NHK大河ドラマ「篤姫」第41回大河ドラマ「薩長同盟」
ドラマ進行時点は、慶応元年(1865)秋から翌2年正月まで。
いよいよ薩長同盟まで来ましたね。
「女のドラマ」のせいか、重要事件を端折りに端折りまくっているので、篤姫ならずとも、唐突すぎる展開ばかりでした。
写真の件、前回から気になっていたのですが、どうなんでしょうね?
和宮単独の写真は残っています。
また、和宮の墓所を発掘したら、写真が出てきたそうですから、これは家茂の写真でもおかしくないですが。
いずれにしろ、一人で写した写真じゃないかという気がしますが、よくわかりません。
薩長同盟に関しては、通説をなぞった形でした。
西郷と木戸の両雄がにらみ合ったまま、物別れに終わりそうになるところに龍馬が登場して、西郷に妥協させるという設定。
ただ、最近では、長州征伐の勅許が下りるかどうか、下りたとしてどんな内容かを両者が注視していて、その結果が判明しないことには話し合いに入れなかったというのが実情のようですが。
あと、薩長同盟締結日がいつかというのも、ほんとは重要問題でして。
最後の「篤姫紀行」では、慶応2年(1866)正月21日とナレーションしていました。
私もさほど異議はありません。
ただ、そうなると、出席者が微妙になります。
龍馬は20日まで熱を出して寝込んでいたので、小松邸に来られたのは21日。
一方、21日には、大久保一蔵が奈良原繁・黒田清綱・同了介らとともに帰国しています。だから、締結の場に大久保は不在だったという説もあります。
その典拠は薩摩藩家老の桂久武の日記ですが、それだと、同日、大久保などの帰国を見送ったと書かれていますが、それがいつだったのか?
桂は藩邸に出勤せずに、あとから大久保たちを見送っています。
桂が藩邸に出勤するのはほぼ決まっていて、四つ頃(午前10時頃)です。
となると、改めて宿所を出て見送ったのは午後からということになりそうです。
つまり、同日午前中、薩長同盟が締結されていたら、大久保が同席してもおかしくないことになります。よって、大久保は締結を見定めてから、帰国の途についたという解釈も可能です。
なお、薩長同盟のとき、木戸のことを桂小五郎と表記するのをよく見かけますが、厳密にいえば、間違いです。正確には、木戸貫治とすべきでしょう。
ドラマでは「木戸孝允(桂小五郎)」となっていたような。
これは、当時は桂小五郎だったけど、あとで木戸孝允になったというニュアンスに解せられますが、さて……。
長崎のグラバー邸で、小松がグラバーに片言の英語を使っていましたが、さて、小松が英語を習っていたかどうか、それを証明する確たる史料はないと思います。
ただ、薩摩藩営の洋学校である開成所を、小松や大久保が中心になって設立したのが薩長同盟の1年半前の元治元年(1864)6月です。
開成所では、英語教育が熱心に行われ、前島密らが教鞭をとっています。ここの成績優秀者が英国留学生に選ばれていますから、そうした環境にいた小松も簡単な単語くらいは知っていたかもしれませんが。
個人的には、最後の「篤姫紀行」に出てきた小松帯刀寓居跡参考地の石碑が登場したのがうれしかったです。何せ、今年の7月に建碑されたばかり。
次回は早くも将軍家茂の死去ですね。
秋の深まりとともに、ドラマもいよいよ終盤です。
よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング