歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第78回
―家久、父の苦言押し切る―

連載が更新になりました。
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今回は鶴丸城の2回目です。
島津家久が父義弘の忠告を斥けて、本格的に鶴丸城を築くいきさつが中心です。とくに義弘の忠告の内容を詳しく書きました。

義弘は、島津氏の古い居城跡だった東福寺城と清水城の活用を考えていたようです。
山城である東福寺城を詰の城とし、清水城に居館を建てて、さらに外郭を拡大すれば、体裁をととのえられると考えていたようです。
これは、海からの攻撃を防ぐには絶好の立地です。東福寺城址は現在、東郷平八郎の銅像が立っている多賀山にあり、海からの攻撃に対して、本城の清水城を守る大きな楯になります。清水城は東福寺城の内懐に抱かれる形になるからです。

もっとも、城下町の発展性という点から見れば、義弘の案は不十分かもしれません。義弘はいわゆる「上町」(かんまち)に城下町を展開させようとしたようですが、多くの家臣団の屋敷を割り当てるには地理的な空間が少ないように思います。展開するとすれば南方ですが、そうなると、居城が北に偏する形になり、城下町としてのバランスが悪いですね。

まあ、平時なら家久の、戦時なら義弘の構想がそれぞれ妥当だったといえましょうか。

今回のテーマは3回で終わらせるつもりでした。
あと1回は幕末に鶴丸城の国分移転問題が出てくるのと薩英戦争での被害で締めるつもりだったのですが、元禄の大火とか、明治7年の放火、あるいは私学校本部の設営なども書いてみたくなりました。あと3回は書けそうです。

でも、上・中・下というくくりでは対応できません。事前の見通しが甘かったですね(苦笑)。「続・鶴丸城物語」にしようかとか、悩んでいるところです。

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【2008/10/04 11:27】 | さつま人国誌
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