歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第36回「薩摩か徳川か」

2回分の感想を飛ばしましたので、久しぶりに書きます。

ドラマ進行時点は文久2年(1862)3月から4月頃。

今回は何といっても、国父久光の率兵上京と寺田屋事件が注目ですね。

まず、率兵上京の行列が大砲と鉄砲を視認できる形で運んでいましたが、どうでしょうか。
このとき、携行した火器は野戦砲4門と小銃100挺と言われています。
「入り鉄砲に出女」といわれるくらい、江戸に大名が鉄砲を持ち込むことはご法度です。しかも、大砲ですからなおさらですね。
その意味で、「前代未曽有」(『旧邦秘録』)でした。年寄の滝山でしたか、「前代未聞」と語っていましたが、まさに型破りの行軍だったことは間違いありません。
しかし、大砲はあんなに裸で運んでいません。大砲も小銃も「荷作」して運んだと同上書にありますから、少なくとも、沿道でじかに目撃されるはずがありません。大砲は野戦砲とありますから、分解し梱包できる程度の小型のものだったと思われます。
久光もギリギリのところで幕法を遵守するふりはしているわけです。

また、観行院か庭田嗣子だったかが、京都でいくさになったら薩摩のせいだと語っていましたが、これはオーバーですね。
薩摩藩兵はほとんど伏見屋敷に駐留したはずで、久光はわずかな供廻を連れて入京し、錦小路の藩邸を拠点に公家衆と会っております。錦小路藩邸は手狭で、そんなに人数を収容できません(だから、翌年新たに二本松藩邸が造営されました)。少なくとも洛中では久光から仕掛けるいくさにはなりません。尊攘派が仕掛ければ別ですが。

これはいわずもがなですが、このとき、天璋院が久光と通じているとか、薩摩藩と幕府の間で板挟みになって苦しんだという史料はないと思います。まあ、そうでもしないと、天璋院との関わりを描けないでしょうからね。

さて、寺田屋事件です。
久光の命による上意討ちが強調されていました。
最近、芳即正氏は上意討ちだっただけでなく、尊攘派の策動は「違勅」にあたり、その鎮撫は勅命でもあったと主張しています(『島津久光と明治維新』新人物往来社)。
同書によれば、議奏の中山忠能と正親町三条実愛から、孝明天皇の意向として是非鎮静せよとの厳命があり、久光に宛てられた勅書にも、「(尊攘派の)猛暴の形勢」は「忠憤かえって違勅の筋にあたり」と明記されていたということです。
つまり、久光の決断は勅命に基づくものだということです。
その勅命を忠実に遂行したわけですから、朝廷の久光への信任が高くなるのも当然ですね。これまで、勅命があっても、いろいろ言い訳して実行したことがなかった幕府の態度との鮮明な違いを天皇が感じたということでしょう。天皇の信任はその後の薩摩藩の政治資産になったと思います。

寺田屋事件のあと、久光が「有馬らのことは幸いであった」と感想を洩らしました。それを聞いた小松帯刀が久光を信用できなくなり、江戸へ行きたくないと弱音を吐いたところ、大久保一蔵がそうではない、有馬新七らの死は無駄ではなかったといって説得していました。
その理由というのが、有馬が寺田屋に残したという「遺書」のようなものです。

今回、この解釈をしたのかと思いましたが、たしかにストーリーとしてはうまいでしょう。
その典拠となる史料は、豊後岡藩士で攘夷派の志士だった小河一敏(おごう・かずとし)が書いた『王政復古義挙録』です。小河もこのとき有馬らの同志でしたが、別の一隊を率いていたため、事件には遭遇しませんでした。
これによれば、事件の直前、小河は有馬新七・田中謙助と薩摩藩の大坂屋敷で密談しています。そのとき、有馬と田中が次のように小河に語ったそうです。

「尊攘の大義こそ眼目なれ。其の第一は姦吏を除くの外なし。今の世にあたり順を以て之を除かんこと、甚だ難ければ、兵を挙て殿下(関白九条尚忠)と所司代(酒井忠義)とを除くの外なし。然るときは天下列藩大平の酔夢も醒めて一新の端を開くべし。此時にあたり、非常のことをなさざれば、尊攘の道立べからず。いざや和泉殿(久光)の命を待たずして傍らより出て姦賊を斃しなば、夫れに随ひては和泉殿必ず大処置あるべし。是れ和泉殿の意に背くに似たりといえども、其の実は斯くありてこそ、和泉殿の功業も大に立べけれ。されば、取りも直さず和泉殿への忠節も此の外なし」

尊攘の大義のため久光の命には背くが、自分たちが先駆けすれば、その後、久光が「大処置」を断行してくれる。久光の意に背くことこそ、久光への忠節であるという論理です。「大処置」が有馬たちへの鎮撫を指すとすれば、ドラマのような解釈もありで、有馬たちは成敗されるのを覚悟の自爆的行動だったことを自覚していたというわけですね。

さて、小河がこれを書いたのは明治中期です。同時代の史料ではないので、どこまで信用していいのか何ともいえません。
刊行時、まだ有馬ら9人の名誉は回復されていません。うがった見方をすれば、小河が同志だった有馬新七らの行動を名誉回復するために「義挙」と賞讃しつつも、久光の上意討ちもしくは勅命に基づく鎮撫という定説も否定せずに整合性をつけるためにつくり出した「理屈」の可能性がないとはいえません。
一方、この書は当時の文書を引用するなど、実証的な態度も見られますから、後世の記録とはいえ、信用できるのではないかという考え方もあるでしょう。

なお、この小河の書にも「伏水一件(寺田屋事件)の人々は違勅なれば、打果して指し押へたるを沈静し得たり」と書かれており、違勅の挙だったことをうかがわせます。


話は前後しますが、西郷が久光の命を破ったために、また島流しになってしまいました。
西郷にも言い分があるでしょうが、久光の怒りももっともです。久光が西郷を下関に留めようとしたのは、ドラマで久光のセリフにもあったように、西郷が幕府のお尋ね者であり、京都に行って単独で行動すれば目立って捕縛される可能性があったから、下関に留めようとしたのです。その親心がわからぬかと、久光は言いたかったはずです。
当時、島から帰った西郷は大島三右衛門と名乗っていました。西郷吉之助(善兵衛か)は死んだことになっていたからです。

また、大久保もこの率兵上京を機に、正助から一蔵に改名しています。今回は両方とも併記してありましたね。ちゃんと史実を踏まえていました。
西郷を説得する場面、かつての「翔ぶが如く」では、明石の浜で大久保が西郷にともに刺し違えようと迫る迫真の場面がありましたが、今回はおとなしかったのと、いるはずもない小松も同席していました。小松は側役ですから、久光の側を離れてはいけません。

次回はいよいよ久光主従の江戸乗り込みです。
大久保の活躍が見ものです。
予告を見るかぎり、天璋院がひそかに小松を大奥に引き入れるようです。むろん史実ではなく創作ですが、それでは今回何のために薩摩に関わる品々を焼いてしまったのかということになりませんかねえ? 本寿院などのうるさ方を納得させられるどんな理由づけをするのでしょうか?

余談ながら、最後の篤姫紀行は伏見の寺田屋周辺でした。
ドラマは寺田屋事件そのものだったのに、寺田屋の建物をほとんど映さなかったのは不自然です。もしかして最近の「寺田屋騒動」を意識してのことでしょうか?

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【2008/09/07 22:26】 | さつま人国誌
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久光率兵上京と寺田屋事件
板倉丈浩
こんばんは。
毎回の詳しい解説、とても楽しみにしています(^^

さて、今回は(も?)変な話でしたね。
肝心の薩摩藩邸焼失の件がスルーされちゃってますし・・・。

幕府は天璋院の実家が燃えちゃったということで、財政援助したり藩主参勤に替わる久光の江戸参府を許可したりと、非常に気遣いを示していたというのが実情でしょう。
ずっと後で、薩摩が自ら火をつけたことが露見して一波乱ありましたが、久光上京の段階で幕府や大奥が大騒ぎするなんてありえないように思えます。

あと有馬新七の政治的目標については、原口清氏の論文『文久二、三年の朝廷改革』で考察がされていて、久光の幕政改革案と大差ないものであったとしています。
つまり、目的は共通していたけれども手段が異なっていた、「久光の改革実現のためにも斬奸を決行しよう」ということであって、「成敗されるのを覚悟の自爆的行動」というのは(芳即正氏などはそういう説のようですが)、やや無理がある解釈かなと思っています。

最後に西郷と大久保ですが、もともと絶望した大久保が「刺し違えて死のう」と言い出すのを西郷が宥めるという話のはずなのに、今回は逆に大久保が西郷に「生きろ」と諭す話になっていましたね。
「おとなしくて優しい」新しい大久保像を提示したいということなんでしょうか?
とはいえ、有名エピソードを平気で改変するのは感心しませんけど・・・。

いずれも桐野さんにとっては言わずもがなのこととは思いますが、長文の愚痴(補足?)、失礼いたしました。

幕府と島津家
桐野作人
板倉丈浩さん、こんにちは。

的確なご意見、有難うございます。

仰せの通り、幕府は島津家を天璋院の実家としてとても大事にしていますよね。
江戸の薩摩藩邸の放火に対しても、真相を知らないせいもありますが、天璋院の実家ということで、見舞金2万両を贈ったり、木曽川の普請を免除したりと気を遣っています。
また久光の上京・江戸出府は幕府の許可を得たものですから、警戒されるはずもありません。
まあ、京都で久光が勅許をもらったあたりから、多少疑問を感じたかもしれませんが、それまでは疑うはずもありませんものね。

ドラマの描き方とは両者は真逆の関係にあったわけで、いささか創作がすぎるという気もしますが、篤姫の苦難を強調する必要があったのでしょうが……。
毎回を波瀾万丈のジェットコースタードラマにしないと、落ちつかなくなっているようです(笑)。

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久光率兵上京と寺田屋事件
こんばんは。
毎回の詳しい解説、とても楽しみにしています(^^

さて、今回は(も?)変な話でしたね。
肝心の薩摩藩邸焼失の件がスルーされちゃってますし・・・。

幕府は天璋院の実家が燃えちゃったということで、財政援助したり藩主参勤に替わる久光の江戸参府を許可したりと、非常に気遣いを示していたというのが実情でしょう。
ずっと後で、薩摩が自ら火をつけたことが露見して一波乱ありましたが、久光上京の段階で幕府や大奥が大騒ぎするなんてありえないように思えます。

あと有馬新七の政治的目標については、原口清氏の論文『文久二、三年の朝廷改革』で考察がされていて、久光の幕政改革案と大差ないものであったとしています。
つまり、目的は共通していたけれども手段が異なっていた、「久光の改革実現のためにも斬奸を決行しよう」ということであって、「成敗されるのを覚悟の自爆的行動」というのは(芳即正氏などはそういう説のようですが)、やや無理がある解釈かなと思っています。

最後に西郷と大久保ですが、もともと絶望した大久保が「刺し違えて死のう」と言い出すのを西郷が宥めるという話のはずなのに、今回は逆に大久保が西郷に「生きろ」と諭す話になっていましたね。
「おとなしくて優しい」新しい大久保像を提示したいということなんでしょうか?
とはいえ、有名エピソードを平気で改変するのは感心しませんけど・・・。

いずれも桐野さんにとっては言わずもがなのこととは思いますが、長文の愚痴(補足?)、失礼いたしました。
2008/09/09(Tue) 00:35 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
幕府と島津家
板倉丈浩さん、こんにちは。

的確なご意見、有難うございます。

仰せの通り、幕府は島津家を天璋院の実家としてとても大事にしていますよね。
江戸の薩摩藩邸の放火に対しても、真相を知らないせいもありますが、天璋院の実家ということで、見舞金2万両を贈ったり、木曽川の普請を免除したりと気を遣っています。
また久光の上京・江戸出府は幕府の許可を得たものですから、警戒されるはずもありません。
まあ、京都で久光が勅許をもらったあたりから、多少疑問を感じたかもしれませんが、それまでは疑うはずもありませんものね。

ドラマの描き方とは両者は真逆の関係にあったわけで、いささか創作がすぎるという気もしますが、篤姫の苦難を強調する必要があったのでしょうが……。
毎回を波瀾万丈のジェットコースタードラマにしないと、落ちつかなくなっているようです(笑)。
2008/09/10(Wed) 00:34 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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2008/09/08(Mon) 03:31:06 |  旅じゃ.com
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