歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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山本勘助墓

(川中島古戦場に立つ山本勘助の墓)

前回の続きである。

『萩藩閥閲録遺漏』には、ほかにも山本勘助の登場する文書が管見のかぎり、1点存在する。紹介しよう(巻2の4、山縣平八家蔵文書9)

明後日川中嶋へ人数手立、山本勘介方馬場美濃、弥旗本へ召連候、御方事弐万之人数壱万引分相渡申候、銘々人数名字着到遣候、可覧仕可為尤候、馬場・山本御方宿所へ早々参之由被申候、各相談可仕候、恐々かしく、
  (永禄四年)
     九月八日                信玄(御判)
      山縣三郎兵衛との


何と、有名な第四次川中島合戦の関連文書である。両雄の決戦は九月十日だから、その二日前の文書である。
内容は「明後日、すなわち決戦当日の出陣について、山本勘介方の馬場信春を(が?)旗本へ召し連れる。山縣には全軍二万のうち一万を預ける。その着到状を遣わすので、ご覧になるのがよろしい。馬場と山本が山縣の宿所に早々参ると申されている。各々相談してほしい」というもの。

ちょっと意味不明な個所がある。馬場が山本勘助の配下にも見える、信玄が馬場と勘助に敬語を使っている、山県は決戦当日、信玄の旗本備えだったから、全軍の半分の一万を預けられるとは思えない、「恐々かしく」なる書止文言は不自然だ等々。

はっきり言って、この文書の年次が永禄四年(1561)であれば、偽文書である。なぜなら、この時期、山県昌景は旧姓の飯富を名乗っているからである。山県名字を名乗ったのは、武田義信逆心に伴い、兄飯富虎昌が処断された以降である。また馬場信春もこの頃はまだ馬場民部と名乗っている時期ではなかったか。

毛利家家臣の山縣平八なる人物はよく知らないが、どうも山県昌景の子孫か同族を由緒にしているのではなかろうか。だから、山県昌景が武田軍の半分を指揮する大将だという誇大宣伝を何げに挿入し、自家の格式や武功を誇っているのではないか。

この偽文書の典拠となったのは、おそらく『甲陽軍鑑』だろう。同書品第32の川中島合戦の記述に次のような一節がある。この辺を参考にしたのではないか。

(信玄が)山本勘介を召、馬場民部と両人談合にて、明日の合戦備を定よと被仰付」

同家文書1も川中島合戦関連の文書である。勘助は出てこないが、ついでに紹介しよう。

去ル十日、川中嶋輝虎退口之時、数百人之追討、乍早晩神妙之至、難述筆言感思召候也、
  永禄四年
   九月十三日           信玄 晴信(御判)
     山縣三郎兵へとのへ


これは第四次川中島合戦から三日後の日付で、信玄が山県昌景に与えた感状である。
そして、これも偽文書である。その理由は少なくとも二つはある。
①前にも書いたように、三郎兵衛昌景が当時まだ、山県名字を名乗っていないこと。
②上杉謙信を「輝虎」としているが、この年、謙信は上杉憲政から関東管領職を譲られて政虎と名乗ったばかりであり、まだ輝虎とは名乗っていないこと。
ちなみに『甲陽軍鑑』の川中島合戦の記事では、謙信のことを輝虎と書いていることが多い。それを参考にした形跡があるのではないか。

念のため、『戦国遺文 武田氏編』の永禄四年条を見てみたが、上の文書2点は当然ながら収録されていなかった。偽文書だと認定されたからだろう。

それにしても、甲信地方から遠く離れた防長の毛利家家臣の間で、江戸時代(おそらく後期であろう)、山本勘助との係累があることを訴えたり、果ては偽文書まで作成して家譜や由緒書を飾る傾向が強いことがわかる。これも山本勘助の知名度が高く、甲州流軍学のバイブルたる『甲陽軍鑑』の社会的影響力が相当大きかったことを示しているのかもしれない。

『萩藩閥閲録』に限らないが、江戸時代の家譜や由緒書の取り扱いには注意が必要だということである。
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【2007/01/03 00:27】 | 戦国織豊
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