歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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せごどん表

先日紹介した漫画『せごどん』

友人の調所一郎氏(調所広郷子孫)から、同漫画の帯に推薦文を書いたと教えてもらったので、書店で購入した。漫画・劇画を買うのは拙著が劇画化されたのを買ったとき以来か。
とても、探せそうになかったので、店員に探してもらおうと依頼し、書名を伝えたが、三度も「はあ?」と言われた。そうりゃそうだろう、鹿児島弁だから意味不明だよな(笑)。しかたなく、自分で探したら、意外と簡単に見つかった。

単行本は1巻と2巻が同時発売である。
さっそく1巻を見る。表の帯には「薩摩藩家老調所笑左衛門の血を継ぐ調所兄弟も注目!!」とある。裏の帯には次のように調所氏の一文が書かれている。

「西郷どんと私共の先祖である調所笑左衛門広郷とは対立が伝えられておりますが、薩摩、及び日本という国を思う気持ちに変わりはなかったのです。そうした微妙な方向性の違いも含めて本作品は時代考証がきちんとなされており、幕末史の入門書として広く読まれることを祈念します。調所一郎・謙一(調所笑左衛門広郷七代目兄弟)」

「微妙な方向性の違い」というのが言い得て妙で、調所さんの想いが込められていよう。

さて、作品についてだが、西郷隆盛という難しい人物に挑戦した心意気と、鹿児島出身の作者ゆえに、幕末薩摩藩情にかなり精通して、なかなか読ませる作品になっていることは認めたうえで、それでも気になる点などを巻ごとに批評してみたい。

まず、西郷その人よりも、大久保正助(のち利通)の造形のユニークさのほうが強烈で印象的だった。
一言でいって、まるでドラえもんに出てくるスネ夫のようである。キャラクターも絵も(写真下参照)。
小ずるい策略家だが、いつも肝心の所でどじを踏んで西郷に助けられるという設定。竹馬の友の西郷を裏切らないが、自分のために利用はするというマキャベリストぶりを発揮する。
1,2巻とも表紙は西郷だが、裏は大久保が描かれており、両者が表と裏、ポジとネガという一体不離の関係として描いていこうという、作者の意図か。

せごどん裏

西郷の少年期のエピソードとして右腕を負傷して剣術を断念したのは有名だ。どういう話かというと、横堀三介という者が妙円寺詣りの夜に喧嘩を仕掛けてきたので、西郷が横堀を泥水に投げ飛ばしたのが発端で、怨みを抱いた横堀が聖堂(造士館か)帰りの西郷を襲撃し、そのとき、刀の鞘が割れて、西郷の右腕を深く傷つけてしまったというもの。

これが作品では、大久保がからんでおり、大久保の下手な小細工がもとで、西郷が負傷するという描かれ方になっている。大久保の狷介な性格を際立たせるという狙いかもしれないが、元の逸話を歪曲してまで描かねばならないことだろうか。少々やりすぎではないか。
まあ、2巻目以降、大久保が成長して少しは好意的に描かれるようではあるが、今後も大久保と対比することで、西郷を大きく見せるという方法論を採用するようだと、かえって、西郷を小さく見せることになるのではないか。
その試金石は、大久保が囲碁で島津久光に取り入るという逸話をどう描くかにあるかもしれない。

今回の大きなエピソードは、西郷・大久保と同じ方限(ほうぎり、集落)の下加治屋町の仲間、笹岡倫之進の父親が、家老調所広郷の秘蔵の茶器(藩主斉興からの拝領品)を間違って割ってしまったことから、倫之進が憤激して抜刀したために斬首されるという話が展開する。

この話は聞いたことがなかったので、おそらく作者の創作ではないかと思う。それに、下加治屋町に笹岡という名字の城下士は存在しないのではないだろうか。『元帥公爵大山巌』(大山元帥伝刊行会)には下加治屋町方限の戸主名70数軒が出ているが、そのなかに笹岡名字は見当たらない。まあ、お家断絶になったというのが事実なら、掲載されていなくても不思議ではないが……。

薩摩藩独特の郷中制度や、二才、稚児などの年代階層別の集団教育が県外の一般人には理解できないだろうという判断で、わかりやすくする工夫をしているのは買うが、それを衆道に単純化し、西郷と大久保が互いに接吻するというのは何だかなあという気もする。

あと、気になったのは年齢の数え方である。

西郷:文政10年(1827)12月7日生まれ
大久保:天保元年(1830)8月10日生まれ

当時は数え年換算するのがふつうだが、作品では満年齢になっている。それはそれでよしとしよう。でも、作品ではいつも2歳違いで表記してある。西郷が12月生まれだから、ほぼ2歳違いだろうということだろうが、実際は2歳8カ月違う。3歳違いで表記したほうが誤解を招かないと思うのだが……。

また表紙の巻数表記が西郷家の家紋「抱き菊の葉に菊」を下敷きにしているのも工夫の一つで面白い。ただ、作品とは関係ないが、この家紋は明治以降じゃないかなという気がする。幕末かそれ以前から西郷家が菊紋を一部あしらっていたとは考えにくいのだが……。

二巻目にはおきゃんなお由羅の方が、三巻目では篤姫も登場するようだ。
二巻目以降も批評をつづけていきたい。

せごどん ①
イブニングKC
道明 著
出版社名 講談社
出版年月 2006年12月
ISBNコード 978-4-06-352163-4
税込価格 540円

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【2006/12/30 13:48】 | 幕末維新
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笹岡家
かわい
 鹿児島では多い名字なのでしょうか。

鹿児島県の名字ランキング
桐野
『鹿児島県姓氏家系大辞典』(角川書店)の末尾に、NTTの電話帳をもとにした鹿児島県の名字のランキングが掲載されています。

それによると、笹岡名字はわずか3軒で、8399位です。ほとんど例外的な名字と言ってよいと思います。

ちなみに、私の桐野名字は143軒で、682位です。

作者の意図
かわい
 首都圏なら母方の親戚だけでその倍はいますから、鹿児島では希少名字といってもよさそうですね。
 それにしても、なぜそんな例外的な名字を使ったのか興味深いですね。実際にそういう知られていない逸話があったんでしょうか。作者に聞いてみたいですね。

素朴な質問なんですが…
その昔、島津氏に滅ばされた(?)伊東氏ですが、鹿児島にはどの位いらっしゃるんでしょうか? また、なぜいらっしゃるんでしょうか? 以前の「百姓から見た戦国大名」にある話と関係があるんでしょうか?歴史ファン初心者なので、変なことを質問しているかも知れませんが。

伊東氏
桐野
日向の戦国大名だった伊東氏はたしかに島津氏に攻められて居城の都於郡(とのこおり)や佐土原を逐われましたが、滅亡はしておらず、豊後の大友宗麟に庇護されています。
そして、島津氏が豊臣秀吉に降伏したのち、秀吉の命によって復活し、日向飫肥3万6千石ほどの大名となって、明治維新までずっと健在でした。

この伊東氏は鎌倉御家人の工藤祐経の子孫で、祐経の二男祐時が日向国地頭職を得たことから、日向で勢力を強めます。伊東氏の一族は「祐」の字を実名の通字にしているのが特徴です。そしていくつか分家もあり、島津氏にも仕えた家がありますね。

比較的知られているのは、島津義弘に仕えて、長刀の名手だったことから「今弁慶」の異名をとり、関ヶ原合戦で義弘を守って帰国した木脇(きのわき)刑部左衛門祐秀です。「祐」の通字があります。
木脇氏は伊東祐経の二男祐時の八男が木脇刑部左衛門尉祐頼と名乗ったことから始める家のようです。

ほかにも、上の伊東氏とは別の系譜の伊東氏がいくつか島津家に仕えていますね。
幕末維新期には、伊東祐麿・祐享兄弟が出て、ともに海軍の将官、とくに祐享は元帥府に列し、連合艦隊司令長官などを歴任していますね。この伊東兄弟も「祐」を通字にしているので、上記伊東氏と何らかの系譜関係があるのかもしれません。



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この記事へのコメント
笹岡家
 鹿児島では多い名字なのでしょうか。
2006/12/30(Sat) 17:26 | URL  | かわい #-[ 編集]
鹿児島県の名字ランキング
『鹿児島県姓氏家系大辞典』(角川書店)の末尾に、NTTの電話帳をもとにした鹿児島県の名字のランキングが掲載されています。

それによると、笹岡名字はわずか3軒で、8399位です。ほとんど例外的な名字と言ってよいと思います。

ちなみに、私の桐野名字は143軒で、682位です。
2006/12/30(Sat) 18:00 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
作者の意図
 首都圏なら母方の親戚だけでその倍はいますから、鹿児島では希少名字といってもよさそうですね。
 それにしても、なぜそんな例外的な名字を使ったのか興味深いですね。実際にそういう知られていない逸話があったんでしょうか。作者に聞いてみたいですね。
2006/12/30(Sat) 19:18 | URL  | かわい #-[ 編集]
素朴な質問なんですが…
その昔、島津氏に滅ばされた(?)伊東氏ですが、鹿児島にはどの位いらっしゃるんでしょうか? また、なぜいらっしゃるんでしょうか? 以前の「百姓から見た戦国大名」にある話と関係があるんでしょうか?歴史ファン初心者なので、変なことを質問しているかも知れませんが。
2006/12/30(Sat) 20:05 | URL  | 元 #-[ 編集]
伊東氏
日向の戦国大名だった伊東氏はたしかに島津氏に攻められて居城の都於郡(とのこおり)や佐土原を逐われましたが、滅亡はしておらず、豊後の大友宗麟に庇護されています。
そして、島津氏が豊臣秀吉に降伏したのち、秀吉の命によって復活し、日向飫肥3万6千石ほどの大名となって、明治維新までずっと健在でした。

この伊東氏は鎌倉御家人の工藤祐経の子孫で、祐経の二男祐時が日向国地頭職を得たことから、日向で勢力を強めます。伊東氏の一族は「祐」の字を実名の通字にしているのが特徴です。そしていくつか分家もあり、島津氏にも仕えた家がありますね。

比較的知られているのは、島津義弘に仕えて、長刀の名手だったことから「今弁慶」の異名をとり、関ヶ原合戦で義弘を守って帰国した木脇(きのわき)刑部左衛門祐秀です。「祐」の通字があります。
木脇氏は伊東祐経の二男祐時の八男が木脇刑部左衛門尉祐頼と名乗ったことから始める家のようです。

ほかにも、上の伊東氏とは別の系譜の伊東氏がいくつか島津家に仕えていますね。
幕末維新期には、伊東祐麿・祐享兄弟が出て、ともに海軍の将官、とくに祐享は元帥府に列し、連合艦隊司令長官などを歴任していますね。この伊東兄弟も「祐」を通字にしているので、上記伊東氏と何らかの系譜関係があるのかもしれません。

2006/12/30(Sat) 22:58 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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2007/01/18(Thu) 08:45 |   |  #[ 編集]
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2007/01/18(Thu) 09:04 |   |  #[ 編集]
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