歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第75回
―島津の勇猛伝説にメス―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、江戸時代後期、悲憤慷慨の書『島津家御旧制軍法巻鈔』を著した軍学者徳田邕興(とくだ・ようこう)について書きました。
もしかしたら、「邕」の字が表示されていないかもしれません。「邑」の上に「巛」を書く字です。

この著作は『新薩藩叢書』に収録されていますが、初めて読んだとき、衝撃を受けました。このように、ズケズケと書く人物が薩摩にもいたのかと。

その後、なぜ徳田がこのような激烈な書を著したのか、その時代的な背景に興味が出てきました。今回はその一端を書いたつもりです。
平和な時代、軍学も形骸化してしまい、甲州流がもてはやされています。徳田はそんな軽薄な風潮に腹立たしかったのでしょう。お上品な講釈で満足していいのか、戦争のリアリズムとはこういうものだ、薩摩軍法は古いといわれるが、そうじゃないと主張したかったのだと思います。

「高輪下馬将軍」と称された藩主重豪にまっ向から論戦を挑み、島流しとなっても屈しなかった徳田の事蹟は前から書いてみたいと思っていました。

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【2008/09/13 11:45】 | さつま人国誌
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「前積り」
かぎや
とても興味深い記事でしたので、さっそく「さつま人国誌」を拝読させていただきました。

もしかすると、戦国終期の火縄銃による野戦での完成された戦術として「前積り」というものがあったかも知れない可能性があることを始めて知りました。

ただ、先生が「さつま人国誌」で紹介された説明を考えてみたのですが、小生には実態がよく理解できません。

そこで、質問させていただきたいのですが、
十人毎の射手というのは、薩摩では皆が鉄砲を所持してはいたが、旧態依然たる寄親寄子制(?)から脱却できていなかったために、常時訓練を受け行動を共にする隊伍がなく、合戦に臨んでその都度編成されたということなのでしょうか。
それとも、
関ヶ原での薩摩軍が正規軍でなく有志を集めただけであったために集団的な行動をとるための準備・打ち合わせが不足したということなのでしょうか。

また、自陣前の地面につける印というのは、隊伍に分かれた銃手たちの配備位置を事前に受け持ち範囲を決定して配備するに際して、口頭の指示ではたりず実際に縄張りして置くという硬直した配備なのでしょうか。

それとも、後世の大砲の射撃のように目標に狙いをつける基準になる一定距離に目印を設置しておくといことなのでしょうか。

どちらにしても、薩摩の鉄砲が野戦で攻撃的に使用でき、他の大名に比べて強かった理由になるとは思えません。
常設の鉄砲射手であったならば、関ヶ原では奇襲を受けたわけでもないのですから、「前積り」をしていなかったからといって、慌てて迎撃して混乱したというのは理解できないのです。

先生は、どうお考えでしょうか?



繰抜
桐野作人
かぎやさん、こんにちは。

難しいご質問ですね。推定を交えながら、お答えさせて下さい。

まず、関ヶ原での島津軍の編成や性格ですが、寄せ集めであるのはたしかですね。ですから、ご指摘のような

>関ヶ原での薩摩軍が正規軍でなく有志を集めただけであったために集団的な行動をとるための準備・打ち合わせが不足したということなのでしょうか。

このような面があったのはたしかだと思います。
ただ、島津豊久の軍勢については、島津軍のなかで、唯一のまとまった数百の家来を率いており、本来なら統一的な行動が可能だったはずです。
豊久の経験不足があったのでしょうか、よくわかりません。
豊久を弁護すれば、大垣城から転進してきて、あまり時間をおかずに開戦していると思いますので、「前積り」をする時間的余裕がなかったのか、あるいは、他の寄せ集めも麾下に繰り込んで采配をとらなければならなかったので、統制をとるのが難しかったのかもしれません。

「前積り」は「繰抜」(あるいは繰詰)という鉄砲戦術と関わっています。連載では紙数がなかったので詳しく書けなかったため、少し誤解を招いたのかもしれません。

「繰抜」は、徳田の著書によると、一列ずつ鉄砲を放つと、そのまま(その場所で)玉込めをします。その間に後列がその前に出て放ちます。その繰り返しの運動を指します。
したがって、鉄砲隊は常に前に出て行くことになります。そのとき、混乱しないよう、あらかじめ地面に印を付けて配置を定め、混乱を回避しようというものだと思います。

ちなみに、射手は衆中、つまり正規の武士たち(徒士衆)ですね。彼らは郎党を率いている者もいます。「繰抜」のときは郎党は背後に控えているのかもしれません。「繰抜」が一段落してから、「鉾矢形」という突撃態勢に移ります。そのとき、郎党たちは主人のところに集まり、主従で突撃するのでしょう。郎党たちの武器は鉄砲ではなく、持鑓か弓矢、太刀のようです。このうち、持鑓は主人の得物かもしれません。

だいたい以上のようなことが徳田の著書にかいてあります。
なお、今年刊行された学研歴史群像シリーズ特別編集「戦国九州三国志」に少し詳しく書いていますので、よかったら、ご参照下さい。

「繰抜」
かぎや
御忙しいところ、ご丁寧な説明を有難うございます。

だいたいのところは分かったような心算ですが、「地面の印」は今一疑問です。小頭なり伍長がしかるべき位置に立ち、組員はその左なりに整列すればよいのでしょうから、地面の印が何のために必要なのかが理解できないでいます。

いちいち、そんなものが必要ならば、不期遭遇線での薩摩鉄砲はすこぶる重鈍な働きしかできないことになってしまいそうです。

早速、御紹介いただきました「戦国九州三国志」を勉強したいと思います。


桐野作人
かぎやさん

念のために。
印は開戦前の立ち位置ではなくて、開戦して繰抜をするとき、各列が前進するわけですが、そのときの想定立ち位置へのマーキングだと思います。

不軌遭遇戦をどのようにお考えなのかわかりませんが、開戦までにある程度の時間があるときに採用する方法だと思います。


ありがとうございます
かぎや
わざわざ有難うございます。
小生も、先生のおっしゃられる意味で、マーキングを受け取っていますが、西洋のマスケット銃隊などがマーキングしたとは思えません。…不勉強で実際のところは知らないのですが。

それと、「不期遭遇戦」と書いたのは、期せずして戦端を開いた場合を想定していまして、例えば河合秀郎氏が「新説・姉川合戦/日本戦史」(学研文庫)で想定したように、順次部隊を戦線に投入するようなときとか、小豆坂合戦のように山間ではち合わせしたような場合です。

一緒に島流しになった薬丸半左衛門の伯父さん
アリア・ヴァレリ
この徳田という人は徳田大兵衛と関係あるんでしょうか?また、「三州遺芳」では久保之英長男で薬丸半左衛門の実の伯父で、「日新公伊呂波御歌」の作者である久保平内左衛門之正も島流しになったようです。その後、許されて帰国するものの今度は種子島に島流しになってそのまま死去したとか・・・。

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この記事へのコメント
「前積り」
とても興味深い記事でしたので、さっそく「さつま人国誌」を拝読させていただきました。

もしかすると、戦国終期の火縄銃による野戦での完成された戦術として「前積り」というものがあったかも知れない可能性があることを始めて知りました。

ただ、先生が「さつま人国誌」で紹介された説明を考えてみたのですが、小生には実態がよく理解できません。

そこで、質問させていただきたいのですが、
十人毎の射手というのは、薩摩では皆が鉄砲を所持してはいたが、旧態依然たる寄親寄子制(?)から脱却できていなかったために、常時訓練を受け行動を共にする隊伍がなく、合戦に臨んでその都度編成されたということなのでしょうか。
それとも、
関ヶ原での薩摩軍が正規軍でなく有志を集めただけであったために集団的な行動をとるための準備・打ち合わせが不足したということなのでしょうか。

また、自陣前の地面につける印というのは、隊伍に分かれた銃手たちの配備位置を事前に受け持ち範囲を決定して配備するに際して、口頭の指示ではたりず実際に縄張りして置くという硬直した配備なのでしょうか。

それとも、後世の大砲の射撃のように目標に狙いをつける基準になる一定距離に目印を設置しておくといことなのでしょうか。

どちらにしても、薩摩の鉄砲が野戦で攻撃的に使用でき、他の大名に比べて強かった理由になるとは思えません。
常設の鉄砲射手であったならば、関ヶ原では奇襲を受けたわけでもないのですから、「前積り」をしていなかったからといって、慌てて迎撃して混乱したというのは理解できないのです。

先生は、どうお考えでしょうか?

2008/09/14(Sun) 08:06 | URL  | かぎや #-[ 編集]
繰抜
かぎやさん、こんにちは。

難しいご質問ですね。推定を交えながら、お答えさせて下さい。

まず、関ヶ原での島津軍の編成や性格ですが、寄せ集めであるのはたしかですね。ですから、ご指摘のような

>関ヶ原での薩摩軍が正規軍でなく有志を集めただけであったために集団的な行動をとるための準備・打ち合わせが不足したということなのでしょうか。

このような面があったのはたしかだと思います。
ただ、島津豊久の軍勢については、島津軍のなかで、唯一のまとまった数百の家来を率いており、本来なら統一的な行動が可能だったはずです。
豊久の経験不足があったのでしょうか、よくわかりません。
豊久を弁護すれば、大垣城から転進してきて、あまり時間をおかずに開戦していると思いますので、「前積り」をする時間的余裕がなかったのか、あるいは、他の寄せ集めも麾下に繰り込んで采配をとらなければならなかったので、統制をとるのが難しかったのかもしれません。

「前積り」は「繰抜」(あるいは繰詰)という鉄砲戦術と関わっています。連載では紙数がなかったので詳しく書けなかったため、少し誤解を招いたのかもしれません。

「繰抜」は、徳田の著書によると、一列ずつ鉄砲を放つと、そのまま(その場所で)玉込めをします。その間に後列がその前に出て放ちます。その繰り返しの運動を指します。
したがって、鉄砲隊は常に前に出て行くことになります。そのとき、混乱しないよう、あらかじめ地面に印を付けて配置を定め、混乱を回避しようというものだと思います。

ちなみに、射手は衆中、つまり正規の武士たち(徒士衆)ですね。彼らは郎党を率いている者もいます。「繰抜」のときは郎党は背後に控えているのかもしれません。「繰抜」が一段落してから、「鉾矢形」という突撃態勢に移ります。そのとき、郎党たちは主人のところに集まり、主従で突撃するのでしょう。郎党たちの武器は鉄砲ではなく、持鑓か弓矢、太刀のようです。このうち、持鑓は主人の得物かもしれません。

だいたい以上のようなことが徳田の著書にかいてあります。
なお、今年刊行された学研歴史群像シリーズ特別編集「戦国九州三国志」に少し詳しく書いていますので、よかったら、ご参照下さい。
2008/09/15(Mon) 08:06 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
「繰抜」
御忙しいところ、ご丁寧な説明を有難うございます。

だいたいのところは分かったような心算ですが、「地面の印」は今一疑問です。小頭なり伍長がしかるべき位置に立ち、組員はその左なりに整列すればよいのでしょうから、地面の印が何のために必要なのかが理解できないでいます。

いちいち、そんなものが必要ならば、不期遭遇線での薩摩鉄砲はすこぶる重鈍な働きしかできないことになってしまいそうです。

早速、御紹介いただきました「戦国九州三国志」を勉強したいと思います。
2008/09/15(Mon) 12:23 | URL  | かぎや #-[ 編集]
かぎやさん

念のために。
印は開戦前の立ち位置ではなくて、開戦して繰抜をするとき、各列が前進するわけですが、そのときの想定立ち位置へのマーキングだと思います。

不軌遭遇戦をどのようにお考えなのかわかりませんが、開戦までにある程度の時間があるときに採用する方法だと思います。
2008/09/15(Mon) 13:16 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
ありがとうございます
わざわざ有難うございます。
小生も、先生のおっしゃられる意味で、マーキングを受け取っていますが、西洋のマスケット銃隊などがマーキングしたとは思えません。…不勉強で実際のところは知らないのですが。

それと、「不期遭遇戦」と書いたのは、期せずして戦端を開いた場合を想定していまして、例えば河合秀郎氏が「新説・姉川合戦/日本戦史」(学研文庫)で想定したように、順次部隊を戦線に投入するようなときとか、小豆坂合戦のように山間ではち合わせしたような場合です。
2008/09/16(Tue) 10:41 | URL  | かぎや #-[ 編集]
一緒に島流しになった薬丸半左衛門の伯父さん
この徳田という人は徳田大兵衛と関係あるんでしょうか?また、「三州遺芳」では久保之英長男で薬丸半左衛門の実の伯父で、「日新公伊呂波御歌」の作者である久保平内左衛門之正も島流しになったようです。その後、許されて帰国するものの今度は種子島に島流しになってそのまま死去したとか・・・。
2008/10/22(Wed) 20:07 | URL  | アリア・ヴァレリ #-[ 編集]
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