歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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安場保和伝

昨年暮れの薩摩の会でお会いした友人の村田統二雄氏から大晦日にご本2点をご恵贈いただいた。いずれも重厚な大冊である。多謝。

『安場保和伝1835-99』 安場保吉編、藤原書店、2006年
『新版 アメリカの鏡・日本』 ヘレン・ミアーズ著/伊藤延司訳、角川学芸出版、2005年


村田氏は「村田銃」で知られる薩摩藩士、村田経芳(1838-1921)の玄孫にあたる。村田が改良発明した村田銃は明治13年(1880)、わが国で初めて国産制式銃となった。日清戦争などで威力を発揮したのは一八年式村田銃だったかな。その功により、村田は陸軍少将となり、男爵を授けられた。

『安場保和伝』をいただいたのも、保和の孫にあたる保定が村田家の養子となっており、つまり、統二雄氏の祖父にあたられるという関係からである。

安場保和(やすば・やすかず)は肥後熊本藩士(家禄200石)。維新前は一平と称した。横井小楠の弟子で、小楠門下四天王の一人に称せられている。小楠が松平春嶽に招聘されて越前福井に赴いたとき、保和は門下代表として同行しているほどだ。

熊本藩はいわゆる学校党の勢力が優勢で、有力な佐幕藩だったことでも知られる。それは王政復古でもそうだったが、慶応四年(1868)に鳥羽伏見戦争で徳川方が敗北したのちもなお「征東不可論」「佐会論」(会津を助ける意)を唱えたほどである。

佐幕論が優勢のなか、安場は藩論を王政復古政府支持に導くために奔走した。その功により、安場は新政府の徴士として登用された。三職の参与職に任ぜられたのである。その後、胆沢県参事、酒田県参事などを歴任し、明治五年(1872)の岩倉使節団の一員に選ばれた。

使節団に選ばれたことは、その後の明治政府での立身が保証されたに等しかったが、安場は何と途中で「洋行の苦痛」を訴えて憤然と帰国してしまう。そのいきさつが『米欧回覧実記』で有名な久米邦武の回顧録に次のように記されていて、爆笑するほど面白い。

我が一行中頑固党の張本人と目指された安場保和は、肥後横井派の古武士風の人で、数の観念に欠け、西洋数字等は知らぬから、ホテルに滞在しても二階と三階を取り違へ、室の番号を間違へるなど旅行の困苦を一層深く味うた。(中略)三月[陽暦四月]南風が吹き来り、忽ち暑くなり、渇を覚えたので、安場は砂糖水を飲まうと思ひ立ち、砂糖はシュガー、水はヲォーターと聞き覚えて、メードに命じた処、メードは軈て(やがて)巻煙草(シガー)と牛酪(バター)を持って来た。安場は斯様な洋行の苦痛から「人民の膏を絞った租税を僕の様の者の洋行に消費するに忍びぬから帰朝する」といひ出し、聴かなかった。

シュガーとウォーターを頼んだのに、シガーとバターを持ってこられたのでは、安場ならずとも立つ瀬がないなと思う。この一節を読んで、似たような体験があるから、安場に一段と親近感を覚えた。
安場の帰国の意思が固いので、久米らが副使の木戸孝允に頼み込んで帰国を許された。安場は白峯駿馬(元海援隊士)と一緒にアメリカから日本に帰国したという。

もっとも、当該部分を執筆した三澤純氏は、安場の帰国は単なる「洋行の苦痛」だけではなく、政治的理由もあったのではないかと指摘している。
安場は岩倉使節団の前に、廃藩置県をめぐって大隈重信や伊藤博文と激しく対立していた事実がある。二人の後ろ盾である木戸とも不仲だったという。その一方で安場は薩閥と近く、とくに大久保利通と親しかったという。安場が「洋行の苦痛」により帰国を訴えたとき、大久保は例の条約改正問題での全権委任状を得るために一時帰国している時期であり、大久保不在によって、安場は木戸・伊藤が牛耳る使節団の中で孤立を深めていたからではないかと推測している。なかなか興味深い。

安場については、帰国後、福島県令となり、安積開墾に精力を傾けたことが注目される。これは殖産興業路線のモデルケースでもあり、のちに大久保利通が推進した安積開墾事業の基礎を築いたともいえる。
安場は明治の開明派官僚の典型だといえよう。安場家の縁戚には後藤新平・鶴見俊輔・平野義太郎などもいる。

アメリカの鏡

もう一点の『アメリカの鏡・日本』。
アメリカの女性歴史家ヘレン・ミアーズが戦後の占領時代に来日し、GHQの労働局諮問委員会に所属してGHQの内部情報を知りえる立場にあった。本書はその経験をまとめたもので、自国の立場に偏しない立場からの日本文化論である。表題は明治維新以降の日本の発展と転落がその実、欧米モデルのアジアへの移植であり、日本の姿を見ることはアメリカの実態を照らし出しているという含意のようである。そのため、アメリカに日本を裁き、統治する資格があるのかという鋭い問いかけを内包していたため、マッカーサーから発禁処分にされたという、いわく付きの著作の翻訳である。
とても面白そうだが、残念ながらまだ読む時間が取れないでいる。

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【2007/01/04 23:15】 | 幕末維新
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水戸っぽ
安場と「似たような体験」をされたというのはどのようなことなのか、誠に興味深く存じます(笑)。別途差し支えない範囲でお教え頂ければ幸いです。因みに私の場合、中華料理店で(日本語での意思の疎通が完璧とは言い難い感のある)彼の国の人と思しき店員に「Water!」と注文したところ、お湯が出てきたということがありました。まあ確かに間違いではありませんが..。
彼が小楠の弟子ということは、明治政府内でその思想的背景を具体的な政策等に反映させようとした形跡があったのか(かつ、そうだとすればまたそれはどのような分野・施策においてか)、また外様の細川家でかつ地理的にも西南部に位置する肥後藩において終始佐幕側が藩論を支配し続けたことにはどのような要因・背景が大きかったのか、等当方の関心が惹起された次第です。

「公議輿論」の実践
桐野
水戸っぽさん、はじめまして。

「似たような体験」、やっぱりここを突っ込まれましたね(笑)。

私の場合は中国東北地方を訪ねたときでした。内モンゴル自治区まで行く、長い長い汽車の旅で暇を持てあましましした。それで、少し中国語を習っていたもので、退屈しのぎにガイドの女性に中国語会話を教えてもらおうと、まず簡単な自己紹介のフレーズで「我是日本人」とか言ったところ、初っぱなから「桐野さん、貴方は日本人じゃない、そう聞こえない」と言われました。「日本人」の「日」(ri)は捲舌音で、英語のrとl、bとvの違いと同じように、日本人には苦手な発音です。
何度も挑戦しましたが、どうも合格点はいただけず、すると、コンパートメントに同室していた全然知らない中国人が堪えきれずに、クスクス笑い出す始末で……。

安場保和に話を戻しますと、彼の官僚生活は県令・知事など地方官が長いのですが、そのなかで、地租改正や立憲議会制などの重要テーマにおいて、小楠の教えである「公議輿論」を何とか政治行政に反映するよう努力した点でしょうか。官僚ですから当然限界はあるのですが。
たとえば、明治8年から始まった地方官会議では積極的に発言し、建白書を提出するなど、地方の立場を中央の国政に訴えています。愛知県令のときは、政府が上から押し付ける地租改正案に対して、苛酷すぎると反対して低い税率要求を貫徹しています。
中央と地方の関係をなるべく円滑ならしめようと努力しており、「明治前期の三大県令」の一人に数えられているようです。
面白いのは、愛知県令時代、名古屋城の金の鯱が旧体制の無用の長物として東京博物館に収納されていたのを、歴史遺産は大事にすべきだとして取り返し、名古屋の文化的象徴に据えたこともあるようです。

肥後熊本藩の佐幕論ですが、ひとつは隣国薩摩藩への対抗意識があると思いますが、それだけではないでしょう。
元治・慶応年間、熊本藩は一会桑権力を支持していました。一会桑権力の性格は、雄藩連合論や公議政体論を唱える雄藩(薩・土・越・宇和島など)の国政関与を一貫して排除し、朝廷を排他的に独占するところにあります。
熊本藩はその路線を一貫して支持していたわけですから、薩摩藩のみならず、土佐・越前などとも折り合わなかったですね。代表的な人物は家老の溝口孤雲でしょうか。
彼らはいわゆる学校党という派閥で、藩政を牛耳りました。それには尊攘派だった勤王党が衰退したことも一因です。藩内では、小楠率いる実学党が土佐・越前に近い路線ですが、少数派でした。







まいたけ君
>安場は白峯駿馬(元海援隊士)と一緒にアメリカから日本に帰国したという。

新年早々、興味深い情報をありがとうございます。出典は、安場の日記などでしょうか? 白峯は、岩倉使節団の一員として渡米中の佐々木高行を訪ねており、白峯の帰国費用は、使節団が支出している可能性が高いので、使節団の一員であった安場の帰国に同行したのかもしれませんね。
そうそう、白峯と共に、戊辰戦争の最中に渡米した菅野覚兵衛は、後に安積に入植していました。



白峯駿馬
桐野
まいたけ君さん、どうも。
今年もよろしくお願いします。

白峯駿馬の部分、次の本に記載されているようです。

久米邦武『久米博士九十年回顧録』下巻、宗高書房、1985年、256~57頁

もっとも、『安場保和伝』に引用されていて、次の通りです。

「(前略)遂に彼は帰朝を許され、其の素志を達して、白峯駿馬と共に米国より日本に帰った。多分ほつとした事であらう」

白峯が出てくるのはこの個所だけで、ほかの情報があるかどうかはわかりません。
白峯はご紹介のような事情でたまたま米国に来ていて、旅行不案内な安場を同道して帰国してくれるよう、使節団側から依頼されたのかもしれませんね。

ほかに安場の渡航日記などが残っていたら、もう少し事情がわかるかもしれませんが、どうやらないようです。

なお、県令・知事時代、安場は神奈川県令だった佐々木高行と親しかった形跡はありますね。




まいたけ君
出典をご教示いただき、ありがとうございました。年賀状を書き終えたら、図書館で『久米博士九十年回顧録』を調べてみますね。
おっしゃるように、使節団からの依頼があったので安場を同道したのかもしれませんね。長い船旅ですから、そこでふたりが親交を深めた可能性もありますので、安場の渡航日記が残っていないのは残念です。

佐々木高行日記『保古飛呂比』の人名索引で「安場保和」を調べてみました。5巻に8回、9巻に5回、10巻(明治14年)に34回、11巻に4回、安場が登場しているようですから、おっしゃるように親しい関係であったのでしょうね。



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この記事へのコメント
安場と「似たような体験」をされたというのはどのようなことなのか、誠に興味深く存じます(笑)。別途差し支えない範囲でお教え頂ければ幸いです。因みに私の場合、中華料理店で(日本語での意思の疎通が完璧とは言い難い感のある)彼の国の人と思しき店員に「Water!」と注文したところ、お湯が出てきたということがありました。まあ確かに間違いではありませんが..。
彼が小楠の弟子ということは、明治政府内でその思想的背景を具体的な政策等に反映させようとした形跡があったのか(かつ、そうだとすればまたそれはどのような分野・施策においてか)、また外様の細川家でかつ地理的にも西南部に位置する肥後藩において終始佐幕側が藩論を支配し続けたことにはどのような要因・背景が大きかったのか、等当方の関心が惹起された次第です。
2007/01/05(Fri) 11:39 | URL  | 水戸っぽ #-[ 編集]
「公議輿論」の実践
水戸っぽさん、はじめまして。

「似たような体験」、やっぱりここを突っ込まれましたね(笑)。

私の場合は中国東北地方を訪ねたときでした。内モンゴル自治区まで行く、長い長い汽車の旅で暇を持てあましましした。それで、少し中国語を習っていたもので、退屈しのぎにガイドの女性に中国語会話を教えてもらおうと、まず簡単な自己紹介のフレーズで「我是日本人」とか言ったところ、初っぱなから「桐野さん、貴方は日本人じゃない、そう聞こえない」と言われました。「日本人」の「日」(ri)は捲舌音で、英語のrとl、bとvの違いと同じように、日本人には苦手な発音です。
何度も挑戦しましたが、どうも合格点はいただけず、すると、コンパートメントに同室していた全然知らない中国人が堪えきれずに、クスクス笑い出す始末で……。

安場保和に話を戻しますと、彼の官僚生活は県令・知事など地方官が長いのですが、そのなかで、地租改正や立憲議会制などの重要テーマにおいて、小楠の教えである「公議輿論」を何とか政治行政に反映するよう努力した点でしょうか。官僚ですから当然限界はあるのですが。
たとえば、明治8年から始まった地方官会議では積極的に発言し、建白書を提出するなど、地方の立場を中央の国政に訴えています。愛知県令のときは、政府が上から押し付ける地租改正案に対して、苛酷すぎると反対して低い税率要求を貫徹しています。
中央と地方の関係をなるべく円滑ならしめようと努力しており、「明治前期の三大県令」の一人に数えられているようです。
面白いのは、愛知県令時代、名古屋城の金の鯱が旧体制の無用の長物として東京博物館に収納されていたのを、歴史遺産は大事にすべきだとして取り返し、名古屋の文化的象徴に据えたこともあるようです。

肥後熊本藩の佐幕論ですが、ひとつは隣国薩摩藩への対抗意識があると思いますが、それだけではないでしょう。
元治・慶応年間、熊本藩は一会桑権力を支持していました。一会桑権力の性格は、雄藩連合論や公議政体論を唱える雄藩(薩・土・越・宇和島など)の国政関与を一貫して排除し、朝廷を排他的に独占するところにあります。
熊本藩はその路線を一貫して支持していたわけですから、薩摩藩のみならず、土佐・越前などとも折り合わなかったですね。代表的な人物は家老の溝口孤雲でしょうか。
彼らはいわゆる学校党という派閥で、藩政を牛耳りました。それには尊攘派だった勤王党が衰退したことも一因です。藩内では、小楠率いる実学党が土佐・越前に近い路線ですが、少数派でした。




2007/01/05(Fri) 23:53 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
>安場は白峯駿馬(元海援隊士)と一緒にアメリカから日本に帰国したという。

新年早々、興味深い情報をありがとうございます。出典は、安場の日記などでしょうか? 白峯は、岩倉使節団の一員として渡米中の佐々木高行を訪ねており、白峯の帰国費用は、使節団が支出している可能性が高いので、使節団の一員であった安場の帰国に同行したのかもしれませんね。
そうそう、白峯と共に、戊辰戦争の最中に渡米した菅野覚兵衛は、後に安積に入植していました。

2007/01/06(Sat) 06:54 | URL  | まいたけ君 #BKdQhP/Q[ 編集]
白峯駿馬
まいたけ君さん、どうも。
今年もよろしくお願いします。

白峯駿馬の部分、次の本に記載されているようです。

久米邦武『久米博士九十年回顧録』下巻、宗高書房、1985年、256~57頁

もっとも、『安場保和伝』に引用されていて、次の通りです。

「(前略)遂に彼は帰朝を許され、其の素志を達して、白峯駿馬と共に米国より日本に帰った。多分ほつとした事であらう」

白峯が出てくるのはこの個所だけで、ほかの情報があるかどうかはわかりません。
白峯はご紹介のような事情でたまたま米国に来ていて、旅行不案内な安場を同道して帰国してくれるよう、使節団側から依頼されたのかもしれませんね。

ほかに安場の渡航日記などが残っていたら、もう少し事情がわかるかもしれませんが、どうやらないようです。

なお、県令・知事時代、安場は神奈川県令だった佐々木高行と親しかった形跡はありますね。

2007/01/06(Sat) 11:05 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
出典をご教示いただき、ありがとうございました。年賀状を書き終えたら、図書館で『久米博士九十年回顧録』を調べてみますね。
おっしゃるように、使節団からの依頼があったので安場を同道したのかもしれませんね。長い船旅ですから、そこでふたりが親交を深めた可能性もありますので、安場の渡航日記が残っていないのは残念です。

佐々木高行日記『保古飛呂比』の人名索引で「安場保和」を調べてみました。5巻に8回、9巻に5回、10巻(明治14年)に34回、11巻に4回、安場が登場しているようですから、おっしゃるように親しい関係であったのでしょうね。

2007/01/06(Sat) 14:26 | URL  | まいたけ君 #BKdQhP/Q[ 編集]
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