歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第42回「息子の死」

ドラマ進行時点は、慶応2年(1866)正月下旬から7月にかけて。

寺田屋事件で負傷した坂本龍馬が無事に二本松の薩摩藩邸に避難したところから始まりました。
ここは、お龍の回顧談である「千里駒後日譚」のエピソードがあまり活かされておらず、残念でした。
この回顧談は明治32年(1899)に新聞発表されたもので、龍馬の死から30年以上たっていますから、多少不正確なところはありますが、何といっても当事者の記録なので、信憑性は高いと思っています。

そのなかで、伏見の薩摩藩邸から二本松の藩邸に移るとき、薩摩藩は負傷した龍馬を駕籠に乗せ、一小隊で護衛しましたが、お龍も男装して駕籠のそばを歩いています。男装したお龍など、けっこう絵になる場面ではないかと思いましたが、省略されました。

また、途中で小松帯刀が馬で駆けつけて、お龍をいたわるシーンがあります。

「小松さんは遥るばる(はるばる)馬に騎って迎へに来て、お龍さん足が傷む(いたむ)だらうと私の鞋(わらじ)を解いて石でたゝひて呉れました」

この一節も、小松のやさしさを示しておりましたが、省略でしたね。
龍馬とお龍を最初に迎えたのは、西郷・大久保ではなく、小松だったはずですが、ドラマでは逆でした。

それと、龍馬は左腕に包帯をしていましたが、負傷の程度は軽そうに見えました。でも、かなりの重傷だったと思います。
医者らしき人はいませんでしたが、お龍は医者の娘ですから、代わりに手当てしているような感じでしたね。
ただ、このとき、薩摩藩はちゃんと医者の手配をしています。『桂久武日記』正月24日条によれば、木原盛雲という医者を二本松から伏見に派遣しています。これは襲撃直後のことですね。

その後、龍馬とお龍は小松らと同行して、船で薩摩に向かいます。
霧島温泉で龍馬夫妻が療養したことは、あまりにも有名ですが、霧島温泉といっても、いくつかの温泉に分かれており、龍馬夫妻が滞在したのは塩浸温泉、小松が滞在したのは栄之尾温泉で、場所が違います。

『坂元龍馬手帳摘要』によれば、龍馬夫妻が塩浸温泉に着いたのは3月17日。
一方、『小松帯刀日記』3月28日条によれば、「吉井幸輔・坂元龍馬、塩浸より見舞として入来の事」とあり、栄之尾温泉に滞在する小松を龍馬と吉井幸輔が訪れています。ドラマでは吉井は出ませんでしたが、この日のこととして、ドラマは描いたのでしょう。
そして翌29日に龍馬夫妻は高千穂峰登山をしています。霧島神宮に参拝したのは、おそらく28日か29日だと思います。

塩浸



霧島塩浸温泉の龍馬・お龍の新婚旅行銅像


なお、小松が療養した栄之尾温泉は、最近、小松とお近の新婚旅行として話題になった温泉でもあります。小松はこの温泉を好んだようですね。この新聞記事によれば、小松とお近の新婚旅行のほうが10年早いとのことですが、さて、どうでしょうか?
この件については、かつてこのブログでも触れたことがあります。ここです。よかったら、ご参照下さい。

あと、小松がお琴とのことをお近に話して、お灸をすえられておりました。
次回には、さらにお琴との間に子どもまでできる騒ぎになるようで(笑)。
それで、その子どもの生年月日ですけれど、多少異説があります。
ドラマによれば、慶応2年3月段階ではまだ子どもがいませんでした。
生まれた子どもは長男の安千代(のち清直)でしょう。
『昭和新修華族家系大成』所収の小松家系図によれば、安千代の生年は慶応2年9月となっています(日にちの記載なし)。ドラマでは、こちらの説を採用していますね。

一方、市来四郎が著した『石室秘稿』所収の「小松帯刀系図」によれば、安千代の生年月日は「慶応元年乙丑八月十八日」と書かれています。
この説に従えば、安千代はとっくに生まれていたことになります。

どちらの説が正しいのか、にわかに判断できませんが、個人的には後者かもしれないと思っています。
というのは、小松が近衛家御花畑の別邸に移ったのはいつで、その契機は何だったのかという点と関わっています。小松が元治元年(1864)7月まで、二本松藩邸の長屋に住んでいたことは確認できますので、御花畑に移ったのはそれ以降ということになります。
安千代の出生が翌慶応元年8月だとすれば、小松が御花畑に移ったのは、お琴と一緒に住むこと、そしてお琴の妊娠がきっかけだったのではないかという推定も成り立つかもと思っているところです。

さて、大久保一蔵の痛快な逸話が紹介されていました。
すなわち、大久保が大坂城に出頭して、一橋慶喜から長州征伐への従軍を命じられたとき、耳が遠いふりをして、「長州征伐」を「朝廷征伐」と聞き違えるという寸法です。
でも、これって、少し逸話の筋が違っているんじゃないかという気がします。私が記憶していたのは、次のような逸話でした。

たとえば、かなり信用できる勝田孫弥『甲東逸話』によれば、このとき、大久保と対面したのは慶喜ではなく、老中の板倉勝静です。

「板倉が云ふには従来、島津家と、将軍家とは浅からざる縁故がある。この際、他の諸藩に率先して、速に出兵せよとの命令を下したのである。
 そこで、甲東(大久保)は、耳が遠いからというて、殊更に顔色を変へ、「幕府は果して、長州と同じく我藩をも討たんとするのであるか」と。板倉は愕いて云ふには、「甚しいかな、我言を誤解するや、膝を進めて能く聞け」と声を高めて前言を繰り返したのであった」


云々とあり、その後、大久保が長州征伐を幕府と長州の「私闘」であると反論して、出兵を拒否したという流れです。

また田中惣五郎『大久保利通』によれば、大久保が耳疾だというので、大久保を近くに寄らせて、長州再征を命じたところ、

「大久保はわざと驚いた真似をして、『さても奇怪な仰せを承るものかな。弊藩何の罪あって追討せらるゝか。さりながら弊藩に罪ありとせば、速かに師を発せられよ。弊藩また弊を整へ備を修めて、大旆をお迎へ申さう』」

と答えました。あとは勝田著とほぼ同様の展開です。

本来は大久保が「長州藩」と「薩摩藩」を勘違いしたふりをしたという逸話ですが、それでは、駄ジャレにならないので、「長州征伐」と「朝廷征伐」ならわかりやすいということでしょう。
しかし、「朝廷征伐」とは、尊王思想が定着していた当時の誰も発想するとは思えず、「非義の勅命は勅命に非ず」と豪語した大久保でさえも思いつかないことで、非常識すぎますね。駄ジャレネタとしては不適当ではありますまいか。
また、人物も板倉では格好がつかなかったので、かなりデフォルメして慶喜に差し替えたのでしょうか? あるいはドラマのような逸話が別にあるのでしょうか? もしご存じならご教示下さい。

そして、いよいよ将軍家茂が大坂城で他界しました。
死因は脚気衝心です。脚気はビタミンB1の不足から発症しますが、重態になると、心機能の低下をもたらし、心不全の症状が出ます。家茂も心臓を押さえていましたね。

また家茂が和宮のために、西陣織のお土産を買っていたのも史実です。
結局、このお土産は家茂の遺骸とともに届きました。そのとき、傷心の和宮が謳った和歌が、

「空蝉の唐織ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」

唐織ごろも」が西陣織のことですね。
この西陣織は徳川宗家に現存しているようで、いつぞや東京国立博物館の展示で拝観しました。

ドラマでは、家茂の臨終を勝安房守が看取っていましたが、これは脚色ですね。
家茂の死去は7月20日でしたが、しばらく秘匿され、28日頃に公表されたようです。
『勝海舟日記』によれば、勝は20日当日、大坂城に登城しています。そして日記に「君上御重事、殿中謹然、敢て議なし」と記しています。勝はすでに当日、家茂の死を知っていたようです。

城中が悲嘆に暮れるなか、勝は死去当日に建白書を提出しています。その趣旨は、慶喜にすべてを任せて「天下之変動」を見るべきだ、小倉表に停泊している幕府軍艦をさっそく大坂に上らせ、家茂の遺骸を速やかに江戸へ運ぶべきだ、間違っても陸路で運んではならない、そうしたら「天下の人心、当節薄氷を踏み候折柄、如何様の混乱相促し申すべき哉も計り難し」という理由からでした。

勝はのちに家茂と慶喜をくらべて、家茂のほうが立派だったという感想をもらしていたと思いますが、出典を忘れました(苦笑)。

ところで、ドラマでは、大奥の篤姫と和宮が家茂のために漢方医を大坂に送ろうとしていました。
これはほぼ史実だろうと思います。
家茂の伝記「昭徳院殿御在坂日次記」7月16日条には、

「十六日 天璋院様・和宮様より奥医師を登らしめ給い、頃日の労を慰めらる」とあります。
奥医師3人が11日に横浜から英国船に乗り込んで発航し、16日に大坂天保山に着いています。その日のうちに登城していますから、一応、篤姫と和宮の思いは臨終間際の家茂に届いたことになります。

おそらくその奥医師たちが篤姫と和宮の手紙を運んだのではないでしょうか。
勝が家茂死去から4日後の7月24日、和宮の書簡を見た同僚から話を聞いたと書いています。

「和宮御見実に驚くべし、大君えの御書中、御仁徳を以て万民御撫育在るこそ御職掌の御当然云々の御事ありと云う、是窃かに某に聞ける所、更に虚言にあらず、某感涙して少臣に密話す」

和宮の家茂宛て書簡に、幕臣たちが涙したということらしいです。

次回は、小松に子どもができたり、孝明天皇が他界したりと、これまた波瀾万丈ですね。

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【2008/10/19 22:53】 | 篤姫
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よこよこ
桐野さま、こんばんは。

本日も、またまた一気に物語が進んでおりましたね。
大奥がメインなので仕方が無い所でしょうが、今までがとてもスローペースでしたので、今月に入ってからのスパートにはちょっとついて行けておりません。

でも、こちらへ来ていろいろと補足をして頂いているので、少しばかりは理解が出来ていると、自分では思っております。
歴史上有名どころの出来事は、なんとかわかっているつもりですが、事、大奥や薩摩方の事柄はとんとわかりません。

それにしても、伺えば伺うほど小松帯刀に魅力を感じてまいります。
どうして、今まで取り上げられなかったのか、本当に不思議でなりません。。。

いよいよ、私も今週は薩摩入りします。
桐野さまにお会いできるといいのですが・・・


では、22日に
桐野作人
よこよこさん、こんばんは。

たしかにここ数回、進行がものすごく速いですね。
そんなことなら、前半をもう少しスピーディにすればよかったのにと思いますが。
もっとも、このドラマは幕末史をきちんと伝えることを意図したドラマではないと思いますので、致し方ないかもしれません。

22日の鹿児島での講演、開演に間に合えばいいですね。終わったら、声をかけて下さいませ。



シラオ
桐野さん
お世話になります。
前出の方同様、小松の人となりが判る程に私の周りでも小松人気はうなぎのぼりです^^。
我が家の愚妻までも小松に見とれており、いとおかし^^です。。これはやはり役者の妙もあるのでしょうか?
これまでスポットが当らなかった訳と、実際の功績を判り易く教えて頂けるこのブログが毎回楽しみです。
しかも、世の女性方にとどめを刺すのが、22日の先生の鹿児島講演「小松帯刀と坂本龍馬」でしょう!
楽しみに、こちらも万全の準備のもとお待ちしております。
前夜祭(!?)の薩摩の会も楽しみです^^
宜しくお願い致します。

タイミングよく
桐野作人
シラオさん、こんにちは。

奥様まで小松のファンですか。
瑛太のファンなのかもしれませんが。

偶然とはいえ、大河ドラマでもちょうど小松と龍馬の仲がクローズアップされてきたので、グッドタイミングでしたね。
盛会になることを期待しています。


西陣織
御座候
家茂のお土産である西陣織を袈裟に仕立てた「空蝉の袈裟」は増上寺にあるんじゃなかったでしたっけ?

とりあえず「大徳川展」の図録では「増上寺蔵」となっているようです。
http://matiere.at.webry.info/200711/article_20.html


まあ増上寺は徳川家の菩提寺ですから、徳川宗家が持っているようなものと言えるかもしれませんが・・・

家茂の棺の謎
さき
こんばんは。

家茂の棺の中身には色々と謎が多いですね。

庭田嗣子が記した『昭徳院御凶事留』には、家茂の訃報が届いた翌日に、実成院が大坂へ臍の緒を送るから和宮の髪も棺に入れたいと言うので、髪先を切って渡したとあるのに、
家茂の棺には、臍の緒は入っておらず、入っていた髪も和宮のものではないというのは不思議です。

この髪を側室のものとする見方もありますが、その場合は次のようなことが起こったとも想像できます。
・実成院は臍の緒と和宮の髪を一つの箱に入れて大坂へ送った。
・家茂につき従っていた奥女中達が、この箱を受け取った。
・和宮を嫌っていた奥女中達は、臍の緒が一緒に入っていることに気づかないまま、箱ごと和宮 の髪を処分した。
・側室の髪を江戸から送られてきた和宮の髪と偽って、表の役人に渡した。

臍の緒と和宮の髪が、何らかの事故で失われたとしても、お手つき程度の奥女中は、個室すらもらえないような低い身分であり、将軍の棺に子供を産んでもいない側室の髪を、わざわざ入れたりするものでしょうか?

また、この髪を実成院のものとすると、何らかの理由で一緒に送った臍の緒と和宮の髪は失われ、実成院の髪だけが無事だったことになります。

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この記事へのコメント
桐野さま、こんばんは。

本日も、またまた一気に物語が進んでおりましたね。
大奥がメインなので仕方が無い所でしょうが、今までがとてもスローペースでしたので、今月に入ってからのスパートにはちょっとついて行けておりません。

でも、こちらへ来ていろいろと補足をして頂いているので、少しばかりは理解が出来ていると、自分では思っております。
歴史上有名どころの出来事は、なんとかわかっているつもりですが、事、大奥や薩摩方の事柄はとんとわかりません。

それにしても、伺えば伺うほど小松帯刀に魅力を感じてまいります。
どうして、今まで取り上げられなかったのか、本当に不思議でなりません。。。

いよいよ、私も今週は薩摩入りします。
桐野さまにお会いできるといいのですが・・・
2008/10/19(Sun) 23:31 | URL  | よこよこ #InlOuoXs[ 編集]
では、22日に
よこよこさん、こんばんは。

たしかにここ数回、進行がものすごく速いですね。
そんなことなら、前半をもう少しスピーディにすればよかったのにと思いますが。
もっとも、このドラマは幕末史をきちんと伝えることを意図したドラマではないと思いますので、致し方ないかもしれません。

22日の鹿児島での講演、開演に間に合えばいいですね。終わったら、声をかけて下さいませ。
2008/10/20(Mon) 00:44 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
桐野さん
お世話になります。
前出の方同様、小松の人となりが判る程に私の周りでも小松人気はうなぎのぼりです^^。
我が家の愚妻までも小松に見とれており、いとおかし^^です。。これはやはり役者の妙もあるのでしょうか?
これまでスポットが当らなかった訳と、実際の功績を判り易く教えて頂けるこのブログが毎回楽しみです。
しかも、世の女性方にとどめを刺すのが、22日の先生の鹿児島講演「小松帯刀と坂本龍馬」でしょう!
楽しみに、こちらも万全の準備のもとお待ちしております。
前夜祭(!?)の薩摩の会も楽しみです^^
宜しくお願い致します。
2008/10/20(Mon) 09:23 | URL  | シラオ #-[ 編集]
タイミングよく
シラオさん、こんにちは。

奥様まで小松のファンですか。
瑛太のファンなのかもしれませんが。

偶然とはいえ、大河ドラマでもちょうど小松と龍馬の仲がクローズアップされてきたので、グッドタイミングでしたね。
盛会になることを期待しています。
2008/10/20(Mon) 19:09 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
西陣織
家茂のお土産である西陣織を袈裟に仕立てた「空蝉の袈裟」は増上寺にあるんじゃなかったでしたっけ?

とりあえず「大徳川展」の図録では「増上寺蔵」となっているようです。
http://matiere.at.webry.info/200711/article_20.html


まあ増上寺は徳川家の菩提寺ですから、徳川宗家が持っているようなものと言えるかもしれませんが・・・
2008/10/21(Tue) 19:32 | URL  | 御座候 #kz2iIBPw[ 編集]
家茂の棺の謎
こんばんは。

家茂の棺の中身には色々と謎が多いですね。

庭田嗣子が記した『昭徳院御凶事留』には、家茂の訃報が届いた翌日に、実成院が大坂へ臍の緒を送るから和宮の髪も棺に入れたいと言うので、髪先を切って渡したとあるのに、
家茂の棺には、臍の緒は入っておらず、入っていた髪も和宮のものではないというのは不思議です。

この髪を側室のものとする見方もありますが、その場合は次のようなことが起こったとも想像できます。
・実成院は臍の緒と和宮の髪を一つの箱に入れて大坂へ送った。
・家茂につき従っていた奥女中達が、この箱を受け取った。
・和宮を嫌っていた奥女中達は、臍の緒が一緒に入っていることに気づかないまま、箱ごと和宮 の髪を処分した。
・側室の髪を江戸から送られてきた和宮の髪と偽って、表の役人に渡した。

臍の緒と和宮の髪が、何らかの事故で失われたとしても、お手つき程度の奥女中は、個室すらもらえないような低い身分であり、将軍の棺に子供を産んでもいない側室の髪を、わざわざ入れたりするものでしょうか?

また、この髪を実成院のものとすると、何らかの理由で一緒に送った臍の緒と和宮の髪は失われ、実成院の髪だけが無事だったことになります。
2008/10/29(Wed) 02:11 | URL  | さき #-[ 編集]
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 ここにきて駆け足で進むドラマです。ホームドラマもここまで徹底し、歴史的な事件を...
2008/10/20(Mon) 01:26:06 |  旅じゃ.com
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