歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第38回「姑の心、嫁の心」

ドラマ進行時点は文久2年(1862)8月から翌3年2月にかけて。

今回は、タイトルどおりに、天璋院と和宮の家茂をめぐるさやあてが中心で、いかにも大奥ホームドラマ仕立てになっておりましたが、政局的には重大事件があり、見逃せません。

まず、島津久光と勅使大原重徳の江戸下向により、一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政事総裁職就任が決まって、一定の幕政改革がなされましたが、久光らが上京してみると、京都政局が一転してしまいました。
今回、桂小五郎と久坂玄瑞が初めて登場したように、長州の尊攘派が表舞台に出てきました。
余談ですが、先日の薩摩の会で、久坂玄瑞役の東武志さんに会いました。薩摩の血を引いた、なかなかのイケメンでした。

京都政局が突然変転したことを、2人の登場だけで表現していましたが、実際のところは、長州藩邸で藩主臨席の御前会議が開かれ、長井雅楽の「航海遠略説」が敗北して、即今攘夷派が勝利したことによるものです。この長州藩の藩論転換が京都政局を激動させることになったのですが、その背景には、航海遠略説を初め支持していた政務役の周布政之助が即今攘夷に転じたことが大きかったと評されています(高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館)。

そして、長州派の圧力により、朝廷は即今攘夷の勅旨を長州側に示します。その趣旨は、『修訂防長回天史』3上によれば、

「公武を始め万人一和一致にて、神州のため精力を尽くし、早蛮夷拒絶に決定候様、幕吏へ掛け合いの都合に相成り候と遊ばされたく叡願にあらせられ候」

蛮夷拒絶」の「叡願」があったというのですから、長州系尊攘派の喜びようがわかるというもの。彼らはこの勅旨によって何よりのお墨付きを得たことになります。
もちろん、長州藩が京都政局の主導権を握ったのには、この年6月頃から、「天誅」の名によるテロリズムが京都で吹き荒れてことが背景にあります。その余波で和宮降嫁に奔走した村上源氏一族(久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直)らが「四奸二嬪」と名指しされて失脚します。
なお、「二嬪」は堀河紀子と今城重子です。

本来、朝廷がもっとも頼りにしたのは久光だったはずです。在京中の久光も期待に応えて建白書を提出しています。でも、政事総裁職の松平春嶽の上京が遅延することになり、幕府側の誠意を朝廷に示せなくなったことで、久光の主張に説得力がなかったのと、生麦事件により英国艦隊が鹿児島に来襲しそうな形勢だったため、久光が京都に長居できなかったという事情もありました。

寺田屋事件という大きな代価を払ってまで得た大きな成果が台無しになってしまったのも、久光が自分で蒔いた種です。
このことはあまり重視されていませんが、じつは薩摩藩内では問題にされている形跡があります。長州藩に名をなさしめたことの政治的責任をどうするのか、久光の側近グループである小松帯刀・中山中左衛門・大久保一蔵・堀次郎らが追及されたのではないかと思います。

さて、勅旨降下を受けて、改めて勅使が江戸へ下向しました。三条実美と姉小路公知です。なお、このときの警固は土佐藩主山内豊範でした。

ドラマでは、2人の勅使が上座に坐り、将軍家茂が下座でした。場所は本丸の大広間です。
勅使が上座で、将軍が下座というのは、その前の勅使大原重徳からです。大原は白書院で将軍家茂と対面したとき、それまで佩刀をはずす先例を無視して帯刀したまま進み、しかも上座に着しました。

これは勅使が年賀の挨拶に江戸に下ってくるようになってから初めての前代未聞の出来事で、開幕以来、公武関係が逆転したことを視覚的に示したものでした。それまでは、将軍が上座で、下座の勅使を引見していたのです。
ほかの例を見ますと、たとえば、2代将軍秀忠が上京して後水尾天皇と会見したときには、座が上下ではなく、左右に設けられています。つまり、将軍と天皇は対等だったわけです。後水尾天皇の中宮和子は秀忠の娘でしたから、秀忠は天皇の舅にあたるため、上皇待遇にしたといわれています。

秀忠から200年以上たって、将軍が天皇どころか勅使に対してさえ下座に座らされるのは屈辱以外のなにものでもなかったはずで、泉下の秀忠や家光などはさぞや慨嘆していることでしょう。

次回、どこまで描かれるかわかりませんが、上京した将軍家茂は禁裏御所で、天皇臨席の座次(ざなみ)でもっとひどい処遇を受けるという屈辱を味わうことになります。それというのも、ドラマによるかぎり、天璋院が無理やり進めてしまったわけで、義理の息子をひどい目に遭わせて幕府を守ることにはなっていませんね(笑)。

それと、ドラマでは描かれませんでしたが、この年の2度目の勅使一行が江戸に下ってきたとき、将軍家茂と和宮は仲よく麻疹(はしか)にかかって、1カ月ほど寝込んでいます。そのため、勅使との対面が遅れてしまいました。

家茂の伝記「昭徳院殿御実紀」によれば、10月27日条に、

「公方様御麻疹遊ばされ候に付」

とあり、次いで、

「御台様御麻疹遊ばされ候に付」

とあります。
2人はほとんど同時に麻疹にかかっています。
これは2人が長く一緒にいたため、一方が他方に移してしまったのでしょう。
2人の仲のよさがわかる史実で、ドラマで2人の夫婦愛を描くには格好の材料でしたが、スルーでしたね。ちょっと残念です。

他方、鹿児島の話題のほうですが、小松帯刀がいよいよ家老に昇進しました。これは史実どおりです。「小松帯刀伝」によれば、辞令が出たのは文久2年12月(24日だとされています)。
家老の役料として1000石を加増され、それまでの御側詰も兼務です。あまり指摘されませんが、私はこの兼務が重要だと思っています。

またそれから3日後にはさらに辞令が出て、小松の家老としての職掌が示されました。それは、軍役掛、琉球掛、改革内用掛、勝手方掛、蒸気船掛など、じつに10の職掌です。
薩摩藩における家老はふつう5、6人ですが、多くても職掌は3つ程度で、小松のように10も受けもつのは異例中の異例です。調所広郷さえ、それほど多くは分掌していないはずです。久光の小松への信任のほどが示されているように思います。

さて、次回は薩英戦争です。どの程度描かれるのでしょうか。楽しみです。

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【2008/09/21 23:22】 | 篤姫
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