沙汰がなかった、ということのようです。

時期が1年ほどずれていますが、ありえた話かもしれません。
これは、公家方から島津家に対する圧力という関係になっていますね。和宮と天璋院の著しい身分差を何とかしろ、和宮が天璋院の(義理の)子という関係は朝廷としては耐えがたいということでしょう。

これに対して、久光も島津家でも和宮が下向してからというもの、「寝食不安」「昼夜恐惶」というありさまで、このままでは「神罰空おそろしく」、まず天璋院を近衛家に引き取ってもらい、その後、島津家側に返してほしいと申し入れたとあります。

また、三田村鳶魚『御殿女中の研究』にも、似たような史料が収録されています。鳶魚は「公秘録」(おそらく幕府の史料でしょう)で見たと書いています。
それは「薩州家より申上候書付」というもので、差出人は島津修理太夫(茂久)。日付は「申十二月」とありますから、万延元年12月で、和宮降嫁が決定した同年10月の直後だということになります。

その一節には「天璋院様御事、そのままに在らせられ候ては、朝廷に対し奉り、拙者において恐怖至極に御坐候」とあり、天璋院を「御里方え永の御滞留」させたいと書いています。「御里方」と敬語が使われているので、これは近衛家のことですね。

上記の風聞書の趣旨とよく似ていますから、風聞書の記述も満更ではないようです(ただ、近衛家への長逗留とあり、薩摩に帰るとは書いてないですが)。

ほかにも、島津忠教(のち久光)に大久保正助が拝謁した一件も触れたかったのですが、長くなったので、この辺で終わりにしておきます。

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【2008/08/17 23:35】 | 篤姫
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 慌しくて前半10分ほど見そびれてしまいました。再放送で追記できるものがあれば書...
2008/08/18(Mon) 00:44:43 |  旅じゃ.com
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