歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第47回「大奥の使者」

ドラマ進行時点は、慶応4年(1868)1月から3月。

いよいよ東征となり、江戸開城前夜まで来ました。まさに最後のクライマックスですね。
今回は2つだけ書きます。

1,再上京してからの小松帯刀の動向

『小松帯刀日記』によれば、鹿児島にいる小松が鳥羽伏見の戦いの勝利を知ったのは1月12日のことです。情報源は兵庫を発して長崎に立ち寄った英国船です。小松は「官軍大勝利」と喜んでいます。あまり戦争に反対したようにも見えませんね。

小松は高見弥一などを長崎に派遣して懸命に情報収集しています。
なぜ長崎かといえば、横浜や兵庫から上海への国際航路が開けており、長崎がその寄港地になっていたので、情報が集まったからです。元土佐藩郷士で薩藩英国留学生だった高見を長崎に派遣したのは、英語が達者で、上陸した外国人から直接情報を得られたからでしょう。

小松が再び上京したのは1月25日のことです。
しかし、さっそく27日には「足痛」が再発しています。
ドラマでは上京した小松が岩倉具視と会見ました。そのとき、岩倉が小松を総裁職顧問に任命し、追って外国事務局の仕事をしてもらうと告げていました。
これは「薩藩小松帯刀履歴」に基づいたもので、2月のことです。しかし、実際は任命順が逆だと思います。ここはやはり一次史料の「小松帯刀日記」の記事を優先させるべきでしょう。
それによれば、小松は1月28日、太政官代から徴士参与と外国事務掛を命じられ、最初は「足痛」のため固辞しようとしたようですが、29日にそれを受けています。そして、2月2日、改めて総裁局顧問を命じられています。

小松の役職のうち、重要なのは参与でしょう。これは王政復古政変によって決定した三職(総裁・議定・参与)のひとつで、主に藩士が任命されます。薩摩藩からは西郷・大久保・岩下が任命されていました。このうち、岩下と小松が交代することになったわけです。
家老の岩下方平は前年11月、「足痛」の小松の代わりに上京していました。小松が上京してきたので交代し、従来の3人トリオで参与を占めることになりました(五代友厚も参与だったかも)。
もし、前年の島津茂久の率兵上京において、小松と西郷・大久保が対立したならば、小松が参与に任命されることはなかったに違いありません。
上京した小松は何事もなかったかのように、薩摩藩士としては最高の地位に迎えられているわけです。また外国事務局掛(のち判事)はのちの外務省の前身になるわけですが、小松の地位は外務次官相当ですね。長官は公家の東久世通禧でしたが、実質的な外務大臣は小松だったといって差し支えないでしょう。

ドラマでは、小松は幾島と会ったり、江戸のことばかり心配していましたが、実際は2月3日から役目柄、諸外国の公使館がある大坂へ転勤しております。そして同月15日に堺事件が勃発してその解決に奔走させられました。堺事件とは、土佐藩士がフランス水兵を殺傷した一件です。重大な外交問題になりましたから、外国事務掛の小松が忙しくなるのは当然です。

なお、あまり知られていないことですが、『大久保利通日記』によれば、3月7日、薩摩藩から小松・大久保・吉井幸輔、長州から木戸孝允と広沢真臣、肥後の米田虎雄・長谷川仁右衛門、芸州の辻将曹、土佐の後藤象二郎らが連れ立って、霊山に参拝しています。
言い出したのは薩摩側のようです。ご存じのとおり、霊山には薩摩藩士はあまり祀られておりません。この参拝の意味は奈辺にあるのでしょうか?
考えられるとすれば、江戸での決戦を前にして、霊山の神霊に戦勝を祈願したのでしょうか。あるいは、後藤象二郎も同行したことを考慮すれば、坂本龍馬・中岡慎太郎への墓参も兼ねていたかもしれませんね。
小松・大久保・吉井といえば、龍馬と縁が深かった人物です。


2,西郷吉之助の動静

あと、ドラマでは江戸へ向かう西郷が意固地なまでに討幕の覚悟を固めて、小松との面会さえ断っていました。
しかし、小松は上京してから京都滞在はわずか1週間ほどで、すぐ大坂に下っていますから、ほとんど西郷と会う暇などなかったというのが実情でしょう。

西郷が意固地なまでに徳川打倒にこだわっていた点ですが、西郷の大久保宛て書簡が典拠でしょうかね。それは2月2日付のもので、冒頭に以下のように書かれていました。

「只今別紙相達し申し候、慶喜退隠の歎願、甚だ以て不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候はではあいすまず、必ず越・土などより寛論起り候はんか。然れば、静寛院と申しても、矢張り賊の一味と成りて、退隠くらいにて相済み候事と思し召され候はば、致し方なく候に付き、断然追討在らせられたき事と存じ奉り候」

この本物の書簡を大久保利通の子孫の方から見せていただきましたが、「慶喜」が行末に書かれています。慶喜が賊名を帯びていたからでしょう。本来なら前将軍には「闕字」など敬意を表する書き方をしますが、これはまったく逆で、見下した書き方です。この部分を見ただけでも、西郷の怒りのほどが知れます。
西郷は当初、慶喜に切腹させるつもりだったことがわかります。また和宮に対しても、皇女にもかかわらず、「賊の一味」と厳しい態度をとっています。

なお、この書簡冒頭にある「別紙」がおそらく静寛院宮=和宮が上臈の土御門藤子に預けた助命嘆願書ではないかと思われます。後段に「静寛院」と出てくるのがその根拠です。
もっとも、時系列的にはやや早いかもしれません。和宮の書簡が書かれたのは1月20日。これをもって東海道を上った藤子は2月1日、桑名で和宮のいとこで、東海道鎮撫総督である橋本実梁に会っています。実梁は藤子を上京させて朝廷に書簡を提出させました。藤子が上洛したのは2月6日ですから、在京の西郷(京都進発は2月12日)が見るにはやや早いです。
考えられるのは、実梁から和宮書簡の件で急報が西郷に送られたからではないでしょうか。それでも、桑名からわずか1日で京都まで届くかどうか微妙ではあります。

そして、天璋院が西郷に送ったとされる書簡ですが、前述のように皇女和宮にさえ「賊の一味」と書くほどですから、同様の嘆願書を送った天璋院についても、さらに厳しい態度をとったとしてもおかしくありません。

もっとも、この天璋院書簡を本当に西郷が読んだかどうか定かではありません。
この書簡は「伊地知峻所蔵文書」(維新史料稿本)ですが、宛所は「隊長え」とあるだけで、日にちも記されていません。稿本編纂者はこれを2月とし、「官軍薩藩隊長」宛てとしております。
なぜそのように推定したのかといえば、付属文書があるからです。それは「熊本藩探索書」という肥後藩の史料で、次のように書かれています。

「一、天璋院様より女使[御文持参]西郷吉之助え面会の節、吉之助御書拝見、潜然涕泣しつつ、拝見、終って更に涕泣、やや有て、涙をおさめ、容(かたち)を改め、まさしく手を突き、さてさてかくまで御苦労遊ばされ候段、何とも恐れ入り奉り候、言語に絶し候、右と申すも畢竟(ひっきょう)逆賊慶喜の所業、にくき慶喜に候と申し候」

ドラマでの西郷と幾島の対面の場面は、この史料をもとに構成されたといってよいでしょうね。

今回の個人的な感想として、意外だったことがあります。
ドラマでおそらく天璋院の書簡が西郷への決定打となり、その翻意を促すものだと予想していました。ところが、そうはならなかったので意外でした。
これまで篤姫天動説といってよいほど、いつも篤姫の意向や行動がほとんどすべてを決定していたのに、今回は違いました。
制作側が創作よりも江戸開城の史実に敬意を表したのでしょうかね? これまでの展開や手法と違ったので、逆の意味で解せませんでした(笑)。

まあ、予告を見て謎が解けました。天璋院の作戦が二段重ねになっていたということのようですね。

長くなったので、とりあえずこの辺で。

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【2008/11/24 01:41】 | 篤姫
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記事を読んで
美濃の山賊
NHK大河ドラマ「篤姫」の記事を見てから再度ドラマを見ると背後にある時の流れや意味が良く理解でき、本当の意味でドラマを見る意義があると感じています。

有難うございます
桐野作人
美濃の山賊さん、こんにちは。

コメント有難うございます。
少しでもお役に立っていたら幸いです。


江戸城明渡しと天璋院書簡
板倉丈浩
こんばんは。
大河はいろいろ端折りすぎで、つっこむ気力も失せました(苦笑)
原口清氏の論文『江戸城明渡しの一考察』によると、三条・岩倉・大久保ら新政府首脳は2月下旬の段階で慶喜助命の方針を固めていたものの、越前藩等の寛典論者の動きや慶喜その人に対する警戒感、軍の志気への影響なども考慮して、ごく一部のほかは極秘にされていたということであって、その後の西郷の態度はこの既定方針を外れるものではなかったのだとしています。
ですから、西郷が慶喜を許すかどうかではなく(西郷にそんな権限はなかった)、慶喜の恭順が真実であるかどうかが問題であり、だからこそ、山岡鉄舟の決死の弁明が非常に重要な意味を持っていたんですね。
大河では山岡は存在そのものがカットですから何をかいわんやですが・・・。

>この天璋院書簡を本当に西郷が読んだかどうか定かではありません。

私も同じ疑問を持っておりました。
と言いますのも、「探索書」という史料の性質もありますが、東海道先鋒総督参謀・海江田信義の回顧として、次のような記述があるからです。

東海道先鋒が駿府に駐屯している時、田安家の重臣某等3人が密かに海江田を訪れ、
「慶喜は罪人かもしれないが江戸百万の民は憐れむべきで、どうか戦争を避け寛大な処置を願いたい。静寛院・天璋院も日夜心を痛めている。実は今回の訪問は両院の密意に出たものであって、貴方の尽力で朝廷の寛典を仰ぎたい」と説いたところ、
海江田は「慶喜の首級を軍門に差し出せば江戸の民は救われる。もし戦争になっても密かに両院を連れ出して投降すれば又尽力することもあるだろう」と回答した(『維新前後実歴史伝Ⅱ』P431~432)。

天璋院の嘆願状の内容とも平仄が合いますし、宛先の「隊長」は海江田である可能性が高いと思います。
ちなみに、江戸城明渡しの直前にも田安家の臣某が天璋院の密書を持参して海江田を訪れ、日程を延期するよう嘆願していますので(『維新前後実歴史伝Ⅲ』P27~28)、どういう因縁があるのかわかりませんが、天璋院と田安家は海江田を随分と頼りにしていたようです。

余談ですが、嘆願状の内容やその後の経緯を見ると、天璋院には事情がほとんど知らされておらず、徳川側でも蚊帳の外におかれていたようですね。
最後も「3日間だけ」とか騙されてノコノコ退城してしまったようだし・・・。
もっとも、主人公がそれじゃドラマにならんのでしょうけど(^^;

(追記)
維新史料稿本にはもう一つ「前橋藩庁日記」が付属文書としてありまして、3月18日の伝聞記事として、天璋院が「薩州先手隊長」へ嘆願した筋で、西郷から総攻撃中止の回答があったとあります。
西郷・勝会談の事後の話ですが、西郷が天璋院書簡の存在を承知していた可能性は高いです。
海江田も天璋院の嘆願を放置せず、西郷に報告していたということなんでしょう。

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コメント
この記事へのコメント
記事を読んで
NHK大河ドラマ「篤姫」の記事を見てから再度ドラマを見ると背後にある時の流れや意味が良く理解でき、本当の意味でドラマを見る意義があると感じています。
2008/11/24(Mon) 05:17 | URL  | 美濃の山賊 #-[ 編集]
有難うございます
美濃の山賊さん、こんにちは。

コメント有難うございます。
少しでもお役に立っていたら幸いです。
2008/11/28(Fri) 18:12 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
江戸城明渡しと天璋院書簡
こんばんは。
大河はいろいろ端折りすぎで、つっこむ気力も失せました(苦笑)
原口清氏の論文『江戸城明渡しの一考察』によると、三条・岩倉・大久保ら新政府首脳は2月下旬の段階で慶喜助命の方針を固めていたものの、越前藩等の寛典論者の動きや慶喜その人に対する警戒感、軍の志気への影響なども考慮して、ごく一部のほかは極秘にされていたということであって、その後の西郷の態度はこの既定方針を外れるものではなかったのだとしています。
ですから、西郷が慶喜を許すかどうかではなく(西郷にそんな権限はなかった)、慶喜の恭順が真実であるかどうかが問題であり、だからこそ、山岡鉄舟の決死の弁明が非常に重要な意味を持っていたんですね。
大河では山岡は存在そのものがカットですから何をかいわんやですが・・・。

>この天璋院書簡を本当に西郷が読んだかどうか定かではありません。

私も同じ疑問を持っておりました。
と言いますのも、「探索書」という史料の性質もありますが、東海道先鋒総督参謀・海江田信義の回顧として、次のような記述があるからです。

東海道先鋒が駿府に駐屯している時、田安家の重臣某等3人が密かに海江田を訪れ、
「慶喜は罪人かもしれないが江戸百万の民は憐れむべきで、どうか戦争を避け寛大な処置を願いたい。静寛院・天璋院も日夜心を痛めている。実は今回の訪問は両院の密意に出たものであって、貴方の尽力で朝廷の寛典を仰ぎたい」と説いたところ、
海江田は「慶喜の首級を軍門に差し出せば江戸の民は救われる。もし戦争になっても密かに両院を連れ出して投降すれば又尽力することもあるだろう」と回答した(『維新前後実歴史伝Ⅱ』P431~432)。

天璋院の嘆願状の内容とも平仄が合いますし、宛先の「隊長」は海江田である可能性が高いと思います。
ちなみに、江戸城明渡しの直前にも田安家の臣某が天璋院の密書を持参して海江田を訪れ、日程を延期するよう嘆願していますので(『維新前後実歴史伝Ⅲ』P27~28)、どういう因縁があるのかわかりませんが、天璋院と田安家は海江田を随分と頼りにしていたようです。

余談ですが、嘆願状の内容やその後の経緯を見ると、天璋院には事情がほとんど知らされておらず、徳川側でも蚊帳の外におかれていたようですね。
最後も「3日間だけ」とか騙されてノコノコ退城してしまったようだし・・・。
もっとも、主人公がそれじゃドラマにならんのでしょうけど(^^;

(追記)
維新史料稿本にはもう一つ「前橋藩庁日記」が付属文書としてありまして、3月18日の伝聞記事として、天璋院が「薩州先手隊長」へ嘆願した筋で、西郷から総攻撃中止の回答があったとあります。
西郷・勝会談の事後の話ですが、西郷が天璋院書簡の存在を承知していた可能性は高いです。
海江田も天璋院の嘆願を放置せず、西郷に報告していたということなんでしょう。
2008/12/07(Sun) 00:24 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
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