歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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古文書塾「てらこや」特別講座

表題のシリーズ、昨日が2回目でした。

今回は薩長同盟後の出来事、とくに坂本龍馬が襲撃された寺田屋事件から慶応2年(1866)前半の出来事を追いました。

寺田屋事件は、お龍の回想「千里駒後日譚」を読みました。口語なので、非常に分かりやすかったです。また事件から30年以上たっての回想なのに、お龍の記憶がほぼ正確なのを確認しました。

霧島温泉での龍馬夫妻と小松の交流と、同年6月、英国公使パークスの鹿児島表敬訪問の史料を読みました。
これはあまり知られていない出来事なので、ぜひ詳しくやりかったのです。
また、それに関連して、このとき、小松が撮影したと思われる写真や明治初年に撮影した写真の2点がともに総髪なのを確認。

とすれば、一番有名な刀をもっている写真は月代を剃っているので、現存する3点の小松写真のなかで、一番古いことになるのかといった話をしました。

次回は、慶応2年後半の出来事です。
長州再征のほか、将軍家茂や孝明天皇の死去が題材になるでしょうか。

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【2008/10/29 23:58】 | てらこや
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白峰駿馬の件
まいたけ
 寺田屋で襲われた後、伏見の薩摩屋敷から二本松の薩摩藩邸へ移動する際、男装をするお龍の帯がないため、白峰が「白縮緬の兵児帯へ血の一杯附いたのを持って来て、友達が切腹の折り結んで居たのだがマア我慢していきなさいと云ふ」というお龍の回顧談(『千里駒後日譚』)の記述についてですが、よくよく考えてみると、史実ではないかと思います。

 この時期、近藤長次郎切腹の訃報が、京都の龍馬にもたらされているようです。

『千里駒後日譚』に、ある日、伏見の寺田屋に大きな髷を結った男が、龍馬に手紙を持って来て、その手紙に、近藤長次郎が長崎で切腹したことが書かれています。

 この件について、『千里駒後日譚』を書いた川田雪山は、「陸奥が、近藤長次の長崎で切腹した知らせの手紙を伏見の寺田屋へ持て来たと書きましたが、コレは伏見薩摩屋敷の誤り」と、後に附記していました。
 伏見の薩摩屋敷に持ってきたということは、まだ二本松の藩邸に移る前ということなります。
 また、長次郎の訃報が届いた話は、お龍と陸奥との初対面の時の話が主でありますので、そのとき、同行者がいたことには触れてなくてもおかしくありません。
 
 白峰駿馬は、それ以前から、お龍たちとコスプレをして祇園で遊んでいますので、当然、寺田屋にも馴染みなのだと思います。
 陸奥が、龍馬を訪ねて寺田屋へ訪ねたとしても、お登勢は、伏見奉行所に襲われた後のことでもあり、これまで一面識もない陸奥に、龍馬が伏見の薩摩藩邸に潜んでいることを話すはずはありません。
 
 そうであるなら、近藤長次郎が切腹したことを知らせる使者は長次郎の兵児帯を持参した白峰駿馬であり、陸奥は単に白峰に同行しただけではないかと思います。

 薩長同盟に尽力した近藤長次郎が死んだことは、薩長同盟締結に支障をきたすことも考えられますから、一刻も早く、誤解を受けないよう京都に知らせる必要があったのかもしれません。

 白峰駿馬の墓石の裏面の履歴の揮毫は、陸奥宗光が外務大臣をしていたときの秘書官が書いており、晩年まで深く交流していたことがうかがえますが、慶応元年、この二人は、長崎の何礼之の塾で共に英語を学んでいましたから、当時から親しかったのかもしれません。
 


まいたけ
書き忘れていました(冷汗)

伏見の寺田屋に手紙を持ってきた大きな髷を結った男というのが陸奥宗光だと、お龍は語っています。

お龍の記憶違いではないと、改めて思いました。
これで、この時期の白峰の動向が判明したことになります、
講座を受講していてよかったです。

すばらしい
中村武生
まいたけさんの考察、感銘をうけました。
 『千里駒後日譚』などお龍の回想録の史料批判を進めているものとして、興味深く拝見しました。史料価値が高まったといえます。ありがとうございました。


まいたけ
 いえいえ、中村先生の龍馬講座で、そのノウハウを教えていただいたおかげです。ありがとうございました。

 

近藤長次郎
桐野作人
まいたけさん、中村武生さん

やはり近藤長次郎の兵児帯だったわけですね。
白峰駿馬と陸奥宗光がその使者となって上京してきたというのもよくわかりました。

有難うございます。

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この記事へのコメント
白峰駿馬の件
 寺田屋で襲われた後、伏見の薩摩屋敷から二本松の薩摩藩邸へ移動する際、男装をするお龍の帯がないため、白峰が「白縮緬の兵児帯へ血の一杯附いたのを持って来て、友達が切腹の折り結んで居たのだがマア我慢していきなさいと云ふ」というお龍の回顧談(『千里駒後日譚』)の記述についてですが、よくよく考えてみると、史実ではないかと思います。

 この時期、近藤長次郎切腹の訃報が、京都の龍馬にもたらされているようです。

『千里駒後日譚』に、ある日、伏見の寺田屋に大きな髷を結った男が、龍馬に手紙を持って来て、その手紙に、近藤長次郎が長崎で切腹したことが書かれています。

 この件について、『千里駒後日譚』を書いた川田雪山は、「陸奥が、近藤長次の長崎で切腹した知らせの手紙を伏見の寺田屋へ持て来たと書きましたが、コレは伏見薩摩屋敷の誤り」と、後に附記していました。
 伏見の薩摩屋敷に持ってきたということは、まだ二本松の藩邸に移る前ということなります。
 また、長次郎の訃報が届いた話は、お龍と陸奥との初対面の時の話が主でありますので、そのとき、同行者がいたことには触れてなくてもおかしくありません。
 
 白峰駿馬は、それ以前から、お龍たちとコスプレをして祇園で遊んでいますので、当然、寺田屋にも馴染みなのだと思います。
 陸奥が、龍馬を訪ねて寺田屋へ訪ねたとしても、お登勢は、伏見奉行所に襲われた後のことでもあり、これまで一面識もない陸奥に、龍馬が伏見の薩摩藩邸に潜んでいることを話すはずはありません。
 
 そうであるなら、近藤長次郎が切腹したことを知らせる使者は長次郎の兵児帯を持参した白峰駿馬であり、陸奥は単に白峰に同行しただけではないかと思います。

 薩長同盟に尽力した近藤長次郎が死んだことは、薩長同盟締結に支障をきたすことも考えられますから、一刻も早く、誤解を受けないよう京都に知らせる必要があったのかもしれません。

 白峰駿馬の墓石の裏面の履歴の揮毫は、陸奥宗光が外務大臣をしていたときの秘書官が書いており、晩年まで深く交流していたことがうかがえますが、慶応元年、この二人は、長崎の何礼之の塾で共に英語を学んでいましたから、当時から親しかったのかもしれません。
 
2008/10/31(Fri) 18:11 | URL  | まいたけ #-[ 編集]
書き忘れていました(冷汗)

伏見の寺田屋に手紙を持ってきた大きな髷を結った男というのが陸奥宗光だと、お龍は語っています。

お龍の記憶違いではないと、改めて思いました。
これで、この時期の白峰の動向が判明したことになります、
講座を受講していてよかったです。
2008/10/31(Fri) 18:22 | URL  | まいたけ #BKdQhP/Q[ 編集]
すばらしい
まいたけさんの考察、感銘をうけました。
 『千里駒後日譚』などお龍の回想録の史料批判を進めているものとして、興味深く拝見しました。史料価値が高まったといえます。ありがとうございました。
2008/10/31(Fri) 23:46 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
 いえいえ、中村先生の龍馬講座で、そのノウハウを教えていただいたおかげです。ありがとうございました。

 
2008/11/01(Sat) 03:05 | URL  | まいたけ #BKdQhP/Q[ 編集]
近藤長次郎
まいたけさん、中村武生さん

やはり近藤長次郎の兵児帯だったわけですね。
白峰駿馬と陸奥宗光がその使者となって上京してきたというのもよくわかりました。

有難うございます。
2008/11/01(Sat) 22:28 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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