とても興味深い記事でしたので、さっそく「さつま人国誌」を拝読させていただきました。
もしかすると、戦国終期の火縄銃による野戦での完成された戦術として「前積り」というものがあったかも知れない可能性があることを始めて知りました。
ただ、先生が「さつま人国誌」で紹介された説明を考えてみたのですが、小生には実態がよく理解できません。
そこで、質問させていただきたいのですが、
十人毎の射手というのは、薩摩では皆が鉄砲を所持してはいたが、旧態依然たる寄親寄子制(?)から脱却できていなかったために、常時訓練を受け行動を共にする隊伍がなく、合戦に臨んでその都度編成されたということなのでしょうか。
それとも、
関ヶ原での薩摩軍が正規軍でなく有志を集めただけであったために集団的な行動をとるための準備・打ち合わせが不足したということなのでしょうか。
また、自陣前の地面につける印というのは、隊伍に分かれた銃手たちの配備位置を事前に受け持ち範囲を決定して配備するに際して、口頭の指示ではたりず実際に縄張りして置くという硬直した配備なのでしょうか。
それとも、後世の大砲の射撃のように目標に狙いをつける基準になる一定距離に目印を設置しておくといことなのでしょうか。
どちらにしても、薩摩の鉄砲が野戦で攻撃的に使用でき、他の大名に比べて強かった理由になるとは思えません。
常設の鉄砲射手であったならば、関ヶ原では奇襲を受けたわけでもないのですから、「前積り」をしていなかったからといって、慌てて迎撃して混乱したというのは理解できないのです。
先生は、どうお考えでしょうか?
かぎやさん、こんにちは。
難しいご質問ですね。推定を交えながら、お答えさせて下さい。
まず、関ヶ原での島津軍の編成や性格ですが、寄せ集めであるのはたしかですね。ですから、ご指摘のような
>関ヶ原での薩摩軍が正規軍でなく有志を集めただけであったために集団的な行動をとるための準備・打ち合わせが不足したということなのでしょうか。
このような面があったのはたしかだと思います。
ただ、島津豊久の軍勢については、島津軍のなかで、唯一のまとまった数百の家来を率いており、本来なら統一的な行動が可能だったはずです。
豊久の経験不足があったのでしょうか、よくわかりません。
豊久を弁護すれば、大垣城から転進してきて、あまり時間をおかずに開戦していると思いますので、「前積り」をする時間的余裕がなかったのか、あるいは、他の寄せ集めも麾下に繰り込んで采配をとらなければならなかったので、統制をとるのが難しかったのかもしれません。
「前積り」は「繰抜」(あるいは繰詰)という鉄砲戦術と関わっています。連載では紙数がなかったので詳しく書けなかったため、少し誤解を招いたのかもしれません。
「繰抜」は、徳田の著書によると、一列ずつ鉄砲を放つと、そのまま(その場所で)玉込めをします。その間に後列がその前に出て放ちます。その繰り返しの運動を指します。
したがって、鉄砲隊は常に前に出て行くことになります。そのとき、混乱しないよう、あらかじめ地面に印を付けて配置を定め、混乱を回避しようというものだと思います。
ちなみに、射手は衆中、つまり正規の武士たち(徒士衆)ですね。彼らは郎党を率いている者もいます。「繰抜」のときは郎党は背後に控えているのかもしれません。「繰抜」が一段落してから、「鉾矢形」という突撃態勢に移ります。そのとき、郎党たちは主人のところに集まり、主従で突撃するのでしょう。郎党たちの武器は鉄砲ではなく、持鑓か弓矢、太刀のようです。このうち、持鑓は主人の得物かもしれません。
だいたい以上のようなことが徳田の著書にかいてあります。
なお、今年刊行された学研歴史群像シリーズ特別編集「戦国九州三国志」に少し詳しく書いていますので、よかったら、ご参照下さい。
御忙しいところ、ご丁寧な説明を有難うございます。
だいたいのところは分かったような心算ですが、「地面の印」は今一疑問です。小頭なり伍長がしかるべき位置に立ち、組員はその左なりに整列すればよいのでしょうから、地面の印が何のために必要なのかが理解できないでいます。
いちいち、そんなものが必要ならば、不期遭遇線での薩摩鉄砲はすこぶる重鈍な働きしかできないことになってしまいそうです。
早速、御紹介いただきました「戦国九州三国志」を勉強したいと思います。
かぎやさん
念のために。
印は開戦前の立ち位置ではなくて、開戦して繰抜をするとき、各列が前進するわけですが、そのときの想定立ち位置へのマーキングだと思います。
不軌遭遇戦をどのようにお考えなのかわかりませんが、開戦までにある程度の時間があるときに採用する方法だと思います。
わざわざ有難うございます。
小生も、先生のおっしゃられる意味で、マーキングを受け取っていますが、西洋のマスケット銃隊などがマーキングしたとは思えません。…不勉強で実際のところは知らないのですが。
それと、「不期遭遇戦」と書いたのは、期せずして戦端を開いた場合を想定していまして、例えば河合秀郎氏が「新説・姉川合戦/日本戦史」(学研文庫)で想定したように、順次部隊を戦線に投入するようなときとか、小豆坂合戦のように山間ではち合わせしたような場合です。
この徳田という人は徳田大兵衛と関係あるんでしょうか?また、「三州遺芳」では久保之英長男で薬丸半左衛門の実の伯父で、「日新公伊呂波御歌」の作者である久保平内左衛門之正も島流しになったようです。その後、許されて帰国するものの今度は種子島に島流しになってそのまま死去したとか・・・。