歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第89回
―外交に八面六臂の活躍―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回も前回に引きつづいて小松帯刀のことを書きました。
あまり知られていない明治時代の足跡についてです。
記事にも書きましたが、小松は外交畑で活躍しています。
頻発する外国人殺傷事件の処理に東奔西走しながら、諸外国との交渉をきっちりやっております。
五代友厚・松木弘安(寺島宗則)・伊藤博文・大隈重信といった有能な配下にも恵まれていたからでしょう。

慶応4年=明治元年といえば、一般に戊辰戦争(北越戦争、会津戦争を中心に)のイメージが強く、新政府側でもそれに関わった武官(西郷隆盛・大村益次郎・板垣退助など)のほうが注目を浴びがちですが、新政府を立ち上げる仕事はむしろ、外交・行政面が重要でした。

そのなかで、小松は外交面をほとんど一手に引き受けていたといっても過言ではありません。これは一番の友好国である英国(パークス、サトウなど)との人脈の強さに与っている面もありますが、小松の交渉能力の高さを評価すべきでしょうね。

小松の役職の一覧を掲げましたが、このうち、玄蕃頭の位置づけが難しいですね。明らかに律令官制に基づく官職ですから。
慶応4年(1868)2月、「三職八局」の制ができました。小松が就任した参与と総裁局顧問は、それぞれ三職と八局のひとつです。

その後、同年閏4月の政体書により、太政官制度が始まります。このとき、立法・行法(行政)・司法の三権が成立しました。
このうち、行法を管轄する行政官の下に、神祇官・会計官・軍務官・外国官・民部官が設けられ、小松は外国官の副知官事(次官)に任命されます。知官事や副知官事は公家や大名が任命されるのが原則でしたが、藩士身分で初めて任命されたのが小松です。この異例の人事については次回連載で書こうと思っています。

外国官はのちの外務省の前身になりますが、小松はその副知官事への任命と同時に、玄蕃頭に任ぜられました。「薩藩小松帯刀履歴」には、小松を玄蕃頭に任ずる宣旨が収録されています。

王政復古により、古代律令制の太政官が復活したわけですが、それは名称は同じでも、中味は古代のままではもちろんありえませんでした。
しかし、小松の玄蕃頭任官は明らかに官職であり、副知官事の役職に屋上屋を重ねるようなものですね。
この時期、このような古色蒼然たる律令官職を与えられた人は小松のほかにいるんでしょうか?
翌2年に弾正台(これも律令官制)が設けられ、たとえば、海江田信義はその三等官である弾正大忠に任ぜられていますが、小松の玄蕃頭とは少し趣が異なるような気がしています。
なぜなら、弾正台と対応する玄蕃寮は設けられていないからです。玄蕃頭は本来、律令制における玄蕃寮の長官ですが、小松の玄蕃頭は、創設されていない玄蕃寮とは無関係に存在する官職だと思われます。

そうなると、小松の玄蕃頭は役職の如何にかかわらず、永久称号のようにも見えます。
果たして、特殊な事例なのでしょうか。自分でも回答が見つけられずにおります。明治草創期の太政官制度にはまったく疎いもので、もしご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

次回は、小松の外国官副知官事就任と大隈重信について書く予定です。

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【2008/12/20 11:16】 | さつま人国誌
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明治の小松さん
よこよこ
桐野さん、こんばんは。
明治の小松さんのことは、なかなか詳しい書物が無いので、とても嬉しいです。
「さつま人国誌」も拝見いたしました。
次回も引き続き小松さんのことの様なので、とても楽しみです。
NHKの大河も「天地人」へまっしぐらの様子。
ちょっと寂しいですが・・・
私の中では、これからも薩摩の事を見ていたい気持ちでいっぱいです。
来年も是非、鹿児島へ行きたいと思っております。
今年は時間の関係で、少ししか廻れませんでしたから。

これからも、桐野さんのプログ楽しみにしております。
そして、また時間が折り合えば、講演会の方へもお邪魔したいと思います。

PS.遅ればせながら、50万アクセスおめでとうございます。

玄蕃頭
板倉丈浩
こんにちは。
今年一年お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

さて、私も明治草創期の太政官制度には詳しいわけではないのですが、新政府発足後も明治2年7月の職員令制定までは律令官制が残存しており、岩倉が右兵衛督になったり、鍋島直大が左近衛権少将になったりしていますから、小松の玄蕃頭も旧官制での任官と見るのが妥当だと思います。
ただこの時期、藩士クラスの旧官制での(叙位はともかく)任官は管見の限り他に例がありませんので、異例中の異例だったことは間違いありません。

その背景ですが、明治元年閏4月の政体書公布に伴い、藩士出身の参与9人(小松、大久保、木戸、広沢、後藤、福岡、副島、三岡、横井)に従四位下が授けられていますが、小松は彼ら新政府の中心メンバーの中でも一段身分が高いので、外国官副知官事任命にあたって諸侯に準ずる扱いを受けたということなのではないでしょうか。

諸大夫成か公家成か
桐野作人
板倉丈浩さん、こんにちは。

さっそくのご教示有難うございます。

なるほど、玄蕃頭が従四位下・外国官副知官事とセットになっているのがよくわかりました。
副知官事は本来、公家か大名の役職で、家老とはいえ、陪臣の小松が任ぜられるのは異例なこと。

仰せのように、小松は諸侯に準じたというか、諸侯扱いされたわけですね。それなら、諸侯にふさわしく、通称官途を帯びる。それが玄蕃頭だというわけですか。
小松に与えられた玄蕃頭の宣旨は、諸侯に与えられる官位文書と様式が同じだと思います。

小松の場合、諸大夫成か、公家成か、微妙なところですね。
位階は従四位下ですから、公家成(四位以上、侍従以上)のようでもあり、武家官位(侍従や少将など)が伴っていないので、もしかしたら、近世武家官位制でいう「四品」(四位の諸大夫)かもしれず。

どちらにしろ、謎がかなり解けたような気がします。
有難うございます。

なお、鍋島直大の近衛左少将は、国持外様にふさわしい公家成の武家官位で、江戸時代のそれを引きずっているのではありますまいか?


ありがとうございます
桐野作人
よこよこさん、こんにちは。

今年は講座に参加され、鹿児島での講演会にもわざわざご出席いただき、有難うございました。

小松に関しては、まだまだこだわっていきたいと思っております。
今後ともブログなど、よろしくお願いします。

維新前後の身分制度
板倉丈浩
こんばんは。

>諸大夫成か、公家成か

小松ら従四位下参与は昇殿が許されていますので公家成と同じ扱いなんですけど、ご指摘のとおり、国持大名とは官途名で差をつけているようにも見えますね。

あと、先のコメントへの補足ですが、小松以外にも陪臣の任官例はあるようです↓
http://www1.doshisha.ac.jp/~takusemi/nishitaku/study/jinkai/0110kenkyukai.htm
ただし、長岡護美は藩主の弟で、青木研蔵と伊東方成は医者ですから、やはり小松の任官が異例ということは言えると思います。

公家成
桐野作人
板倉丈浩さん、こんばんは。

再度のご教示、感謝です。
ご紹介のサイト見てみました。
それによれば、陪臣で任官した人が3人かいるようですね。もっとも、小松以外の2人は公家成はおろか、諸大夫成でもないと思います。そうであれば、小松の事例はやはり特殊ですね。
しかも、御車寄の特権を与えられ、昇殿も許されたとなると、明らかに公家成ですね。
それが四位以上の位階を標識にしているとすれば、西郷・大久保らも同様だったということになりそうです。もっとも、最初が小松で、そののち、西郷・大久保でしょう。

なお、藩主島津忠義も慶応四年に四位に叙せられていますから、小松は位階の上では、藩主並みになったわけですね。恐れ多いと辞退したくなるのもわかります(笑)。

前回のコメントをヒントにさせていただき、連載コラムに少し書きました。ご教示有難うございました。


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コメント
この記事へのコメント
明治の小松さん
桐野さん、こんばんは。
明治の小松さんのことは、なかなか詳しい書物が無いので、とても嬉しいです。
「さつま人国誌」も拝見いたしました。
次回も引き続き小松さんのことの様なので、とても楽しみです。
NHKの大河も「天地人」へまっしぐらの様子。
ちょっと寂しいですが・・・
私の中では、これからも薩摩の事を見ていたい気持ちでいっぱいです。
来年も是非、鹿児島へ行きたいと思っております。
今年は時間の関係で、少ししか廻れませんでしたから。

これからも、桐野さんのプログ楽しみにしております。
そして、また時間が折り合えば、講演会の方へもお邪魔したいと思います。

PS.遅ればせながら、50万アクセスおめでとうございます。
2008/12/20(Sat) 19:42 | URL  | よこよこ #InlOuoXs[ 編集]
玄蕃頭
こんにちは。
今年一年お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

さて、私も明治草創期の太政官制度には詳しいわけではないのですが、新政府発足後も明治2年7月の職員令制定までは律令官制が残存しており、岩倉が右兵衛督になったり、鍋島直大が左近衛権少将になったりしていますから、小松の玄蕃頭も旧官制での任官と見るのが妥当だと思います。
ただこの時期、藩士クラスの旧官制での(叙位はともかく)任官は管見の限り他に例がありませんので、異例中の異例だったことは間違いありません。

その背景ですが、明治元年閏4月の政体書公布に伴い、藩士出身の参与9人(小松、大久保、木戸、広沢、後藤、福岡、副島、三岡、横井)に従四位下が授けられていますが、小松は彼ら新政府の中心メンバーの中でも一段身分が高いので、外国官副知官事任命にあたって諸侯に準ずる扱いを受けたということなのではないでしょうか。
2008/12/21(Sun) 09:49 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
諸大夫成か公家成か
板倉丈浩さん、こんにちは。

さっそくのご教示有難うございます。

なるほど、玄蕃頭が従四位下・外国官副知官事とセットになっているのがよくわかりました。
副知官事は本来、公家か大名の役職で、家老とはいえ、陪臣の小松が任ぜられるのは異例なこと。

仰せのように、小松は諸侯に準じたというか、諸侯扱いされたわけですね。それなら、諸侯にふさわしく、通称官途を帯びる。それが玄蕃頭だというわけですか。
小松に与えられた玄蕃頭の宣旨は、諸侯に与えられる官位文書と様式が同じだと思います。

小松の場合、諸大夫成か、公家成か、微妙なところですね。
位階は従四位下ですから、公家成(四位以上、侍従以上)のようでもあり、武家官位(侍従や少将など)が伴っていないので、もしかしたら、近世武家官位制でいう「四品」(四位の諸大夫)かもしれず。

どちらにしろ、謎がかなり解けたような気がします。
有難うございます。

なお、鍋島直大の近衛左少将は、国持外様にふさわしい公家成の武家官位で、江戸時代のそれを引きずっているのではありますまいか?
2008/12/21(Sun) 15:13 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
ありがとうございます
よこよこさん、こんにちは。

今年は講座に参加され、鹿児島での講演会にもわざわざご出席いただき、有難うございました。

小松に関しては、まだまだこだわっていきたいと思っております。
今後ともブログなど、よろしくお願いします。
2008/12/21(Sun) 15:59 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
維新前後の身分制度
こんばんは。

>諸大夫成か、公家成か

小松ら従四位下参与は昇殿が許されていますので公家成と同じ扱いなんですけど、ご指摘のとおり、国持大名とは官途名で差をつけているようにも見えますね。

あと、先のコメントへの補足ですが、小松以外にも陪臣の任官例はあるようです↓
http://www1.doshisha.ac.jp/~takusemi/nishitaku/study/jinkai/0110kenkyukai.htm
ただし、長岡護美は藩主の弟で、青木研蔵と伊東方成は医者ですから、やはり小松の任官が異例ということは言えると思います。
2008/12/23(Tue) 19:57 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
公家成
板倉丈浩さん、こんばんは。

再度のご教示、感謝です。
ご紹介のサイト見てみました。
それによれば、陪臣で任官した人が3人かいるようですね。もっとも、小松以外の2人は公家成はおろか、諸大夫成でもないと思います。そうであれば、小松の事例はやはり特殊ですね。
しかも、御車寄の特権を与えられ、昇殿も許されたとなると、明らかに公家成ですね。
それが四位以上の位階を標識にしているとすれば、西郷・大久保らも同様だったということになりそうです。もっとも、最初が小松で、そののち、西郷・大久保でしょう。

なお、藩主島津忠義も慶応四年に四位に叙せられていますから、小松は位階の上では、藩主並みになったわけですね。恐れ多いと辞退したくなるのもわかります(笑)。

前回のコメントをヒントにさせていただき、連載コラムに少し書きました。ご教示有難うございました。
2008/12/23(Tue) 22:33 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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