NHK大河ドラマ「篤姫」第45回「母からの文」
ドラマ進行時点は慶応3年(1867)11月から12月
仕事のため外出していたので、午後8時からの放映は間に合わず、10時からのBS放送で観ました。
前々回、前回からのボタンのかけ違えがある以上、もはや修正不可能な筋立てになっていますね。
書いても詮なきことながら、それでも、いくつか指摘しておかねばなりますまい。
(1)小松と西郷・大久保の対立なるもの
小松は大政奉還により、平和的な国づくりを望んだが、西郷・大久保は強引に武力討幕を実現しようとしていたという、何ともわかりやすい二項対立の構図。
事がそんなに単純に割りきれるはずがありません。
改めて考えるまでもなく、それまで小松と西郷・大久保は三位一体でした。いざとなったら武力討幕をする覚悟だと長州の品川・山県に伝えるとき、その役目を果たしたのは小松であり、西郷・大久保もその場に同席していました。何より討幕の密勅の請書に署名したのは、小松・西郷・大久保です。
にもかかわらず、大したきっかけもないのに、なぜ小松と西郷・大久保が対立・分裂することになるのでしょうか? 疑問だらけですね。
王政復古に小松が参加できなかったのは事実ですが、「足痛」ゆえです。
「足痛」については、過去に少し詳しく書いています。こことかここをご覧下さい。
ドラマでは、大久保が小松の上京を制していました。西郷・大久保が討幕挙兵をやって失敗したとき、あとは小松に頼むという角度から描かれていたのは新味があったことは認めますが、このときの上京は、討幕挙兵の上京ではなく、近いうちに召集される新政体発足のための諸侯会議において、薩摩藩の発言力を強化するため、藩主茂久を擁した多人数での上京であり、名目は禁裏守護です。
慶喜が大政奉還をした以上、武力討幕ができる状況ではありません。
小松が後藤象二郎に「足痛」のため、上京できなくなったことを詫びた手紙がありますが、額面通りのもので、政治的背景があったとは思えません。
小松は大政奉還を実現することで王政復古の地均しをしました。
一方、西郷・大久保は王政復古政変で禁裏御所を占領し、幕府や関白など旧制度を廃止し、徳川慶喜の辞官納地を決定しました。
この両者の動きにさほどの矛盾や食い違いはありません。
小松の段階で、慶喜の政権返上による新政体樹立の前提ができ、西郷・大久保の段階で、旧制度の廃絶と総裁以下三職という新政体の枠組みが決まりました。それに伴い、新政体における主導権をめぐる闘争が表面化したのは事実ですが、あくまで慶喜が新政体に参画することを承認したうえでの内部論争であり、決して討幕ではありません。
「討幕」の定義については、いろいろな考え方があるのでしょうが、当事者である西郷が定義づけをしています。慶応3年8月、西郷が長州の柏村数馬(広沢真臣の兄)に語ったことが、柏村の手記に残されています。
それによれば、幕府屯所や京都守護職屯所の襲撃、大坂城攻撃、甲府城占拠という三都同時挙兵を計画していましたが、それでも、「討幕は仕らず」(討幕はしない)と明言しています。
西郷の考える「討幕」とは、将軍追討の勅命が出ることによる関東征服です。西郷は当面、それは無理だと判断していました。
王政復古政変は西郷の三都同時挙兵計画よりはるかに規模を縮小したもので、しかも、慶喜の政権返上という新たな条件も加わっており、西郷流「討幕」が不可能であることは明らかです。
別のいい方をすれば、慶応3年中の京都情勢では討幕はありえませんし、実際にありませんでした。
それが可能になるのは、江戸の薩摩藩邸焼き打ちをきっかけに、大坂の旧幕軍が率兵上京を起こしてからです。
明治以降の官製の維新史観はこの点を歪曲しており、討幕は王政復古から始まったとしています。つまり、大政奉還は不徹底で妥協的な改革であり、公議政体派を日和見的立場と見ています。
したがって、小松の仕事も同等に評価されているわけで、こうした官製史観による立場が小松と西郷・大久保の対立というフィクションを生み出す根源になっています。さらにいえば、小松が明治以降、忘れ去られていく最大の要因もここにあると思っています。
何度も繰り返しますが、大政奉還と王政復古は対立的なものではなく、連続的・発展的なプロセスです。これを対立的にとらえたのが官製の維新史観であり(討幕によって明治維新は成ったということを強調するためです)、今日の私たちはドラマも含めて、その刷り込みを強く受けているということです。
武力討幕という軍事力発動は後戻りできず、藩の存亡を賭ける重大事だけに、その切り札は最後の最後まで温存されました。西郷・大久保もその発動には慎重で、結局、旧幕軍から仕掛けられて、初めて発動したのです。つまり、西郷流「討幕」は慶応4年になってようやく始まったのです。
したがって、何度も書いたように、その点で、小松と西郷・大久保に違いはありません。
(2)西郷が江戸藩邸の浪士たちを煽動したとされる一件
これも近年は否定されていますね。大政奉還がなされたために、郷里に帰った西郷の代わりに、京都留守居の吉井幸輔が、江戸の益満休之助と伊牟田尚平に宛てて、江戸での軽挙妄動は慎むよう、再三にわたって勧告しています。
これは、近年に判明したことではなく、すでに徳冨蘇峰『近世日本国民史』でも書かれていますから、大正年間にはわかっていたことです。
また、江戸藩邸焼き討ちの報を聞いた西郷は、慶応4年(1868)正月1日、久光側近の蓑田伝兵衛に宛てた書簡で、次のように書いています。
「爰許(ここもと)にて壮士の者暴発致さぬようお達し御座候えども、いまだ訳も相分からず、いずれを正しかるべき筋もこれなし、そのうち決して暴動は致さざる段、お届け申し出で置き候義に御座候」
西郷も江戸の浪士たちに暴発しないよう京都から達しを出していたとしながら、実際、江戸で何が起こったのか正確な情報がつかめず、首を捻っていることがわかります。
つまり、江戸で浪士たちの暴発があったとしても、それは京都とくに西郷の指令ではなかったということを示しています。
(3)勝麟太郎
配役欄では、このようになっていましたが、不正確ですね。
「勝安房守義邦」とすべきでしょう。
慶応2年(1866)5月28日、勝は寄合から軍艦奉行を拝命しています。それに伴い、叙爵して五位・安房守と名乗るようになりました(『柳営補任』五)。これが正式名称ですね。
ほかにも、いろいろありますが、あまり書く気がしなくなりました。
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ドラマ進行時点は慶応3年(1867)11月から12月
仕事のため外出していたので、午後8時からの放映は間に合わず、10時からのBS放送で観ました。
前々回、前回からのボタンのかけ違えがある以上、もはや修正不可能な筋立てになっていますね。
書いても詮なきことながら、それでも、いくつか指摘しておかねばなりますまい。
(1)小松と西郷・大久保の対立なるもの
小松は大政奉還により、平和的な国づくりを望んだが、西郷・大久保は強引に武力討幕を実現しようとしていたという、何ともわかりやすい二項対立の構図。
事がそんなに単純に割りきれるはずがありません。
改めて考えるまでもなく、それまで小松と西郷・大久保は三位一体でした。いざとなったら武力討幕をする覚悟だと長州の品川・山県に伝えるとき、その役目を果たしたのは小松であり、西郷・大久保もその場に同席していました。何より討幕の密勅の請書に署名したのは、小松・西郷・大久保です。
にもかかわらず、大したきっかけもないのに、なぜ小松と西郷・大久保が対立・分裂することになるのでしょうか? 疑問だらけですね。
王政復古に小松が参加できなかったのは事実ですが、「足痛」ゆえです。
「足痛」については、過去に少し詳しく書いています。こことかここをご覧下さい。
ドラマでは、大久保が小松の上京を制していました。西郷・大久保が討幕挙兵をやって失敗したとき、あとは小松に頼むという角度から描かれていたのは新味があったことは認めますが、このときの上京は、討幕挙兵の上京ではなく、近いうちに召集される新政体発足のための諸侯会議において、薩摩藩の発言力を強化するため、藩主茂久を擁した多人数での上京であり、名目は禁裏守護です。
慶喜が大政奉還をした以上、武力討幕ができる状況ではありません。
小松が後藤象二郎に「足痛」のため、上京できなくなったことを詫びた手紙がありますが、額面通りのもので、政治的背景があったとは思えません。
小松は大政奉還を実現することで王政復古の地均しをしました。
一方、西郷・大久保は王政復古政変で禁裏御所を占領し、幕府や関白など旧制度を廃止し、徳川慶喜の辞官納地を決定しました。
この両者の動きにさほどの矛盾や食い違いはありません。
小松の段階で、慶喜の政権返上による新政体樹立の前提ができ、西郷・大久保の段階で、旧制度の廃絶と総裁以下三職という新政体の枠組みが決まりました。それに伴い、新政体における主導権をめぐる闘争が表面化したのは事実ですが、あくまで慶喜が新政体に参画することを承認したうえでの内部論争であり、決して討幕ではありません。
「討幕」の定義については、いろいろな考え方があるのでしょうが、当事者である西郷が定義づけをしています。慶応3年8月、西郷が長州の柏村数馬(広沢真臣の兄)に語ったことが、柏村の手記に残されています。
それによれば、幕府屯所や京都守護職屯所の襲撃、大坂城攻撃、甲府城占拠という三都同時挙兵を計画していましたが、それでも、「討幕は仕らず」(討幕はしない)と明言しています。
西郷の考える「討幕」とは、将軍追討の勅命が出ることによる関東征服です。西郷は当面、それは無理だと判断していました。
王政復古政変は西郷の三都同時挙兵計画よりはるかに規模を縮小したもので、しかも、慶喜の政権返上という新たな条件も加わっており、西郷流「討幕」が不可能であることは明らかです。
別のいい方をすれば、慶応3年中の京都情勢では討幕はありえませんし、実際にありませんでした。
それが可能になるのは、江戸の薩摩藩邸焼き打ちをきっかけに、大坂の旧幕軍が率兵上京を起こしてからです。
明治以降の官製の維新史観はこの点を歪曲しており、討幕は王政復古から始まったとしています。つまり、大政奉還は不徹底で妥協的な改革であり、公議政体派を日和見的立場と見ています。
したがって、小松の仕事も同等に評価されているわけで、こうした官製史観による立場が小松と西郷・大久保の対立というフィクションを生み出す根源になっています。さらにいえば、小松が明治以降、忘れ去られていく最大の要因もここにあると思っています。
何度も繰り返しますが、大政奉還と王政復古は対立的なものではなく、連続的・発展的なプロセスです。これを対立的にとらえたのが官製の維新史観であり(討幕によって明治維新は成ったということを強調するためです)、今日の私たちはドラマも含めて、その刷り込みを強く受けているということです。
武力討幕という軍事力発動は後戻りできず、藩の存亡を賭ける重大事だけに、その切り札は最後の最後まで温存されました。西郷・大久保もその発動には慎重で、結局、旧幕軍から仕掛けられて、初めて発動したのです。つまり、西郷流「討幕」は慶応4年になってようやく始まったのです。
したがって、何度も書いたように、その点で、小松と西郷・大久保に違いはありません。
(2)西郷が江戸藩邸の浪士たちを煽動したとされる一件
これも近年は否定されていますね。大政奉還がなされたために、郷里に帰った西郷の代わりに、京都留守居の吉井幸輔が、江戸の益満休之助と伊牟田尚平に宛てて、江戸での軽挙妄動は慎むよう、再三にわたって勧告しています。
これは、近年に判明したことではなく、すでに徳冨蘇峰『近世日本国民史』でも書かれていますから、大正年間にはわかっていたことです。
また、江戸藩邸焼き討ちの報を聞いた西郷は、慶応4年(1868)正月1日、久光側近の蓑田伝兵衛に宛てた書簡で、次のように書いています。
「爰許(ここもと)にて壮士の者暴発致さぬようお達し御座候えども、いまだ訳も相分からず、いずれを正しかるべき筋もこれなし、そのうち決して暴動は致さざる段、お届け申し出で置き候義に御座候」
西郷も江戸の浪士たちに暴発しないよう京都から達しを出していたとしながら、実際、江戸で何が起こったのか正確な情報がつかめず、首を捻っていることがわかります。
つまり、江戸で浪士たちの暴発があったとしても、それは京都とくに西郷の指令ではなかったということを示しています。
(3)勝麟太郎
配役欄では、このようになっていましたが、不正確ですね。
「勝安房守義邦」とすべきでしょう。
慶応2年(1866)5月28日、勝は寄合から軍艦奉行を拝命しています。それに伴い、叙爵して五位・安房守と名乗るようになりました(『柳営補任』五)。これが正式名称ですね。
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トラックバック(1) |
小松VS西郷、大久保
Satoh 突然申し訳ありません。
いつも楽しく拝見させていただいております。
素人ながらに思っていることなのですが、今回の"篤姫"内における 小松VS西郷・大久保 は、龍馬VS西郷・大久保の設定をそのまま持ってきているのではないでしょうか。
一般的に龍馬は平和主義者、薩摩は武断的な組織として書かれることが多く、さらに今回は小松が龍馬の思想的後継者というような場面も出ていたように思います。
いかがでしょう?
結果論的解釈
御座候 近年は政治学の影響を受けて、歴史上の組織や制度、合意が成立する際のダイナミズム(偶然性、偶発性)を重視する見方が歴史学においても出てきていますが、結果から逆算して、歴史の展開を必然的に解釈する「勝者の歴史」の影響力は一般にはなお根強いようですね。
平和主義者
桐野作人 Satohさん、こんばんは。
仰せの通りですね。
龍馬と小松は平和主義者、西郷・大久保が武力主義者。
まことにわかりやすい図式ですね(笑)。
龍馬も慶喜の出方次第では討幕も辞せずと考えて、「大芝居」を想定しましたのにね。
龍馬が大政奉還にこだわったのは、討幕反対からではなく、土佐藩を薩長並みにしたいという「郷土愛」ゆえですからね。
非歴史的な「平和主義」という措定は、現代人の願望を龍馬や小松に反映させて事足れりとする方々の「妄想」ではないかと、私も思います。
有難く
桐野作人 御座候さん、こんばんは。
いつも、小生が言いたいことを的確かつ簡潔に評していただき、感謝です。
私は物事を短く、的確に表現できないたちで、ついついダラダラと冗長に書く癖がありまして、いつも御座候さんから指摘されて、そうそう、そう言いたかったのだと再確認すること、しきりです。
今後とも、批判も含めて御助言のほどよろしく。
近年、歴史学も政治学の影響を受けているというのは知りませんでした。
幕末維新史や近代史方面では、三谷博氏が「複雑系」という複雑な理論で、やはり、歴史の偶然性、偶発性を重視すべきだと主張されていたのを思い出して、ストンと合点がいきました。なるほど、最近の思潮なんですね。
ご教示有難うございます。
板垣懐旧談
へいぞー 初めまして。
いつも楽しみに拝見させて頂いております。
桐野先生がおっしゃるように、江戸撹乱工作が果たして西郷が行わせたものかということに、小生も疑問を感じておりました。
吉井の書簡も証拠になるでしょうし、晩年の板垣退助の懐旧談もありましょうし……。
板垣懐旧談
桐野 へいぞーさん、こんばんは。
鹿児島からです。
板垣懐旧談のこともお知らせいただきありがとうございました。
大政奉還から王政復古、鳥羽伏見の戦いのプロセスは再検討が必要だと感じています。
今後ともよろしく。
討幕の密勅
御座候 >何より討幕の密勅の請書に署名したのは、小松・西郷・大久保です。
萩博物館で11日までやっていた企画展「明治維新の光と影」を見に行ったら、倒幕の密勅と小松らの請書が展示されていました。ただし残念ながら両方とも複製でしたが・・・・・・
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/event/0809hikaritokage/index.htm
毛利博物館でやっていた企画展「維新への道」では本物が展示されたんでしょうかね?
ともあれ今年は大河効果で幕末維新関係の展示が多いように思います。そういう意味では大河ドラマ『篤姫』に感謝すべきなのかもしれません(^^;) しかし再来年の『龍馬伝』の時、各博物館は新味のある展示ができるんでしょうか? 余計なお世話ながら少し心配です・・・
Satoh 突然申し訳ありません。
いつも楽しく拝見させていただいております。
素人ながらに思っていることなのですが、今回の"篤姫"内における 小松VS西郷・大久保 は、龍馬VS西郷・大久保の設定をそのまま持ってきているのではないでしょうか。
一般的に龍馬は平和主義者、薩摩は武断的な組織として書かれることが多く、さらに今回は小松が龍馬の思想的後継者というような場面も出ていたように思います。
いかがでしょう?
結果論的解釈
御座候 近年は政治学の影響を受けて、歴史上の組織や制度、合意が成立する際のダイナミズム(偶然性、偶発性)を重視する見方が歴史学においても出てきていますが、結果から逆算して、歴史の展開を必然的に解釈する「勝者の歴史」の影響力は一般にはなお根強いようですね。
平和主義者
桐野作人 Satohさん、こんばんは。
仰せの通りですね。
龍馬と小松は平和主義者、西郷・大久保が武力主義者。
まことにわかりやすい図式ですね(笑)。
龍馬も慶喜の出方次第では討幕も辞せずと考えて、「大芝居」を想定しましたのにね。
龍馬が大政奉還にこだわったのは、討幕反対からではなく、土佐藩を薩長並みにしたいという「郷土愛」ゆえですからね。
非歴史的な「平和主義」という措定は、現代人の願望を龍馬や小松に反映させて事足れりとする方々の「妄想」ではないかと、私も思います。
有難く
桐野作人 御座候さん、こんばんは。
いつも、小生が言いたいことを的確かつ簡潔に評していただき、感謝です。
私は物事を短く、的確に表現できないたちで、ついついダラダラと冗長に書く癖がありまして、いつも御座候さんから指摘されて、そうそう、そう言いたかったのだと再確認すること、しきりです。
今後とも、批判も含めて御助言のほどよろしく。
近年、歴史学も政治学の影響を受けているというのは知りませんでした。
幕末維新史や近代史方面では、三谷博氏が「複雑系」という複雑な理論で、やはり、歴史の偶然性、偶発性を重視すべきだと主張されていたのを思い出して、ストンと合点がいきました。なるほど、最近の思潮なんですね。
ご教示有難うございます。
板垣懐旧談
へいぞー 初めまして。
いつも楽しみに拝見させて頂いております。
桐野先生がおっしゃるように、江戸撹乱工作が果たして西郷が行わせたものかということに、小生も疑問を感じておりました。
吉井の書簡も証拠になるでしょうし、晩年の板垣退助の懐旧談もありましょうし……。
板垣懐旧談
桐野 へいぞーさん、こんばんは。
鹿児島からです。
板垣懐旧談のこともお知らせいただきありがとうございました。
大政奉還から王政復古、鳥羽伏見の戦いのプロセスは再検討が必要だと感じています。
今後ともよろしく。
討幕の密勅
御座候 >何より討幕の密勅の請書に署名したのは、小松・西郷・大久保です。
萩博物館で11日までやっていた企画展「明治維新の光と影」を見に行ったら、倒幕の密勅と小松らの請書が展示されていました。ただし残念ながら両方とも複製でしたが・・・・・・
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/event/0809hikaritokage/index.htm
毛利博物館でやっていた企画展「維新への道」では本物が展示されたんでしょうかね?
ともあれ今年は大河効果で幕末維新関係の展示が多いように思います。そういう意味では大河ドラマ『篤姫』に感謝すべきなのかもしれません(^^;) しかし再来年の『龍馬伝』の時、各博物館は新味のある展示ができるんでしょうか? 余計なお世話ながら少し心配です・・・
この記事へのコメント
突然申し訳ありません。
いつも楽しく拝見させていただいております。
素人ながらに思っていることなのですが、今回の"篤姫"内における 小松VS西郷・大久保 は、龍馬VS西郷・大久保の設定をそのまま持ってきているのではないでしょうか。
一般的に龍馬は平和主義者、薩摩は武断的な組織として書かれることが多く、さらに今回は小松が龍馬の思想的後継者というような場面も出ていたように思います。
いかがでしょう?
いつも楽しく拝見させていただいております。
素人ながらに思っていることなのですが、今回の"篤姫"内における 小松VS西郷・大久保 は、龍馬VS西郷・大久保の設定をそのまま持ってきているのではないでしょうか。
一般的に龍馬は平和主義者、薩摩は武断的な組織として書かれることが多く、さらに今回は小松が龍馬の思想的後継者というような場面も出ていたように思います。
いかがでしょう?
近年は政治学の影響を受けて、歴史上の組織や制度、合意が成立する際のダイナミズム(偶然性、偶発性)を重視する見方が歴史学においても出てきていますが、結果から逆算して、歴史の展開を必然的に解釈する「勝者の歴史」の影響力は一般にはなお根強いようですね。
2008/11/10(Mon) 15:44 | URL | 御座候 #kz2iIBPw[ 編集]
Satohさん、こんばんは。
仰せの通りですね。
龍馬と小松は平和主義者、西郷・大久保が武力主義者。
まことにわかりやすい図式ですね(笑)。
龍馬も慶喜の出方次第では討幕も辞せずと考えて、「大芝居」を想定しましたのにね。
龍馬が大政奉還にこだわったのは、討幕反対からではなく、土佐藩を薩長並みにしたいという「郷土愛」ゆえですからね。
非歴史的な「平和主義」という措定は、現代人の願望を龍馬や小松に反映させて事足れりとする方々の「妄想」ではないかと、私も思います。
仰せの通りですね。
龍馬と小松は平和主義者、西郷・大久保が武力主義者。
まことにわかりやすい図式ですね(笑)。
龍馬も慶喜の出方次第では討幕も辞せずと考えて、「大芝居」を想定しましたのにね。
龍馬が大政奉還にこだわったのは、討幕反対からではなく、土佐藩を薩長並みにしたいという「郷土愛」ゆえですからね。
非歴史的な「平和主義」という措定は、現代人の願望を龍馬や小松に反映させて事足れりとする方々の「妄想」ではないかと、私も思います。
御座候さん、こんばんは。
いつも、小生が言いたいことを的確かつ簡潔に評していただき、感謝です。
私は物事を短く、的確に表現できないたちで、ついついダラダラと冗長に書く癖がありまして、いつも御座候さんから指摘されて、そうそう、そう言いたかったのだと再確認すること、しきりです。
今後とも、批判も含めて御助言のほどよろしく。
近年、歴史学も政治学の影響を受けているというのは知りませんでした。
幕末維新史や近代史方面では、三谷博氏が「複雑系」という複雑な理論で、やはり、歴史の偶然性、偶発性を重視すべきだと主張されていたのを思い出して、ストンと合点がいきました。なるほど、最近の思潮なんですね。
ご教示有難うございます。
いつも、小生が言いたいことを的確かつ簡潔に評していただき、感謝です。
私は物事を短く、的確に表現できないたちで、ついついダラダラと冗長に書く癖がありまして、いつも御座候さんから指摘されて、そうそう、そう言いたかったのだと再確認すること、しきりです。
今後とも、批判も含めて御助言のほどよろしく。
近年、歴史学も政治学の影響を受けているというのは知りませんでした。
幕末維新史や近代史方面では、三谷博氏が「複雑系」という複雑な理論で、やはり、歴史の偶然性、偶発性を重視すべきだと主張されていたのを思い出して、ストンと合点がいきました。なるほど、最近の思潮なんですね。
ご教示有難うございます。
初めまして。
いつも楽しみに拝見させて頂いております。
桐野先生がおっしゃるように、江戸撹乱工作が果たして西郷が行わせたものかということに、小生も疑問を感じておりました。
吉井の書簡も証拠になるでしょうし、晩年の板垣退助の懐旧談もありましょうし……。
いつも楽しみに拝見させて頂いております。
桐野先生がおっしゃるように、江戸撹乱工作が果たして西郷が行わせたものかということに、小生も疑問を感じておりました。
吉井の書簡も証拠になるでしょうし、晩年の板垣退助の懐旧談もありましょうし……。
2008/11/13(Thu) 19:35 | URL | へいぞー #zmZy4x6E[ 編集]
へいぞーさん、こんばんは。
鹿児島からです。
板垣懐旧談のこともお知らせいただきありがとうございました。
大政奉還から王政復古、鳥羽伏見の戦いのプロセスは再検討が必要だと感じています。
今後ともよろしく。
鹿児島からです。
板垣懐旧談のこともお知らせいただきありがとうございました。
大政奉還から王政復古、鳥羽伏見の戦いのプロセスは再検討が必要だと感じています。
今後ともよろしく。
2008/11/14(Fri) 21:17 | URL | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
>何より討幕の密勅の請書に署名したのは、小松・西郷・大久保です。
萩博物館で11日までやっていた企画展「明治維新の光と影」を見に行ったら、倒幕の密勅と小松らの請書が展示されていました。ただし残念ながら両方とも複製でしたが・・・・・・
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/event/0809hikaritokage/index.htm
毛利博物館でやっていた企画展「維新への道」では本物が展示されたんでしょうかね?
ともあれ今年は大河効果で幕末維新関係の展示が多いように思います。そういう意味では大河ドラマ『篤姫』に感謝すべきなのかもしれません(^^;) しかし再来年の『龍馬伝』の時、各博物館は新味のある展示ができるんでしょうか? 余計なお世話ながら少し心配です・・・
萩博物館で11日までやっていた企画展「明治維新の光と影」を見に行ったら、倒幕の密勅と小松らの請書が展示されていました。ただし残念ながら両方とも複製でしたが・・・・・・
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/event/0809hikaritokage/index.htm
毛利博物館でやっていた企画展「維新への道」では本物が展示されたんでしょうかね?
ともあれ今年は大河効果で幕末維新関係の展示が多いように思います。そういう意味では大河ドラマ『篤姫』に感謝すべきなのかもしれません(^^;) しかし再来年の『龍馬伝』の時、各博物館は新味のある展示ができるんでしょうか? 余計なお世話ながら少し心配です・・・
2008/11/15(Sat) 01:53 | URL | 御座候 #kz2iIBPw[ 編集]
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