歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第82回
―城地移転でくじ取りも―

連載が更新されました。
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今回は、薩摩藩が薩英戦争に備えて、事前に鶴丸城の移転をひそかに決定していたことを書きました。これはあまり知られていないと思います。
久光とその側近である小松帯刀・大久保一蔵・中山中左衛門あたりで協議されたものと思われます。

その一方で、市来四郎の『史談会速記録』での談話が面白いです。市来は『石室秘稿』や『自叙伝』など、幕末から明治にかけての島津家の動向を多数の記録に残しており、貴重な記録者、観察者です。
それによれば、生麦事件の責任を問う声が藩内で公然とあがり、小松・大久保・中山ら側近が批判されたというのです。生麦事件をめぐっての藩内の不協和音はほどんと表に出てきませんね。いかにも薩摩藩は挙藩一致でこの危機に臨んだように思われています。

もっとも、市来は明治以降、久光の側近になっていますので、明治政府の高官となった小松や大久保について、主人同様、やや批判的なスタンスなので、多少割り引いて考えたほうがいいかもしれませんが。

もうひとつ面白いのは、城地移転をめぐってくじ取りが行われたことを、これまた市来が証言していることです。
島津家では戦国時代によくくじ取りが行われました。そのことは当連載でもかつて書いたことがあります。こことかここです。
ふつうなら、幕末になってくじ取りで物事を決めるなんて、なんて時代遅れなとなりそうですが、こうした過去の事例をみれば、なるほどありえるなと思います。幕末でも薩摩藩ではくじ取りがあったことを明らかにした市来の証言は貴重だと思います。

なお、鶴丸城の国分移転については、実際に測量などが行われ、島津家の別邸である花倉や中村の茶屋を移築することまで決まっていたのに、結局、実現しませんでした。

それは藩内の反対があったのもさることながら、朝廷において攘夷決行日が5月10日と決定されたことが大きいのではないかと推定してみました。
4月4日の藩当局の通達はそれを受けてのもので、全面的な城地移転ではなく、島津家の女性たちだけ疎開させる花倉茶屋移築に計画が縮小されたのではないかと思われます。
薩英戦争前後、実際に女性たちが国分に移ったのかどうかまで確認できていませんが。

次回からは、明治の鶴丸城を書くか、別のテーマを探すか、迷っているところです。

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【2008/11/01 10:42】 | さつま人国誌
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