歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第48回「無血開城」

ドラマ進行時点は、慶応4年(1868)3月。

いよいよ江戸開城まで来ましたね。
史実の基本線は押さえてあったので、まずまずだったのですが、小松帯刀の場面だけは違和感が拭いきれません。結局、小松が幕末維新に果たした役割は何だったんだという気がしますが。

それはさておき、江戸開城に至る西郷吉之助と勝義邦の会談について述べておきます。
配役では、ずっと勝麟太郎と書かれていましたが、ドラマの中では「勝安房守」と呼ばれ、統一がとれていませんでした。島津久光を忠教から久光へと変えるなど、名乗りについてはとても意欲的でしたから残念ですね。島津忠義も同様です(茂久の名乗りが省かれました)。

勝海舟の日記(江戸東京博物館版)によれば、会見は3月13日と翌14日の2回行われています。

会見場所ですが、どうも1カ所だけではなかったようです。ドラマでは薩摩藩邸としか描かれていませんでしたが、薩摩藩の上屋敷である芝本邸は前年のクリスマスに幕府軍によって焼かれています。そのため、近くにある田町屋敷(町屋敷)が会見場所になっています。現在、田町駅近くにある丸い会見の碑のあたりですね。

勁草書房版の海舟日記3月13日条には次のように書かれています。

「高輪薩州の藩邸に出張、西郷吉之助へ面談す」

これによると、1回目の会見は高輪の中屋敷で行われたようです。
2回目の14日が田町屋敷だったとされていますが、一説によれば、田町屋敷近くのしもたや橋本屋で2回目の会見があったともいわれています。

なお、ドラマ最後の「篤姫紀行」では、池上本門寺の松涛園が紹介され、ここで両雄の会見があったと解説されていました。
池上本門寺が3月時点での東征大総督府の本営になっていたのはたしかです。4月4日、西郷は江戸城に乗り込んで、接収の手続きをしました。
その後、同月10日、勝が池上本門寺を訪れて、西郷と対面したといわれています。「篤姫紀行」はこのことを紹介していたわけですね。

もっとも、勝の日記(勁草書房版)によれば、4月9日条に「大久保一翁と共に、池上御先鋒の参謀へ談判す」とあり、翌10日条にも「池上へ行く。咋談ぜし処、皆良しと云う」とありますが、両日とも西郷の名前は出てきません。
9日条の「御先鋒の参謀」とは、東海道先鋒総督府参謀のことで、薩摩の海江田信義と長州藩の木梨精一郎ですね。ですから、この日は西郷と会っていないはずです。会ったとすれば、翌10日でしょうか。確証がつかめません。

ドラマで、勝が西郷との会見の前に、イギリスに江戸城下を焼き払うという情報を流すと天璋院に告げ、会見でも西郷がそのことに触れていました。
両雄の会見で外国の関与があったことを描いたのは大河史上、初めてではないかと思います。もしそうなら画期的です。
イギリス云々の典拠はおそらくアーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)でしょう。次のように書かれています。

「勝は、慶喜の一命を擁護するためには戦争をも辞せずと言い、天皇の不名誉となるばかりでなく、内乱を長引かせるような苛酷な要求は、必ずや西郷の手腕で阻止されるものと信ずると述べた。勝はまたハリー・パークス卿に、天皇の政府に対する卿の勢力を利用して、こうした災いを未然に防いでもらいたいと頼み、長官も再三この件で尽力した」

この一節がドラマに取り入れられたわけですね。なかなかだったと思います。
もっとも、勝がパークスに申し入れた時期が同書には書かれておらず、前後の文脈からすれば、3月14日の会見以降のようにも見えます。

余談ですが、この頃の勝の日記に興味深い記事があります。たとえば、3月16日条には、

「品川にて、薩州の諸隊長相良已下に引合う」

18日条にも「相良へ一書を送る」とあります。
この相良は薩摩藩士の相良治部長発(ながなり)だと思われます。ほかでもない、小松帯刀の次兄です。肝付家の二男に生まれ、相良家の養子となりました。相良家の家格は寄合で、一所持である肝付家や小松家より一段下ですが、それでも門閥家です。

長くなったので、今日はこの辺で。

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【2008/12/01 23:55】 | 篤姫
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お話大変ありがたく思います。
NAO4@吟遊詩人
本当に毎回面白いお話を聞かせていただき、感謝しております。

大河第48回「篤姫紀行」で、池上本門寺が会見場所と紹介され、ドラマ本体の薩摩藩邸と違っていたので、違和感を覚えましたが、桐野様のブログにて氷解いたしました。ありがとうございました。

以下、大河と桐野様のブログに関しまして、いくつかお聞きしたいことがあるのですが、御気が向きましたらお教えいただければ、幸甚でございます。

(1)戊辰戦争が勃発して、東征軍が江戸に到着するまでの間、江戸薩摩藩邸は、薩摩藩士によって確保されていたのでしょうか。
(2)ブログにお書きの薩摩藩士「相良」とは、肥後の大名「相良」氏と関わりのある家柄なのでしょうか。
(3)大河47回から、気になっていたのですが、東征軍の陣所のシーンで、背後の旗が、中央に「錦の御旗」、向って左に島津の「丸に十の字」は分かったのですが、右側の旗がよく分かりませんでNHKに問い合わせたのですが、「薩摩藩の紅白四方の旗」とのつれない(それ以上の解説が無いという意味)回答でした。「四方の旗」とは、「四角形(恐らく方形)の旗」という意味だと思うのですが、つまり何なのでございましょうか。

(3)は、とても恥ずかしいことをお聞きしているのかもしれませんが、またお忙しいところ、大変不躾なことをお聞きしてしまい申し訳ありません。本当に御気が向いたらで結構ですので、ご教示いただければ、ありがたく思います。

お尋ねの件
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

忙しくしていたので返事が遅くなりました。
お尋ねの件ですが、

(1)江戸の薩摩藩邸
 幕末になると、京都が政治の中心になりますので、江戸の藩邸の比重が相対的に低くなる傾向があります。
薩摩藩においても、西郷吉之助が慶応元年(1866)12月に江戸の藩邸引き払いを主張しているくらいです。実際、人員など縮小されたようです。
 そして同3年12月25日、幕府軍によって芝の上屋敷が焼き打ちに遭いました。上屋敷じたいは建物がなくなってしまったと思われます。以降、上屋敷以外の薩摩藩邸もすべて幕府の管理下に入ったものと推定されます。若干の留守の人数はいたかもしれませんが。
 もっとも、翌4年3月、東征軍が江戸に入ってくると、東征軍の主力である薩摩藩への配慮もあって、藩邸は幕府の管理から離れたと思われます。

(2)相良氏
 小松帯刀の兄、相良長発の養家である相良家は、ご推察のとおり、肥後球磨の相良氏と縁があるようです。
 鎌倉時代、相良一族の一人が稲留善介と名乗り、島津忠国に仕えました。戦国時代になって、稲留氏は島津義弘に仕えました。天正初年、球磨の相良義陽が島津氏に降参したとき、稲留新助が義陽のところに使者に発ったとき、義陽と同族ゆえ、相良名字の名乗りを願い出て許されました。
 稲留新助改め、相良日向守長泰となり、これが江戸時代、寄合の相良家の祖となります。

(3)紅白四方の旗?
 薩摩藩の軍旗のシーンをよく見ていなかったもので何ともいえませんし、私も軍旗方面は詳しくないものでして。
 あえて推測すれば、その旗は四角くて、上半分が赤、下半分が白だったでしょうか?
 当時のいわゆる官軍では、その主力を構成する薩長土の三軍の間で、互いに相手を識別できるよう、麾下の各部隊(小隊単位でしょうか)ごとに手旗をもたせています。これが薩長土で、それぞれ色とデザインが異なっていました。たとえば、
鹿児島の黎明館刊行の図録「鹿児島の歴史と文化」によれば、

土佐:縦長旗を上下に三分して、上は赤、中は白、下は赤。
長州:四角い旗を斜めの対角線で分割し、右下が赤、左上が白。
薩摩:縦長を上下に三分して、上は赤、中は黒、下は赤。

これに関しては、玉里島津家所蔵の戊辰戦争絵巻のなかに、長州藩兵が休息している場面がありますが、長州藩の兵士がもっている手旗は上記と同様ですね。

それとは別に、黎明館所蔵の東征軍絵巻のなかに、薩摩藩と思われる砲隊が砲撃している場面が出てきますが、そのなかでは、上が赤、下が白の手旗を立てています。これは上記の薩摩の三分割の手旗と色・デザインとも違います。
ご覧になった「四方の旗」はこのデザインだったでしょうか?

もっとも、小部隊が目印にもっている手旗と、藩の本営に置かれている本陣旗が同じだとは限りませんけれど、上が赤、下が白というデザインでしたら、これらの絵画史料を参考にしたかもしれませんね。

なお、薩摩藩本営に立っていた錦旗、丸十紋旗、赤白四方旗の3種の旗にはそれぞれ、位置づけというか意味があったと思います。
錦旗はご承知の通り、官軍たる東征総督府の旗、
丸十紋旗は島津家、薩摩藩であることを示す藩旗、
赤白四方旗は、官軍に属する一藩を識別するための旗。藩といいながら、あくまで朝廷に属する一官軍部隊という位置づけでしょうか。

どうもありがとうございました。
NAO4@吟遊詩人
きめ細かいコメントをいただき、感激いたしております。ありがとうございました。特に四方の旗の件大分正解に近づいたように思えます。TVで見えた旗というのは、三色旗のように見えました。でもNHKの説明では、「紅白二色」で、影の部分をもう一つの色と勘違いしたのではないかとのコメントでした。お忙しいところ、本当にありがとうございました。

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お話大変ありがたく思います。
本当に毎回面白いお話を聞かせていただき、感謝しております。

大河第48回「篤姫紀行」で、池上本門寺が会見場所と紹介され、ドラマ本体の薩摩藩邸と違っていたので、違和感を覚えましたが、桐野様のブログにて氷解いたしました。ありがとうございました。

以下、大河と桐野様のブログに関しまして、いくつかお聞きしたいことがあるのですが、御気が向きましたらお教えいただければ、幸甚でございます。

(1)戊辰戦争が勃発して、東征軍が江戸に到着するまでの間、江戸薩摩藩邸は、薩摩藩士によって確保されていたのでしょうか。
(2)ブログにお書きの薩摩藩士「相良」とは、肥後の大名「相良」氏と関わりのある家柄なのでしょうか。
(3)大河47回から、気になっていたのですが、東征軍の陣所のシーンで、背後の旗が、中央に「錦の御旗」、向って左に島津の「丸に十の字」は分かったのですが、右側の旗がよく分かりませんでNHKに問い合わせたのですが、「薩摩藩の紅白四方の旗」とのつれない(それ以上の解説が無いという意味)回答でした。「四方の旗」とは、「四角形(恐らく方形)の旗」という意味だと思うのですが、つまり何なのでございましょうか。

(3)は、とても恥ずかしいことをお聞きしているのかもしれませんが、またお忙しいところ、大変不躾なことをお聞きしてしまい申し訳ありません。本当に御気が向いたらで結構ですので、ご教示いただければ、ありがたく思います。
2008/12/03(Wed) 03:35 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #-[ 編集]
お尋ねの件
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

忙しくしていたので返事が遅くなりました。
お尋ねの件ですが、

(1)江戸の薩摩藩邸
 幕末になると、京都が政治の中心になりますので、江戸の藩邸の比重が相対的に低くなる傾向があります。
薩摩藩においても、西郷吉之助が慶応元年(1866)12月に江戸の藩邸引き払いを主張しているくらいです。実際、人員など縮小されたようです。
 そして同3年12月25日、幕府軍によって芝の上屋敷が焼き打ちに遭いました。上屋敷じたいは建物がなくなってしまったと思われます。以降、上屋敷以外の薩摩藩邸もすべて幕府の管理下に入ったものと推定されます。若干の留守の人数はいたかもしれませんが。
 もっとも、翌4年3月、東征軍が江戸に入ってくると、東征軍の主力である薩摩藩への配慮もあって、藩邸は幕府の管理から離れたと思われます。

(2)相良氏
 小松帯刀の兄、相良長発の養家である相良家は、ご推察のとおり、肥後球磨の相良氏と縁があるようです。
 鎌倉時代、相良一族の一人が稲留善介と名乗り、島津忠国に仕えました。戦国時代になって、稲留氏は島津義弘に仕えました。天正初年、球磨の相良義陽が島津氏に降参したとき、稲留新助が義陽のところに使者に発ったとき、義陽と同族ゆえ、相良名字の名乗りを願い出て許されました。
 稲留新助改め、相良日向守長泰となり、これが江戸時代、寄合の相良家の祖となります。

(3)紅白四方の旗?
 薩摩藩の軍旗のシーンをよく見ていなかったもので何ともいえませんし、私も軍旗方面は詳しくないものでして。
 あえて推測すれば、その旗は四角くて、上半分が赤、下半分が白だったでしょうか?
 当時のいわゆる官軍では、その主力を構成する薩長土の三軍の間で、互いに相手を識別できるよう、麾下の各部隊(小隊単位でしょうか)ごとに手旗をもたせています。これが薩長土で、それぞれ色とデザインが異なっていました。たとえば、
鹿児島の黎明館刊行の図録「鹿児島の歴史と文化」によれば、

土佐:縦長旗を上下に三分して、上は赤、中は白、下は赤。
長州:四角い旗を斜めの対角線で分割し、右下が赤、左上が白。
薩摩:縦長を上下に三分して、上は赤、中は黒、下は赤。

これに関しては、玉里島津家所蔵の戊辰戦争絵巻のなかに、長州藩兵が休息している場面がありますが、長州藩の兵士がもっている手旗は上記と同様ですね。

それとは別に、黎明館所蔵の東征軍絵巻のなかに、薩摩藩と思われる砲隊が砲撃している場面が出てきますが、そのなかでは、上が赤、下が白の手旗を立てています。これは上記の薩摩の三分割の手旗と色・デザインとも違います。
ご覧になった「四方の旗」はこのデザインだったでしょうか?

もっとも、小部隊が目印にもっている手旗と、藩の本営に置かれている本陣旗が同じだとは限りませんけれど、上が赤、下が白というデザインでしたら、これらの絵画史料を参考にしたかもしれませんね。

なお、薩摩藩本営に立っていた錦旗、丸十紋旗、赤白四方旗の3種の旗にはそれぞれ、位置づけというか意味があったと思います。
錦旗はご承知の通り、官軍たる東征総督府の旗、
丸十紋旗は島津家、薩摩藩であることを示す藩旗、
赤白四方旗は、官軍に属する一藩を識別するための旗。藩といいながら、あくまで朝廷に属する一官軍部隊という位置づけでしょうか。
2008/12/07(Sun) 13:09 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
どうもありがとうございました。
きめ細かいコメントをいただき、感激いたしております。ありがとうございました。特に四方の旗の件大分正解に近づいたように思えます。TVで見えた旗というのは、三色旗のように見えました。でもNHKの説明では、「紅白二色」で、影の部分をもう一つの色と勘違いしたのではないかとのコメントでした。お忙しいところ、本当にありがとうございました。
2008/12/09(Tue) 02:37 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #-[ 編集]
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 うーむ、どうもこのドラマ終始一貫して、天璋院を中心に歴史を動かしたいようですね...
2008/12/02(Tue) 09:40:55 |  旅じゃ.com
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