歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨夜、小学館古文書講座「てらこや」に出講。

幕末薩摩藩と小松帯刀」シリーズ4もいよいよ最終回(第5回)となった。
前回、将軍家茂の死について考えたが、その続きととして、同年に亡くなった孝明天皇の死を取り上げた。

孝明天皇の死について、毒殺説を唱える向きは、どちらかといえば、佐幕系の人々が多い。孝明天皇は一会桑勢力を信任してその後ろ盾になっていたから、その死は結果として薩長勢力を利した。だから、利益を得た薩長が怪しいという三段論法である。とくに、岩倉具視がその黒幕だとされることが多い。

そのような俗説だけではなく、戦後の学会においても、毒殺説と病死説が対立し、どちらかといえば、前者が優勢な時期があった。その代表であるねずまさし氏と、悪性疱瘡による病死説をとる原口清氏の説を比較検討した。

ねず説はもう50年以上前に公表されたものだから、叙述が粗っぽいように感じた。文久2年(1862)の和宮降嫁のときでも、岩倉には天皇暗殺未遂の前科があったとか、とても信じられそうもないことを書いているし、慶応2年(1866)段階で、討幕派が孝明天皇を毒殺したという結論も納得しがたい。すでに原口氏も批判しているが、同年に「討幕派」なるものは存在しないし、岩倉にしても、「王政復古派」ではあっても、同年に「討幕」など考えてもいない。
また、実際に毒殺を誰がどのようにして行ったかも漠然としていて、推測の域を出ないと感じられた。

一方、原口説は理路整然としている印象を受けた。
まず、天皇が疱瘡になったことは毒殺説の研究者も否定していないが、疱瘡を医学的に見れば、完治する良性と死に至る悪性の2種があり、原口氏は孝明天皇の症状が悪性の出血性膿疱性疱瘡の症状を示しているとして、この悪性疱瘡によって病死したと結論づけている。

今回は珍しく、疱瘡について詳しく書かれているウィルス感染症の医学書まで援用して検討した。
争点となっているのは、孝明天皇が疱瘡を発症した12月12日から順調に快癒に向かっていたのに、24日夜頃に病状が急変して重態に陥り、翌25日に死去したことをどう解するかという点である。
毒殺説は、快方に向かっていたのに病状が急変したのは毒を盛られたからだというわけである。
しかし、原口氏は快方に向かっていたとするのは主治医たちの政治的配慮による公式発表にすぎず、実際は悪質な疱瘡であるという認識を持っていたこと、またそれを裏づける中山慶子(明治天皇生母)の書簡や山科言成の日記などがあることをあげて、決して快方には向かっておらず、悪性疱瘡の進行症状を示しており、その結果としての死があったとしている。

原口氏はその後、毒殺説(とくに石井孝氏の急性砒素中毒説)に対して、医学者に孝明天皇の病状が書かれた史料を示して、砒素中毒とは考えられないこと、これらの症状は重症感染性の病気の末期症状に共通して現れるものだという証言を引き出している。

原口説で紹介された『孝明天皇紀』『中山忠能日記』などを検討し、また薩摩藩側の史料でも、孝明天皇の死を藩内に告知した「主上崩御藩内布告」のなかに、天皇の疱瘡が「表向は御軽目の筋」としていたが、実際は「全体初発より御難痘の御煩」だったとあり、原口説を裏づける記述があったのを確認。

全体的に原口説の優位は明らかで、病死説に軍配が上がるように思う。天皇の容態が急変したとされる以前に、疱瘡の症状が重かったことを示す史料が複数存在することから、容態急変という見方は必ずしも正確ではないという印象を受けた。
ただ、24日前後の症状について、もう少し詳しい史料があればよいのにと思ったが、こればかりはないものねだりだろう。

とくに、黒幕とされることが多い岩倉具視が孝明天皇の死を知ってどのような感慨を抱いたかについても本人の坂木静衛宛て書簡を紹介した。
「仰天驚愕、じつに言う所を知らず、天、皇国を亡ぼさんとするや、臣進退ここに極まり、血泣鳴號無量の極に至れり」
と書かれている。もし岩倉が黒幕なら、この悲嘆落胆ぶりはまっ赤な芝居になるわけだが、さすがにそれはないだろうと感じた。

今回のレジュメはじつに19枚の多数。
さて、これを時間内にこなしきれるかと思ったが、意外にも30分も時間が余ってしまい、少しあわてた。それで、孝明天皇の死去の政治的な背景について、雑談風に語ることにした。

原口氏は孝明天皇と岩倉具視の間に基本的な対立はないとするが、必ずしもそうではないかもしれないと話す。
とくに慶応2年の8・30列参運動は孝明天皇への圧力であり、岩倉が深く関わっていることは間違いない。そこには孝明天皇の一会桑への大政委任と、岩倉の王政復古論との立場の違いが表れているような気もすると話した。もっとも、だからといって、それゆえ毒殺したとするのは飛躍だとも話した。
また近年、仙波ひとみ氏が明らかにしているように、岩倉は近習番として若い頃から天皇の最側近だったわけで、そのような人物が忠誠を誓っている「主君」に対して毒殺しようと発想することはないだろうという話もした。
受講生からも、8・30列参は天皇に対してというより、一会桑を支える二条関白-尹宮(朝彦親王)排除が目的だったのではなかったかという指摘もあり、なるほどと思った。

そうした雑談が1時間も続き、受講生からも率直な意見や疑問が出されて、結局、30分も超過してしまった。

来年1月から、同シリーズ5を続けたいと思います。
今度はいよいよ激動の慶応3年に入りそうです。
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【2008/12/10 20:01】 | てらこや
トラックバック(0) |

説得力ございます。
NAO4@吟遊詩人
「ブログ」、「さつま人国誌」いつも楽しく拝見させていただいております。
私はずっと、「孝明天皇の死」は、(タイミングが良すぎるので)薩長の仕業(あるいは岩倉卿)と思っておりまして、説得力のあるご考察いただき、感心いたしております。

そういう意味で、岩倉具視の坂木静衛宛書簡というものは重要な意味を持っているように思えます。またしても、お恥ずかしい質問をしてしまうようで、申し訳ありません。この「坂木静衛」とは、どういう方なのでしょうか。かなり岩倉に近い人物であるほど、書簡の信憑性が高まるように思えまして。

坂木静衛
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

いつもブログを読んでいただき、有難うございます。

お尋ねの件ですが、坂木静衛は坂木下枝(さかき・しずえ)と書かれることが多く、のちに原遊斎とも名乗っています。

国学の平田家の門人帳にも名前が見えることから、平田国学の徒であったと思われます。
『平田篤胤全集』別巻に「門人姓名録」として、坂木下枝こと原幽斎が立項されています。それを紹介しますと、

「名越舎門に入り、但し医学、三州刈谷藩士伊藤三弥、其の師松本謙三郎と大和一挙に加わり、半途脱走、原遊斎と変名し、伴野村なる竹村[松尾]多勢子の方に潜み、元治元年権田翁の許に来り入門、尋で(ついで)江川英竜の門に入り、岩倉具視卿の内執事となり、後改め坂木謙三、又改め伊藤謙吉、三重県代議士[同県書記官より後也]、懇親」

これによると、三河刈谷藩士で、伊藤三弥が本名のようです。
天誅組の挙兵に加わって脱走し、信州伊那郡伴野村の松尾多勢子のもとに隠れ、のち、その同志で平田門下の権田直助に入門し、江川坦庵にも入門(砲術を学んだのでしょうか)し、その後、岩倉具視の内執事をしています。

ですから、坂木静衛は岩倉の最側近ということになりますね。
岩倉のこの書簡は身近の側近に真情を吐露したと考えてよいかと思います。

ありがとうございました。
NAO4@吟遊詩人
>坂木静衛
お教えいただきありがとうございました。
とても私のような素人では到達し難い情報だと思います。
本当にありがとうございます。




内執事
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

前回コメントでご指摘のように、坂木静衛宛て書簡は、岩倉の孝明天皇の死に対する思いを表したものとして、そして岩倉の潔白を示すものとして、とても重要な史料だと思います。

内執事をどう表現したらいいかわかりませんでしたが、あえていえば、秘書役でしょうかね。
いずれにしろ、岩倉の政治活動を補佐する重要人物だったと思います。

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この記事へのコメント
説得力ございます。
「ブログ」、「さつま人国誌」いつも楽しく拝見させていただいております。
私はずっと、「孝明天皇の死」は、(タイミングが良すぎるので)薩長の仕業(あるいは岩倉卿)と思っておりまして、説得力のあるご考察いただき、感心いたしております。

そういう意味で、岩倉具視の坂木静衛宛書簡というものは重要な意味を持っているように思えます。またしても、お恥ずかしい質問をしてしまうようで、申し訳ありません。この「坂木静衛」とは、どういう方なのでしょうか。かなり岩倉に近い人物であるほど、書簡の信憑性が高まるように思えまして。
2008/12/14(Sun) 11:52 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
坂木静衛
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

いつもブログを読んでいただき、有難うございます。

お尋ねの件ですが、坂木静衛は坂木下枝(さかき・しずえ)と書かれることが多く、のちに原遊斎とも名乗っています。

国学の平田家の門人帳にも名前が見えることから、平田国学の徒であったと思われます。
『平田篤胤全集』別巻に「門人姓名録」として、坂木下枝こと原幽斎が立項されています。それを紹介しますと、

「名越舎門に入り、但し医学、三州刈谷藩士伊藤三弥、其の師松本謙三郎と大和一挙に加わり、半途脱走、原遊斎と変名し、伴野村なる竹村[松尾]多勢子の方に潜み、元治元年権田翁の許に来り入門、尋で(ついで)江川英竜の門に入り、岩倉具視卿の内執事となり、後改め坂木謙三、又改め伊藤謙吉、三重県代議士[同県書記官より後也]、懇親」

これによると、三河刈谷藩士で、伊藤三弥が本名のようです。
天誅組の挙兵に加わって脱走し、信州伊那郡伴野村の松尾多勢子のもとに隠れ、のち、その同志で平田門下の権田直助に入門し、江川坦庵にも入門(砲術を学んだのでしょうか)し、その後、岩倉具視の内執事をしています。

ですから、坂木静衛は岩倉の最側近ということになりますね。
岩倉のこの書簡は身近の側近に真情を吐露したと考えてよいかと思います。
2008/12/16(Tue) 14:09 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
ありがとうございました。
>坂木静衛
お教えいただきありがとうございました。
とても私のような素人では到達し難い情報だと思います。
本当にありがとうございます。


2008/12/18(Thu) 00:06 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
内執事
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

前回コメントでご指摘のように、坂木静衛宛て書簡は、岩倉の孝明天皇の死に対する思いを表したものとして、そして岩倉の潔白を示すものとして、とても重要な史料だと思います。

内執事をどう表現したらいいかわかりませんでしたが、あえていえば、秘書役でしょうかね。
いずれにしろ、岩倉の政治活動を補佐する重要人物だったと思います。
2008/12/18(Thu) 00:23 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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