歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第76回
―巧みな交渉で助命得る―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は宇喜多秀家の薩摩下向の話を書きました。
書きたかったことは、島津家が秀家を匿っていることを徳川方に知らせた前後、まだ関ヶ原の戦後処理の交渉が継続していたことです。
ですから、秀家の処遇がどうなるかも、そのことと無縁ではありません。
このとき、本来は島津家家長の義久が上京するはずでしたが、どうも中央政権を嫌っている義久は上京したくなかったらしく、聟の忠恒が代参しました。
上京にあたって、島津家側は徳川方の井伊直政、豊臣方の福島正則から一札をもらって、安全保障を確かなものにしてから、家康との会見に臨んでいます。用意周到です。それというのも、本領安堵の起請文を得ながら、大幅に減封された毛利輝元の二の舞は避けたかったからでしょう。

家康から本領安堵と西軍に加担した義弘の赦免を得てから、忠恒は秀家の助命嘆願を申し出ています。
豪姫の実家、前田家との連係プレーも見逃せません。
なお、この上京の途中、忠恒は日向野尻あたりで、家中の獅子身中の虫となっていた伊集院忠真(幸侃嫡男)を事故に見せかけて暗殺しています。
この上京は対外的にも、家中問題においても、いろいろな目的があったことがうかがわれ、もっと知られてよいと思います。また、忠恒が家康とじかに会見したことにより、幕府が忠恒を全面的にバックアップすることになるきっかけにもなりました。忠恒にとっては大きなポイントで、その後、家督継承において有利になったと思います。

秀家に話を戻すと、紙数の関係で書ききれなかったことを追加しておきます。
駿府久能山に3年ほど蟄居したのち、改めて八丈島遠島を命じられますが、出航のため港でに滞在していたとき、地震による津波のため、家財をすべて失うという悲運に見舞われています。

八丈島での50年。秀家にとってはあまりにも長すぎる余生でした。赦免の知らせが来るのを一日千秋の思いで待ち侘びていたことでしょう。

なお、八丈島にある秀家の墓の写真については、MさんとYさんから提供していただきました。掲載は1点だけで申し訳なかったのですが、ご好意、厚く御礼申し上げます。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
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【2008/09/20 09:44】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |

大変面白く拝見しました。
NAO4@吟遊詩人
宇喜多秀家の関ヶ原後のお話、興味深くまた驚嘆の思いで読ませていただきました。ありがとうございました。不躾な質問を発してしまって申し訳ないのですが、宇喜多秀家の関ヶ原から薩摩に至る逃亡の記録というのは、何か史料として残っているのでしょうか。また、八丈島での生活をつづった古文書の類とかあるのでしょうか。


「備前軍記」「日本戦史 関原役」
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

宇喜多秀家の薩摩落ちの記事を読んでいただき、有難うございます。

関ヶ原で敗北して以降の秀家の記録はいくつかありますが、「備前軍記」や「日本戦史 関原役」などが逃亡生活については比較的詳しいように思います。「備前軍記」は『吉備群書集成』三に所収されています。

八丈島での生活はよくわかりませんね。地元の郷土史誌に何か書かれているかもしれませんが。

あと、富田覚真「浮田中納言秀家記」という伝記があるようですが、未見です。



ありがとうございました。
NAO4@吟遊詩人
桐野作人様
お忙しいのに、文献お教えくださりありがとうございます。
『吉備群書集成』三、「日本戦史 関原役」は、近所の図書館にあることが分かりました。

富田覚真「浮田中納言秀家記」
は、身近にはなさそうですが、検索しておりましたら↓見つけました。
http://www.samuraism-japan.com/column_10.html

八丈島では、妻子はいたのですね。ついでに子孫もいたような表現になっています。

慶長7年島津忠恒の上洛+秀家保護の理由
ばんない
こんにちは。島津義久が単純に中央政権嫌いで上洛しなかったかどうかはともかく、忠恒が上洛して徳川家康に島津家当主として認められたというのは、確かにその後の島津家の家督争いにおいて忠恒にとっては追い風になったと思います。

それにしても、関ヶ原の合戦から5年も後になって、宇喜多秀家は前約を翻されて八丈島に流刑になったのですが、桐野さんの今回のお話では、西軍側の実質的大将だった秀家のことを遺恨に思っていた徳川サイドが厳しく罰したという内容に取れました。「秀家の八丈島流刑は本来なら死罪も当然だったのが軽くなった」と書かれている本が多かったので、こういう解釈は驚きでした。

ところで、秀家は八丈島流刑直前に家財の一切合切を津波でなくしたとのことですが、島津家への逃亡→久能山で幽閉…という生活の中でよく家財を貯められたものだなあ、とかえって感心してみたり。…この時家財を無くして完全に無一文になったことが、後の「おにぎり事件」「福島正則の酒を恵んでもらった事件」につながっていくのかも知れませんね。

話は変わって、島津家がこの微妙な時期に、西軍大将の一人・宇喜多秀家をかくまう、という危険を犯した背景ですが、単純に島津義弘と同じ西軍で「同族相哀れむ」…といったそんなきれい事で済まないように思われます。実際島津家サイドも何か下心があったように思われますが、その辺りをうかがわせる史料などは残っているのでしょうか。

秀家処分の軽重
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

記事にも書いたのですが、秀家が助命されたうえは、奥州あたりに流されるのではというのが一般的な観測だったみたいです。それが駿府の久能山だったから意外と寛大だと思われたことでしょう。
その後、幕府が強権で八丈島に再流罪としたから、重刑という印象になったものだと思います。
なぜ、再処分となったのか、よくわかりませんが、秀忠の将軍宣下と同じ年ですから、秀家を本土に置いておけば、自分の死後、大坂方に担がれるかもしれない、かといって、島津や前田の手前、処刑にはできないから、手の届かないところに流してしまおうと、家康が考えたのかどうか? よくわかりません。

島津方が秀家を匿った理由も史料にはとくに表れないと思います。類推するしかないですが、やはり、徳川の覇権が長く続くかどうか、あの時点では定かではなかったはずで、もし天下が流動的になれば、豊家家門という秀家の利用価値があるかもしれないと考えてもおかしくないですね。同じ西軍同士の戦友という義侠心はほとんどなかったと思います(笑)。

ちなみに、秀家が家財をもっていたのは、豪姫の実家、前田家からの支援が大きいのではないでしょうか。前田利長の養嗣子利常は関ヶ原戦後、将軍秀忠の一女を娶っており、姻戚関係にあります。その縁から、何かと秀家に便宜を図りやすかったのだと思います。


ばんない
ご返答ありがとうございました。やはり秀家の処分が変更になった理由とか、島津家が秀家をかくまった理由などは現存の史料では不明のようですね。
>同じ西軍同士の戦友という義侠心はほとんどなかったと思います(笑)。
やっぱりそう思われますか(爆)。私も同感です(苦笑)。

前田家が八丈島の宇喜多親子へ援助を続けていたのは有名ですが、八丈島以前からも援助していた可能性もあるようですね。そういえば、八丈島での宇喜多秀家の生活ぶりは前掲の「おにぎり事件」などいろいろな逸話が伝わっていますが、久能山での生活ぶりは2年と短かったためか知られて無いように思います。

話が島津氏に戻りますが、桐野さんが本文で書かれたように、毛利氏に対しては誓約を反故にしての減封、宇喜多秀家に対してもやはり前約を翻しての遠流と、この頃の徳川家は平気で誓約を反故にする傾向がありますが、島津家はよく誓約を反故されずに領地安堵された物だと思います。やはり明や琉球がらみでしょうか。それとも徳川家側が誓約を反故にするタイミングを逸しただけなんでしょうか(苦笑)。

島津と徳川
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

関ヶ原後、九州の黒田・加藤・伊東らが国境まで攻め寄せていますが、徳川方でも、秀忠を総大将にして島津征伐をしようとする動きが一時ありましたが、沙汰止みになっていますね。

やっぱり地理的な条件が大きかったのではないでしょうか。
南九州の僻地まで大軍を動員するのは兵粮その他、いろいろ大変です。
豊臣政権は石田三成や長束正家など兵站担当の奉行がいて、遠征は得意でしたが、家康はどうだったでしょうか?
また、長引けば不測の事態が起こりかねません。もし徳川方不利となれば、毛利や上杉の再挙兵だってありえないことではないでしょうから。
そんなリスクを負うよりも、多少妥協しても平和的な交渉で解決したほうが賢明だという判断だったのではないでしょうか。
明関係は深読みだと思いますけどね。


ばんない
お忙しい中、レスありがとうございました。やはり島津氏が僻地(失礼)にいたのが有利だったということでしょうか。
黒田・加藤などの九州勢に島津氏を攻撃させるというのも有りでしょうが、この人達が島津氏に勝ったら発言力が大きくなりすぎるでしょうし、万が一負けたらもっと問題なのは容易に想像できたでしょうし…というところかもしれませんね。

宇喜多秀家についてきた人
アリア・ヴァレリ
この宇喜田秀家の薩摩落ちの際についてきた家臣玉川伊予が後に東郷長左衛門重尚の弓の師匠になっていますが、「腰矢台覧記」では玉川は吉田印西の日置流弓術の同輩だったそうです。それにしても日置流弓術師範家東郷氏は影が薄いですよね。南林寺由緒墓に出身者4名の墓があり、島津斉彬の側用人の東郷左大夫や玉里文庫の救済者の東郷重持がこの家の出身者なんですが・・・?。


浮田の子孫です
秀家の子孫です。前田利家の娘ごうの血筋でもあります詳しく資料を作成中です

ご子孫ですか!
桐野
浮田の子孫ですさん、はじめまして。

当ブログにようこそ。
八丈島の宇喜多秀家の子孫は明治になってから赦免されたと聞いています。
また、東京・板橋の近藤勇の墓のあたりに、子孫がお住まいだったと、かつて聞いたことがありましたが……。

資料作成中とか。楽しみですね。
完成のあかつきには、公刊されるのでしょうか?

はじめまして
zeigen
はじめまして。いつもブログを楽しみに拝見しています。
宇喜多秀家と島津氏との関係について興味深く拝読しましたので、コメントを差し上げた次第です。

唐突ですが、秀吉の死後、秀家が家康(および間接的に前田利長)に対して起請文を呈していますが、これが何故島津氏のもとに伝来したのかについて、多少疑問を抱いておりました。あるいはこの秀家の薩摩潜伏がなにか関係をもっているのかもしれません。

また、いろいろと勉強させていただきます。

宇喜多秀家起請文
桐野
zeigenさん、こんにちは。

ご指摘の宇喜多秀家起請文は『旧記雑録後編三』所収の慶長四年三月八日付、徳川家康宛てのものでしょうか。

秀家は家康を「貴殿」と呼んでいますね。
日付は前田利家が他界する一カ月ほど前で、家康と利長が会見したのは、すでに利家が病床にあったと思われ、徳川・前田の両大老間の何らかの合意(秀頼を支えるという)があり、秀家もそれに協力するという誓いなんでしょう。

ただ、この起請文は写しですから、おそらく他家にも同様の写しが遺っているかもしれません。
島津氏の情報収集活動の一環だとはいえますが、宇喜多家と島津家の格別の関係まで想定できるか、なかなか難しいところですね。

秀家の薩摩落ちはほかに行く場所がなかったからではないでしょうか。親戚の前田家も東軍方ですから難しいです。遠隔地のうえ、薩摩に着いたとき、島津氏はまだ正式には家康に降伏していませんから、亡命先としては好都合だったと思われます。薩摩に数年潜伏できれば、風向きも変わるという判断もあったかもしれませんが、どうでしょうかね?


zeigen
ご教示ありがとうございます。
問題の起請文は、おっしゃる通り慶長四年三月付のものです。
解釈についてもご高見の通りだと存じます。

>なかなか難しいところですね。

ご指摘の通りこれ一通だと何とも言われないですね。恐縮です。
ところで、これ以前の島津・宇喜多間の関係がいかなるものであったのか、これは従来ほとんど検討されていません。検討課題にしたいと思っています。

>薩摩に数年潜伏できれば、風向きも変わるという判断もあったかもしれませんが、

可能性は十分あると存じます。このことについて考え始めると、まったく興味が尽きません。
それにしても、逃亡先として何故薩摩なのか、この選択の経緯を直截に伝える史料が何かあればいいのですが…

今後ともよろしくお願いいたします。

貴ブログ拝見
桐野
zeigenさん、こんにちは。

遅ればせながら、貴ブログ拝見。
お仕事のうち、最近取り寄せて読んだ論文もありました。
もしかして、私が申し込んだときの担当者の方だったのでは……。

宇喜多氏については豊臣政権の重要な構成要素ながら、注目度が低いですね。ご当地で近年、活発な研究が行われていることは友人の研究者から聞いておりました。

最近はいろいろ大変な事情もあると仄聞しております。
一層のご健闘をお祈りします。

富田覚真
きこり
「富田覚真」を検索してこのブログに出会った者です。富田覚真は、小生の先祖ですが、新井白石の「折たく柴の記」に「戸部の家人(注:上総久留里藩の初代藩主・土屋忠直の家中の者)にて富田とて、生國は加賀國の人と聞えしが、太平記の評判という事を傳へて、其事を講ずるあり。はじめは小右衛門某といふ。後には覚真といひし人なり。」との記述があります。富田覚真はその後土浦藩(土屋忠直の次男数直が初代藩主)に移り、軍師を務めたと聞いています。
宇喜多秀家の妻・豪が前田利家の娘であったことと「浮田中納言秀家記」を著した富田覚真に繋がりがあったように思えます。是非この秀家記をみたいと望んでいます。

浮田中納言記
桐野
きこりさん

古い記事にコメント有難うございます。
富田覚真の子孫でいらっしゃるのですか。
「折りたく柴の記」に記事があるとは知りませんでした。なるほど加賀生まれだったのですね。
私も読んでみたいものです。



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この記事へのコメント
大変面白く拝見しました。
宇喜多秀家の関ヶ原後のお話、興味深くまた驚嘆の思いで読ませていただきました。ありがとうございました。不躾な質問を発してしまって申し訳ないのですが、宇喜多秀家の関ヶ原から薩摩に至る逃亡の記録というのは、何か史料として残っているのでしょうか。また、八丈島での生活をつづった古文書の類とかあるのでしょうか。
2008/09/24(Wed) 00:57 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #-[ 編集]
「備前軍記」「日本戦史 関原役」
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

宇喜多秀家の薩摩落ちの記事を読んでいただき、有難うございます。

関ヶ原で敗北して以降の秀家の記録はいくつかありますが、「備前軍記」や「日本戦史 関原役」などが逃亡生活については比較的詳しいように思います。「備前軍記」は『吉備群書集成』三に所収されています。

八丈島での生活はよくわかりませんね。地元の郷土史誌に何か書かれているかもしれませんが。

あと、富田覚真「浮田中納言秀家記」という伝記があるようですが、未見です。

2008/09/24(Wed) 09:33 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
ありがとうございました。
桐野作人様
お忙しいのに、文献お教えくださりありがとうございます。
『吉備群書集成』三、「日本戦史 関原役」は、近所の図書館にあることが分かりました。

富田覚真「浮田中納言秀家記」
は、身近にはなさそうですが、検索しておりましたら↓見つけました。
http://www.samuraism-japan.com/column_10.html

八丈島では、妻子はいたのですね。ついでに子孫もいたような表現になっています。
2008/09/25(Thu) 03:08 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #giiOeQT.[ 編集]
慶長7年島津忠恒の上洛+秀家保護の理由
こんにちは。島津義久が単純に中央政権嫌いで上洛しなかったかどうかはともかく、忠恒が上洛して徳川家康に島津家当主として認められたというのは、確かにその後の島津家の家督争いにおいて忠恒にとっては追い風になったと思います。

それにしても、関ヶ原の合戦から5年も後になって、宇喜多秀家は前約を翻されて八丈島に流刑になったのですが、桐野さんの今回のお話では、西軍側の実質的大将だった秀家のことを遺恨に思っていた徳川サイドが厳しく罰したという内容に取れました。「秀家の八丈島流刑は本来なら死罪も当然だったのが軽くなった」と書かれている本が多かったので、こういう解釈は驚きでした。

ところで、秀家は八丈島流刑直前に家財の一切合切を津波でなくしたとのことですが、島津家への逃亡→久能山で幽閉…という生活の中でよく家財を貯められたものだなあ、とかえって感心してみたり。…この時家財を無くして完全に無一文になったことが、後の「おにぎり事件」「福島正則の酒を恵んでもらった事件」につながっていくのかも知れませんね。

話は変わって、島津家がこの微妙な時期に、西軍大将の一人・宇喜多秀家をかくまう、という危険を犯した背景ですが、単純に島津義弘と同じ西軍で「同族相哀れむ」…といったそんなきれい事で済まないように思われます。実際島津家サイドも何か下心があったように思われますが、その辺りをうかがわせる史料などは残っているのでしょうか。
2008/09/26(Fri) 23:29 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
秀家処分の軽重
ばんないさん、こんにちは。

記事にも書いたのですが、秀家が助命されたうえは、奥州あたりに流されるのではというのが一般的な観測だったみたいです。それが駿府の久能山だったから意外と寛大だと思われたことでしょう。
その後、幕府が強権で八丈島に再流罪としたから、重刑という印象になったものだと思います。
なぜ、再処分となったのか、よくわかりませんが、秀忠の将軍宣下と同じ年ですから、秀家を本土に置いておけば、自分の死後、大坂方に担がれるかもしれない、かといって、島津や前田の手前、処刑にはできないから、手の届かないところに流してしまおうと、家康が考えたのかどうか? よくわかりません。

島津方が秀家を匿った理由も史料にはとくに表れないと思います。類推するしかないですが、やはり、徳川の覇権が長く続くかどうか、あの時点では定かではなかったはずで、もし天下が流動的になれば、豊家家門という秀家の利用価値があるかもしれないと考えてもおかしくないですね。同じ西軍同士の戦友という義侠心はほとんどなかったと思います(笑)。

ちなみに、秀家が家財をもっていたのは、豪姫の実家、前田家からの支援が大きいのではないでしょうか。前田利長の養嗣子利常は関ヶ原戦後、将軍秀忠の一女を娶っており、姻戚関係にあります。その縁から、何かと秀家に便宜を図りやすかったのだと思います。
2008/09/27(Sat) 09:59 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
ご返答ありがとうございました。やはり秀家の処分が変更になった理由とか、島津家が秀家をかくまった理由などは現存の史料では不明のようですね。
>同じ西軍同士の戦友という義侠心はほとんどなかったと思います(笑)。
やっぱりそう思われますか(爆)。私も同感です(苦笑)。

前田家が八丈島の宇喜多親子へ援助を続けていたのは有名ですが、八丈島以前からも援助していた可能性もあるようですね。そういえば、八丈島での宇喜多秀家の生活ぶりは前掲の「おにぎり事件」などいろいろな逸話が伝わっていますが、久能山での生活ぶりは2年と短かったためか知られて無いように思います。

話が島津氏に戻りますが、桐野さんが本文で書かれたように、毛利氏に対しては誓約を反故にしての減封、宇喜多秀家に対してもやはり前約を翻しての遠流と、この頃の徳川家は平気で誓約を反故にする傾向がありますが、島津家はよく誓約を反故されずに領地安堵された物だと思います。やはり明や琉球がらみでしょうか。それとも徳川家側が誓約を反故にするタイミングを逸しただけなんでしょうか(苦笑)。
2008/09/27(Sat) 14:07 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
島津と徳川
ばんないさん、こんばんは。

関ヶ原後、九州の黒田・加藤・伊東らが国境まで攻め寄せていますが、徳川方でも、秀忠を総大将にして島津征伐をしようとする動きが一時ありましたが、沙汰止みになっていますね。

やっぱり地理的な条件が大きかったのではないでしょうか。
南九州の僻地まで大軍を動員するのは兵粮その他、いろいろ大変です。
豊臣政権は石田三成や長束正家など兵站担当の奉行がいて、遠征は得意でしたが、家康はどうだったでしょうか?
また、長引けば不測の事態が起こりかねません。もし徳川方不利となれば、毛利や上杉の再挙兵だってありえないことではないでしょうから。
そんなリスクを負うよりも、多少妥協しても平和的な交渉で解決したほうが賢明だという判断だったのではないでしょうか。
明関係は深読みだと思いますけどね。
2008/10/05(Sun) 23:51 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
お忙しい中、レスありがとうございました。やはり島津氏が僻地(失礼)にいたのが有利だったということでしょうか。
黒田・加藤などの九州勢に島津氏を攻撃させるというのも有りでしょうが、この人達が島津氏に勝ったら発言力が大きくなりすぎるでしょうし、万が一負けたらもっと問題なのは容易に想像できたでしょうし…というところかもしれませんね。
2008/10/06(Mon) 19:49 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
宇喜多秀家についてきた人
この宇喜田秀家の薩摩落ちの際についてきた家臣玉川伊予が後に東郷長左衛門重尚の弓の師匠になっていますが、「腰矢台覧記」では玉川は吉田印西の日置流弓術の同輩だったそうです。それにしても日置流弓術師範家東郷氏は影が薄いですよね。南林寺由緒墓に出身者4名の墓があり、島津斉彬の側用人の東郷左大夫や玉里文庫の救済者の東郷重持がこの家の出身者なんですが・・・?。
2008/10/22(Wed) 19:59 | URL  | アリア・ヴァレリ #-[ 編集]
秀家の子孫です。前田利家の娘ごうの血筋でもあります詳しく資料を作成中です
2009/10/10(Sat) 21:04 | URL  | 浮田の子孫です #4ph23zis[ 編集]
ご子孫ですか!
浮田の子孫ですさん、はじめまして。

当ブログにようこそ。
八丈島の宇喜多秀家の子孫は明治になってから赦免されたと聞いています。
また、東京・板橋の近藤勇の墓のあたりに、子孫がお住まいだったと、かつて聞いたことがありましたが……。

資料作成中とか。楽しみですね。
完成のあかつきには、公刊されるのでしょうか?
2009/10/10(Sat) 22:01 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
はじめまして
はじめまして。いつもブログを楽しみに拝見しています。
宇喜多秀家と島津氏との関係について興味深く拝読しましたので、コメントを差し上げた次第です。

唐突ですが、秀吉の死後、秀家が家康(および間接的に前田利長)に対して起請文を呈していますが、これが何故島津氏のもとに伝来したのかについて、多少疑問を抱いておりました。あるいはこの秀家の薩摩潜伏がなにか関係をもっているのかもしれません。

また、いろいろと勉強させていただきます。
2009/10/11(Sun) 01:32 | URL  | zeigen #-[ 編集]
宇喜多秀家起請文
zeigenさん、こんにちは。

ご指摘の宇喜多秀家起請文は『旧記雑録後編三』所収の慶長四年三月八日付、徳川家康宛てのものでしょうか。

秀家は家康を「貴殿」と呼んでいますね。
日付は前田利家が他界する一カ月ほど前で、家康と利長が会見したのは、すでに利家が病床にあったと思われ、徳川・前田の両大老間の何らかの合意(秀頼を支えるという)があり、秀家もそれに協力するという誓いなんでしょう。

ただ、この起請文は写しですから、おそらく他家にも同様の写しが遺っているかもしれません。
島津氏の情報収集活動の一環だとはいえますが、宇喜多家と島津家の格別の関係まで想定できるか、なかなか難しいところですね。

秀家の薩摩落ちはほかに行く場所がなかったからではないでしょうか。親戚の前田家も東軍方ですから難しいです。遠隔地のうえ、薩摩に着いたとき、島津氏はまだ正式には家康に降伏していませんから、亡命先としては好都合だったと思われます。薩摩に数年潜伏できれば、風向きも変わるという判断もあったかもしれませんが、どうでしょうかね?
2009/10/11(Sun) 13:42 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
ご教示ありがとうございます。
問題の起請文は、おっしゃる通り慶長四年三月付のものです。
解釈についてもご高見の通りだと存じます。

>なかなか難しいところですね。

ご指摘の通りこれ一通だと何とも言われないですね。恐縮です。
ところで、これ以前の島津・宇喜多間の関係がいかなるものであったのか、これは従来ほとんど検討されていません。検討課題にしたいと思っています。

>薩摩に数年潜伏できれば、風向きも変わるという判断もあったかもしれませんが、

可能性は十分あると存じます。このことについて考え始めると、まったく興味が尽きません。
それにしても、逃亡先として何故薩摩なのか、この選択の経緯を直截に伝える史料が何かあればいいのですが…

今後ともよろしくお願いいたします。
2009/10/11(Sun) 16:57 | URL  | zeigen #-[ 編集]
貴ブログ拝見
zeigenさん、こんにちは。

遅ればせながら、貴ブログ拝見。
お仕事のうち、最近取り寄せて読んだ論文もありました。
もしかして、私が申し込んだときの担当者の方だったのでは……。

宇喜多氏については豊臣政権の重要な構成要素ながら、注目度が低いですね。ご当地で近年、活発な研究が行われていることは友人の研究者から聞いておりました。

最近はいろいろ大変な事情もあると仄聞しております。
一層のご健闘をお祈りします。
2009/10/12(Mon) 13:14 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
富田覚真
「富田覚真」を検索してこのブログに出会った者です。富田覚真は、小生の先祖ですが、新井白石の「折たく柴の記」に「戸部の家人(注:上総久留里藩の初代藩主・土屋忠直の家中の者)にて富田とて、生國は加賀國の人と聞えしが、太平記の評判という事を傳へて、其事を講ずるあり。はじめは小右衛門某といふ。後には覚真といひし人なり。」との記述があります。富田覚真はその後土浦藩(土屋忠直の次男数直が初代藩主)に移り、軍師を務めたと聞いています。
宇喜多秀家の妻・豪が前田利家の娘であったことと「浮田中納言秀家記」を著した富田覚真に繋がりがあったように思えます。是非この秀家記をみたいと望んでいます。
2011/09/03(Sat) 20:19 | URL  | きこり #-[ 編集]
浮田中納言記
きこりさん

古い記事にコメント有難うございます。
富田覚真の子孫でいらっしゃるのですか。
「折りたく柴の記」に記事があるとは知りませんでした。なるほど加賀生まれだったのですね。
私も読んでみたいものです。

2011/09/04(Sun) 06:39 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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