歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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クリスマスの25日(木)早朝、三条京阪から伏見へ行く。

伏見の薩摩藩邸跡に建碑されることになった。
この夏、小松帯刀寓居参考地の石碑も建立した京都歴史地理同考会(理事長:中村武生氏)の手によるもの。

建碑場所は酒造会社月桂冠の関連会社である松山酒造さんの敷地の正門横。人目につきやすい格好の場所である。敷地を提供いただいたオーナーさんに感謝。

早朝にもかかわらず、同会の熱心なみなさんが50人くらい集まる。月桂冠の関係者のほか、伏見区長までおいでになった。
布被った石碑






中村武生氏から私にも挨拶するように耳打ちされ、しかたなく前の来賓席に座らされる。
除幕式が始まり、月桂冠さんや伏見区長さんの祝辞が述べられる。月桂冠さんが責任をもって管理してくださるという約束があり、有難い。それもこれも、主催者側の熱意が地主さんを動かしたのだろう。
建碑参加者





私はというと、中村氏が同屋敷の由緒来歴を少しは話してくれるかと思ったら、ほとんど話がなかったため、少し長い話になった。だいたい、この屋敷は江戸・京都・大坂の藩邸とくらべて、史料が非常に少ない。だから、それほど話せないのだが、最近気づいた点を3点ほど触れた。

1,同屋敷の成立はいつ頃か
 これについては、前もって中村氏から遅くとも寛文10年(1670)まで遡れるのではと教えていただいていたので、少し調べてみた。『旧記雑録追録』一によれば、慶安2年(1649)に薩摩藩が琉球使節を伴って出府したとき、大坂から江戸までの経路と宿泊地について問い合わせた幕府老中の文書があり、伏見に宿泊していることがわかったので、それを紹介したが、果たして、その頃に藩邸が存在していたかどうかは定かではない。可能性のひとつとしてお話しした。

2,伏見藩邸の立地と位置づけ
篤姫が鹿児島から輿入れした前後、伏見藩邸のことが少しわかる。
嘉永5,6年(1852,53)、島津斉彬が参勤交代で伏見に宿泊している。そのことを書き留めた側用人の山田為正(斉彬の遺言を書き留めた人)の日記によれば、「伏見御仮屋下え着船」とある。
現地に行けばわかるように、伏見藩邸跡の前には水量豊かな濠川が流れており、寺田屋にもつながっている。寺田屋で襲撃された坂本龍馬は、薩摩藩伏見屋敷に駐在していた大山彦八(巌の兄)に助けられて藩邸に収容されるが、大山はこのとき、濠川を船で往来している。船がとても便利な交通手段だったことがわかる。
山田もまた同様に、伏見藩邸の下まで大坂から船でやってきたことがわかる。

なお、山田は伏見藩邸のことを「御仮屋」(おかりや)と表現している。これは山田に限らず、ほかの史料にも見える。ふつう、薩摩で御仮屋といえば、地頭や私領主(一門四家や一所持など)の居館を意味する。しかし、これは少し意味が異なり、参勤交代にまつわる用語のようで、休息所を意味する「御茶屋」に対して,宿泊所を意味していると思われる。
他の藩邸とくらべて、「屋敷」とあまり呼ばれた形跡がない。その証拠に、藩政史料を集成した『藩法集』鹿児島藩編には、伏見藩邸は立項してない。江戸・京都・大坂そして長崎はあるのに伏見はないのだ。そのことと、「御仮屋」という名称に関連があるのかないのか。
ともあれ、伏見藩邸は三都の藩邸とは少し位置づけが違っている(格下)のではないかと思う。

また、江戸・京都・大坂の三都の藩邸はどれも「~屋敷」と呼ばれ、その責任者は「留守居」である(長崎は「付人」)。それに対して、伏見の責任者は「」(もり)と呼ばれている。嘉永年間の伏見御仮屋の守は友野七郎左衛門である。この人はあちこちに名前が出てくる。

3,伏見藩邸にまつわる人々
これは、篤姫や斉彬はもちろんである。そして一番有名なのが坂本龍馬とお龍であろう。
そのほかに、篤姫の老女として今年一躍脚光を浴びた幾島も来ている。幾島は近衛忠煕に島津家から嫁いだ郁姫(島津斉宣の娘)付きの老女だったが、郁姫が没したのち、髪を下ろして得浄院と名乗った。その名前で山田の日記に頻繁に出てきて、伏見藩邸にも山田を訪ねて来ている。
なぜ幾島が登場するのかといえば、斉彬からの進物の確認、斉彬の入京と近衛邸訪問の事前打ち合わせなどのためである。
幾島が仕事相手の山田に手許不如意を訴えて、給金を上げてもらっているのが面白い。主人の郁姫が亡くなったため、付け届けその他の役得がなくなってしまったからではないだろうか。

というような拙い話をした。

その後、除幕式となる。関係者や来賓のみなさんの手によって、石碑が姿を現した。
除幕式

石碑






今後、この石碑が伏見の幕末史跡のなかで、大きな目印になることは間違いないだろう。とくに寺田屋を訪れる人はこちらもぜひ観ていただきたいものである。
メディアの関心も高く、事前に読売が紹介記事を書き、除幕式の記事も京都、朝日、南日本などが書いてくれたようである。

式の終了とともに雨が降り出した。
式のあと懇親会も予定されていたが、私は名古屋での講座があるため、失礼した。盛会だったと聞いた。

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【2008/12/28 13:11】 | イベント
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お疲れさまでした
武藤 臼
なにか役に立つことを期待して
記憶と記録に留めておきます。

恐縮です
桐野作人
武藤臼さん、こんばんは。

伏見の建碑の件、お知らせすればよかったですかね?
平日の午前中だったのものですから、失礼しました。

こちらこそ
武藤 臼
お気遣いおそれいります。
残念ながら、お招き頂いても無理でしたので^^

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コメント
この記事へのコメント
お疲れさまでした
なにか役に立つことを期待して
記憶と記録に留めておきます。
2008/12/28(Sun) 16:03 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
恐縮です
武藤臼さん、こんばんは。

伏見の建碑の件、お知らせすればよかったですかね?
平日の午前中だったのものですから、失礼しました。
2008/12/31(Wed) 00:58 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
こちらこそ
お気遣いおそれいります。
残念ながら、お招き頂いても無理でしたので^^
2009/01/04(Sun) 03:50 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
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