NHK大河ドラマ「篤姫」第37回「友情と決別」
ドラマの進行時点、文久2年(1862)6月から8月。
前回の予告で、天璋院が小松と会っているシーンがあって、はて、ありうべからざることなのにいかがするつもりかと案じておりましたが、前公方家定の法事にかこつけて、寛永寺で会うという設定はフィクションながら、なかなか秀逸でした。
でも、重ねて台慮(将軍の命令)により、大奥に小松帯刀を呼んで、もう一度会うというのは勇み足だったんじゃないかという気がします。将軍が陪臣の小松に登城を命じるというのは考えにくいですね。
前公方家定の命日は安政5年(1858)7月6日です。ですから、4周忌にあたっていますね。
もっとも、「
昭徳院御実紀」(将軍家茂の伝記)によれば、命日当日は天璋院が寛永寺に行った形跡はなく、同8日に老中板倉勝静が家茂の代参として寛永寺に詣でて参拝しているだけです。
前公方の祥月命日だというのに、2日遅れての代参とは、徳川家も随分法要を簡略化したものですが、命日当日は家茂が多忙だったようです。ほかでもなく、一橋慶喜が同家を再相続し、将軍後見職を命じられた日です。
で、今回の見せ場は大久保一蔵が老中の板倉と脇坂安宅(やすおり)を脅した場面ですね。
前にも書きましたが、脇坂安宅は島津家とは縁戚関係にあり、島津久光も江戸入府後、脇坂を訪ねて歓談しています。それが一転するわけですね。
ところで、このときの勅使は攘夷派で知られる大原重徳ですが、勅使や院使が江戸に下向したときの宿舎は伝奏屋敷で、現在の東京丸ノ内1丁目あたりにありました。
2人の老中はこの伝奏屋敷に呼び出されたわけです。
「事件」があったのは6月26日のことです。
前日も板倉・脇坂が伝奏屋敷を訪れ、大原が将軍後見職の一件を申し入れたところ、2人は次のような理由で難色を示します。
「一橋公一条お達しの処、何ぞ将軍ご不承知の訳にもこれなく、また家中など人気などの事にて、一橋後見にて権威相付き候えば、将軍威勢衰へ、左候えば、外藩より一橋公を云々の訳申し立つべく、これにより今一応考え候上、返答に及ぶべしとの事にて相済み候由」(『大久保利通日記』上)大久保の日記によれば、2人がいうには、慶喜を将軍後見職にするのを家茂自身は不承知ではなく、あくまで徳川家中の「人気」(趨勢とか動向)によるものだということだった。それはもし慶喜が将軍後見職になって権威がついてくれば、将軍の勢威が衰えてしまい、そのうち外様藩から慶喜を将軍に立てるべきだという声が出てくるかもしれない(そのことを恐れている)。だから、一応考えたうえで返答したい、というものだった。
将軍家茂の意向ではなく、老中はじめ譜代大名や幕臣たちが必要以上に憂慮していたということらしいです。
なお、将軍後見職だけが話題になって、松平春嶽の大老(のち政事総裁職)就任が話題になっていないのは、すでに18日に幕府が承諾していたからです。
その趣旨を久光に伝えたところ、久光が「(大原に)
臨機応変に申し上ぐべし」と大久保に命じています。
そこで、午後2時頃、大久保は同僚の中山中左衛門と同道して伝奏屋敷に行き、大原と会います。すると、今日板倉と脇坂がやってくる予定になっていることを知らされます。それは好都合とばかり、大久保は大原に次のように進言します。
「今日は幸いの折柄にて万一お請け申し上げず候はば、閣老を返し申すまじく決心にて申し上げ候処、よほどお振りはまり、それほどの事に候はば、自分きっと差しはまるべしとて、やがて閣老参り、十分ご決心にてお達しの処、これにはお請けよろしく、もっとも、お請け致さず候えば、只今変に及ぶとの事も仰せ付けられ候由、面色相変じ由也、お請けの方に勘考仕るべきとの事の由」大久保は大原に「今日は老中を返さない決心」で言上したところ、大原も察したようで、たいそう張り切ったようです。「振りはまる」というのは薩摩弁で、小松・西郷・大久保などの書簡や日記に頻出します。張り切るとか頑張るというニュアンスです。
大原が板倉と脇坂に「勅諚を請けないと、すぐさま変に及ぶぞ」と申し渡したため、2人の老中は顔色が変わったとのこと。
「〜由」という伝聞形で書いてあるので、大原と老中の会見に大久保は同席しておらず、あとで大原から聞いたということでしょう。
大久保の日記によるかぎり、この日、大原と会見したのは大久保と中山で、小松の名前は出てきません。つまり、小松は同席していません。
それと、これには大久保が隣の間に刺客を控えさせておいたとも書いてありません。
そのことが書かれているのは越前藩の記録のほうで、春嶽の側近である中根雪江の『
再夢紀事』に出てきます。
「野史氏云う、(中略)昨夕両閣老(板倉・脇坂)大原殿の許へ参上の筈に付き、三郎(久光)、大原殿と謀って、薩より三人の死士を指し出し、三の間に伏せ置き、大原殿応接の結局、勅意行われ難き場合に至らば、大原殿坐を起って次の間へ出らるべき、それを相図に三士両閣の坐に闖入して、違勅の罪を鳴らし、忽ち天誅を行ふべしとのしめし合せに待ち受けられしに、両閣参上の上、果して大原殿の申さる儀を百方抗拒ありて承引に及ばれざる故、最早坐を起るべき最後の一言に、いよいよお請けこれなきにおいては、禍害目前に各々の身上に及び候が、それにても宜しきかと申されしかば、両人大いに避易して、左様の次第と相成り候ては、幕府の失体容易ならずと漸くにお請けに及ばれし事にて、実に危急切迫の事なりしぞ」これによれば、薩摩藩から「
三人の死士」を差し出したことになっていますが、今度は大久保の名前が出てきませんね。まあ、大久保がこの日伝奏屋敷に行ったことは本人が日記に書いているので、間違いないでしょう。
で、「
三人の死士」が誰かですが、よくわかりません。『大久保利通伝』上は、吉井幸輔と野津(七左衛門=鎮雄か)の名前を挙げています。あと一人はわかりませんね。
『
大久保利通伝』上は、「
三人の死士」がいたことには否定的です。29日の大原の登城のとき、吉井と野津が決死の覚悟で同行したのと混同しているのではないかと記しています。
もしそうなら、ドラマで大久保が隣の間に刺客と控えていたシーンはフィクションだということになります。
大久保の日記によれば、この日、伝奏屋敷で「
板倉用人山田」と会って「
大議論に及」んだと書いています。
山田とは、山田安五郎のちの方谷です。山田は板倉勝静の顧問で、備中松山藩の藩政改革を進めました。河井継之助の師匠としても有名ですね。
しかし、ドラマであったように、幕府は薩摩の恫喝をそれほど問題にしていたのでしょうか。
というのも、大久保の日記によれば、「事件」からしばらくした7月2日、久光は幕府から刀を拝領しています。これは「
浪人鎮撫之命」を果たしたことによるものです。寺田屋事件の褒賞ということですね。このことから、少なくとも表立っては、幕府と薩摩藩の関係は良好です。
なお、江戸在府中の小松の動静はあまりわかりません。大久保の日記に出てくるくらいで、7月11日に小松は大久保・中山・谷村昌武・堀次郎らと汐留から隅田川で船遊びをしているようです。
いよいよ生麦事件も勃発しましたが、あっけなかったですね。
本当なら、久光の命によってリチャードソンを斬ったはずですが、久光は眠そうで、何が起こったかわからなかった風情でした。この辺はもう少し丁寧に描いてほしかったです。
斬ったのは奈良原喜左衛門ということでしたか? 配役に名前がなかったような(うろおぼえ)。
よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング