歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第81回
―最大の試練、薩英戦争―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回に引きつづいて、幕末の鶴丸城について書きました。
鶴丸城にとっては、築城以来、260年目にして訪れた最大の危機が薩英戦争でした。

何せ、戦国時代、敵の軍船から放った矢が届いたほど海岸に近い立地です。
江戸時代、名山堀を普請するなど埋め立て工事によって海岸線はだいぶ後退しましたが、それでも、イギリス艦隊のアームストロング砲を前にすれば、その脆弱さは弓矢の比でないことは明らかです。

案の定、開戦を決定すると同時に、国父久光と藩主茂久は郊外の千眼寺に本陣を置くという名目で避難しました。戦国時代なら、考えられない体たらくですが、世はすでに近世城郭の時代ではなかったので、非難されたわけではありません。

なお、鹿児島市常盤町にあった千眼寺は廃仏毀釈によって廃寺となり、現在は石碑と案内板が残るだけです。往時は黄檗宗の大寺院でしたが、それを偲ぶよすがさえありません。
前から行きたいと思いつつ行けずにおりましたが、畏友のMさんが写真を提供してくれました。感謝。

今回の注目は、下津畑の土塁です。
この土塁は城下の中心部を守る楯の役割を果たしました。戦争終了後、この土塁にはイギリス艦隊が放った砲弾が多数突き刺さっていたということです。城下の中心部があまり被害を受けなかったのは、この土塁の存在が大きかったようです。

ちなみに、この土塁は島津斉彬が築いたものです。私も名前だけは知っていましたが、改めて安政年間の地図を見てみると、弁天波戸の台場の背後にいくつかの虎口を設けた長い土塁がちゃんと描かれているのを見つけました。地図にはっきりと載るほど巨大な施設だったことがわかります。

下津畑の土塁は現在の鹿児島市名山町あたりにあったはずですが、通行の邪魔になるということで、ほとんど掘り崩されたと言わされています。名山町には江戸時代の名山堀もありましたが、これもほとんど埋め立てられていますね。
せめて、自治体が該当する場所に石碑でも建立してくれたらと思います。

下津畑の土塁の場所はちゃんと探査したことがありません。もしかしたら、かすかな痕跡が残っているかも知れませんから、一度、探訪してみたいと思っています。

次回は、小松帯刀や大久保一蔵が、薩英戦争後に国分への城地移転を検討したことを書きたいと思っています。

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【2008/10/25 11:58】 | さつま人国誌
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岩剣石塁
下津畑の土塁、初めて知りました。
海岸通りの通勤路から見る限りでは、跡形も残っていません。


中村武生
興味ぶかいおはなしをうかがいました。もちろん「土塁」です。長州毛利の萩の海岸線も「菊が浜土塁(女台場)」が残りますから、鹿児島にもあったかと思いまして。桐野先生と土塁のはなしでも盛り上がれるかと、まだまだ楽しい思いです。

薩摩焼には 宗家があるのでしょうか? エントリー違いですが 
ポチ・たま
初めて お便りします。

先日10月20日 月 NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」 で鹿児島 美山の沈寿官さんが紹介され ちょっと興味を持って 薩摩焼について 調べてみました。沈さんの表札に 「 薩摩焼 宗家 」とあったからです。有田焼や伊万里焼に 於ける 柿右衛門・今右衛門のような 位置を占める方なのだナ・・・凄いなと単純に 思って 薩摩焼き 沈寿官 etc 様々のキーワードで ググって調べてみたら 確かに沈寿官窯 そのもののページや沈窯を訪れた人の旅行ブログでは 宗家らしく書かれていましたが 同業の他の薩摩焼の窯のページや 薩摩焼そのものの歴史についてのページ、美術館などの薩摩焼の歴史紹介などのページでは 沈寿官窯については 殆ど触れられていない事に気付いたのです。

もしかしたら 「 宗家 」うんぬんは 沈寿官が 自称しているだけで 他の窯や公式には全然 認められてはいないのではないか・・・と思えてきました。

沈寿官さんが 有名になっていったキッカケは 司馬遼太郎の「 故郷忘じがたく候 」という本に紹介されたのが端緒と聞いていますが 司馬は薩摩焼窯元を全部 取材した訳ではなく 限りなく 沈窯だけの取材に元ずいて この本を書いたのでは?とも思えてきました。 藩の御用で薩摩焼は焼かれていたにしても 共同作業での中では 特に 傑出した一人物の存在は 薩摩焼にはなかったのでは と思えるのです。だとしたら 宗家自称・詐称について 他の薩摩焼窯元は 如何思っているのでしょうか。沈寿官の名声によって 薩摩焼が広く知られてきた事実は黙認せざるを得ないので 表だっての反論はせずとも 黙殺・無視しているのが 各ホームページにおいて 一切 沈寿官の名が出てこない理由のように思えます。

「 故郷忘じがたく候 」はスバラシイ内容らしく 感激した中学教師が 授業で使って生徒に感想文を書かしたり、読んで感銘を受けた人達が 沈窯だけを目指して 美山を訪れているようです。

もし 私の抱いた 宗家疑惑が 少しでも事実に近いものなら 10月27日 月曜にも また 鶴瓶の 鹿児島編続編で 誤った認識が 日本中に広められる事になってしまいます。管理人さんは 島津氏・薩摩藩の歴史について 詳しい方らしいので ぜひ 調べてみてください。

何か痕跡が
桐野作人
岩剣石塁さん、こんばんは。

やはり残っていませんか。

下津畑の土塁はかなり長いですから、どこかに崩されていない場所が残っているのではないかとも思っているのですが……。

土塁
桐野作人
中村武生さん、こんばんは。

長州萩の「菊が浜土塁(女台場)」は、私も以前観たことがあります。たしか女性たちが普請したから、そんな名前が付いているんでしたよね?

薩摩も長州も、ともに外国船に備えた、一種の攘夷戦の備えとしての土塁だったのでしょうか?

申しわけありません
桐野作人
ポチ・たまさん、こんばんは。

薩摩焼については、私はまったくの不勉強で、ご指摘の点については、お答えしようがありません。
悪しからずご了承下さい。

今後、機会がありましたら、一度調べてみたいと思います。

長州萩・菊ヶ浜土塁
中村武生
 御返事ありがとうございます。菊ヶ浜土塁も攘夷戦から萩を守るためのもののようです。
 ただ女性だけで構築できるわけもなく、普段出てこない女性も手伝ったところからデフォルメされて伝えられた由です。
 菊ヶ浜土塁について、読みやすくまとめてあるのは、『萩市史』一巻(1983年)所収の「菊ヶ浜土塁の築造」(広田暢久・三宅紹宣、929-941ページ)かと存じます。
 すこし古い文献ですが、史料や絵図を引用しているので使用に足るかと存じます。
 ご参考まで。
 

有難うございます
桐野作人
中村武生さん、こんばんは。

関連史料の紹介、有難うございます。

鹿児島の下津畑の土塁ですが、弁天波戸の背後にあることが少し引っかかっています。
おそらく、外国船と戦闘になった場合、弁天波戸の台場は集中砲火を浴びる可能性が高く、そのとき、台場の上や横を飛ぶ敵の砲弾が背後の城下に着弾して被害を与えます。
それを防ぐために、この土塁を築いたのではないかと思っています。

となると、台場とその背後の土塁というのはセットになっているかもしれず、ほかの台場も土塁を伴っていないか検討する必要があるかも知れません。

台場と土塁
中村武生
 台場と土塁がセットだといわれるのは、まったく同感です。

 最近、京都防衛のための河内・樟葉台場跡が調査されたり、淀川対岸にあった摂津高槻の梶原台場との研究が進んだりと、近畿地方の城郭史研究では幕末の防衛への関心が高まっていると感じております。

たとえば
 中西裕樹氏「梶原台場の復元と幕末の築城―楠葉台場との比較を通じて」  
 馬部隆弘氏「京都守護職会津藩の京都防衛構想とその実現過程―河内国交野郡楠葉村における台場修築の事例から」
  (ともに『城館史料学』6号、2008年7月)
 
 それゆえに下津畑の土塁が気になった次第です。

 土塁は意外と基底部が残りやすいと思っています。
 現地にたったことがないのに失礼ですが、丹念に歩かれれば残っていることに気づく場合があるかもと存じました。

ご教示感謝
桐野作人
中村武生さん、こんばんは。

関連史料のご教示有難うございます。助かります。
ただ、「城館史料学」って、どこで刊行している雑誌でしょうか? 国会図書館の雑誌データベースではヒットしなかったものですから。



城館史料学
中村武生
六一書房という出版社です。
http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=127&agent=11&partner=nifty&name=%A5%B0%A1%BC%A5%B0%A5%EB&lang=euc&prop=500&bypass=2&dispconfig=
を、ご覧ください。


中村武生
まちがえました。すいません。こちらです。
http://www.book61.co.jp/book_html/N02818/

感謝
桐野作人
中村武生さん、こんばんは。

さっそくのご教示有難うございました。


管理人のみ閲覧できます
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コメント
この記事へのコメント
下津畑の土塁、初めて知りました。
海岸通りの通勤路から見る限りでは、跡形も残っていません。
2008/10/25(Sat) 22:25 | URL  | 岩剣石塁 #-[ 編集]
興味ぶかいおはなしをうかがいました。もちろん「土塁」です。長州毛利の萩の海岸線も「菊が浜土塁(女台場)」が残りますから、鹿児島にもあったかと思いまして。桐野先生と土塁のはなしでも盛り上がれるかと、まだまだ楽しい思いです。
2008/10/26(Sun) 07:13 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
薩摩焼には 宗家があるのでしょうか? エントリー違いですが 
初めて お便りします。

先日10月20日 月 NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」 で鹿児島 美山の沈寿官さんが紹介され ちょっと興味を持って 薩摩焼について 調べてみました。沈さんの表札に 「 薩摩焼 宗家 」とあったからです。有田焼や伊万里焼に 於ける 柿右衛門・今右衛門のような 位置を占める方なのだナ・・・凄いなと単純に 思って 薩摩焼き 沈寿官 etc 様々のキーワードで ググって調べてみたら 確かに沈寿官窯 そのもののページや沈窯を訪れた人の旅行ブログでは 宗家らしく書かれていましたが 同業の他の薩摩焼の窯のページや 薩摩焼そのものの歴史についてのページ、美術館などの薩摩焼の歴史紹介などのページでは 沈寿官窯については 殆ど触れられていない事に気付いたのです。

もしかしたら 「 宗家 」うんぬんは 沈寿官が 自称しているだけで 他の窯や公式には全然 認められてはいないのではないか・・・と思えてきました。

沈寿官さんが 有名になっていったキッカケは 司馬遼太郎の「 故郷忘じがたく候 」という本に紹介されたのが端緒と聞いていますが 司馬は薩摩焼窯元を全部 取材した訳ではなく 限りなく 沈窯だけの取材に元ずいて この本を書いたのでは?とも思えてきました。 藩の御用で薩摩焼は焼かれていたにしても 共同作業での中では 特に 傑出した一人物の存在は 薩摩焼にはなかったのでは と思えるのです。だとしたら 宗家自称・詐称について 他の薩摩焼窯元は 如何思っているのでしょうか。沈寿官の名声によって 薩摩焼が広く知られてきた事実は黙認せざるを得ないので 表だっての反論はせずとも 黙殺・無視しているのが 各ホームページにおいて 一切 沈寿官の名が出てこない理由のように思えます。

「 故郷忘じがたく候 」はスバラシイ内容らしく 感激した中学教師が 授業で使って生徒に感想文を書かしたり、読んで感銘を受けた人達が 沈窯だけを目指して 美山を訪れているようです。

もし 私の抱いた 宗家疑惑が 少しでも事実に近いものなら 10月27日 月曜にも また 鶴瓶の 鹿児島編続編で 誤った認識が 日本中に広められる事になってしまいます。管理人さんは 島津氏・薩摩藩の歴史について 詳しい方らしいので ぜひ 調べてみてください。
2008/10/26(Sun) 09:50 | URL  | ポチ・たま #-[ 編集]
何か痕跡が
岩剣石塁さん、こんばんは。

やはり残っていませんか。

下津畑の土塁はかなり長いですから、どこかに崩されていない場所が残っているのではないかとも思っているのですが……。
2008/10/26(Sun) 23:16 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
土塁
中村武生さん、こんばんは。

長州萩の「菊が浜土塁(女台場)」は、私も以前観たことがあります。たしか女性たちが普請したから、そんな名前が付いているんでしたよね?

薩摩も長州も、ともに外国船に備えた、一種の攘夷戦の備えとしての土塁だったのでしょうか?
2008/10/26(Sun) 23:19 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
申しわけありません
ポチ・たまさん、こんばんは。

薩摩焼については、私はまったくの不勉強で、ご指摘の点については、お答えしようがありません。
悪しからずご了承下さい。

今後、機会がありましたら、一度調べてみたいと思います。
2008/10/26(Sun) 23:21 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
長州萩・菊ヶ浜土塁
 御返事ありがとうございます。菊ヶ浜土塁も攘夷戦から萩を守るためのもののようです。
 ただ女性だけで構築できるわけもなく、普段出てこない女性も手伝ったところからデフォルメされて伝えられた由です。
 菊ヶ浜土塁について、読みやすくまとめてあるのは、『萩市史』一巻(1983年)所収の「菊ヶ浜土塁の築造」(広田暢久・三宅紹宣、929-941ページ)かと存じます。
 すこし古い文献ですが、史料や絵図を引用しているので使用に足るかと存じます。
 ご参考まで。
 
2008/10/27(Mon) 16:48 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
有難うございます
中村武生さん、こんばんは。

関連史料の紹介、有難うございます。

鹿児島の下津畑の土塁ですが、弁天波戸の背後にあることが少し引っかかっています。
おそらく、外国船と戦闘になった場合、弁天波戸の台場は集中砲火を浴びる可能性が高く、そのとき、台場の上や横を飛ぶ敵の砲弾が背後の城下に着弾して被害を与えます。
それを防ぐために、この土塁を築いたのではないかと思っています。

となると、台場とその背後の土塁というのはセットになっているかもしれず、ほかの台場も土塁を伴っていないか検討する必要があるかも知れません。
2008/10/27(Mon) 20:30 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
台場と土塁
 台場と土塁がセットだといわれるのは、まったく同感です。

 最近、京都防衛のための河内・樟葉台場跡が調査されたり、淀川対岸にあった摂津高槻の梶原台場との研究が進んだりと、近畿地方の城郭史研究では幕末の防衛への関心が高まっていると感じております。

たとえば
 中西裕樹氏「梶原台場の復元と幕末の築城―楠葉台場との比較を通じて」  
 馬部隆弘氏「京都守護職会津藩の京都防衛構想とその実現過程―河内国交野郡楠葉村における台場修築の事例から」
  (ともに『城館史料学』6号、2008年7月)
 
 それゆえに下津畑の土塁が気になった次第です。

 土塁は意外と基底部が残りやすいと思っています。
 現地にたったことがないのに失礼ですが、丹念に歩かれれば残っていることに気づく場合があるかもと存じました。
2008/10/28(Tue) 10:00 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
ご教示感謝
中村武生さん、こんばんは。

関連史料のご教示有難うございます。助かります。
ただ、「城館史料学」って、どこで刊行している雑誌でしょうか? 国会図書館の雑誌データベースではヒットしなかったものですから。

2008/10/28(Tue) 23:50 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
城館史料学
2008/10/28(Tue) 23:57 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
まちがえました。すいません。こちらです。
http://www.book61.co.jp/book_html/N02818/
2008/10/28(Tue) 23:59 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
感謝
中村武生さん、こんばんは。

さっそくのご教示有難うございました。
2008/10/29(Wed) 00:26 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2008/11/09(Sun) 00:07 |   |  #[ 編集]
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