歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨年暮れの話題で恐縮です。

書くのがすっかり遅れてしまいましたが、12月25日、名古屋の栄・中日文化センターに出講。
講座「本能寺の変を読み解く」第3回です。

今回のテーマは「長宗我部氏と織田権力」。
天正3年(1575)、両者の同盟以来、同9年あたりから同盟が崩壊しそうな前兆までをやる。

とくに、元親が秀吉に宛てた書状(「吉田文書」)をかなり詳しく取り上げた。
元親は秀吉に三好康長の動静を尋ねている。讃岐に上陸したのではないかと不安げである。
この書状で面白いのは、同年7月までに本願寺の顕如・教如親子が降伏したのち、それに不満な主戦派の牢人衆が渡海して阿波勝瑞城を乗っ取ったという記述である。
そのとき、三好存保はどうしていたのか、牢人衆とは誰かなど興味は尽きないが、どうも、牢人衆は反信長派だった三好存保に庇護を求めたのではないかと思われる。
また、「紀伊之輩」もこれに加わっているとあるが、おそらく雑賀衆の土橋派だろう。雑賀衆主戦派の阿波進出により、阿波南半の有力者新開道善が離反するなど、元親は阿波の平定に難問を抱え込んでいたようである。
三好康長の讃岐渡海はおそらく信長の命であり、阿波を元親だけに任せられなくなったという信長の判断ではないかという気がする。

この書状で、元親は讃岐・阿波両国の帰属を条件に、信長の西国攻め(毛利攻め)に協力を惜しまないと強調している。裏を返せば、この条件が満たされないか反古にされたら、その限りではないということで、実際、その通りに展開していく。

信長は翌9年に毛利氏への総攻撃を計画していた(実際は1年延期されるが)。
そのために、九州の島津・大友の和平を調停し、四国においても毛利攻めの態勢構築を急いだ。その過程で、元親の要求がわがままに映ったのではないか。我欲ばかりで「天下」へ奉公しようとしないと見切られてしまった可能性がある。

そんな話をした。
次回は、神戸信孝の登場と四国問題を取り上げる予定。

講座終了後、主催者側と「本能寺の変」ツアーの打ち合わせ。
4月23日(木)早朝、名古屋栄の中日文化センター集合の日帰りツアー。
主な探訪地は、丹波亀岡(光秀の亀山城)から光秀の進撃ルートを辿り、洛中の本能寺関係史跡をめぐる。最後は小栗栖で締めるということになりそう。

詳細は正式に決定してからまた告知します。
東海方面の方々のご参加をお待ちしております。

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【2009/01/03 17:53】 | 中日文化センター
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2009/01/08(Thu) 22:52 |   |  #[ 編集]
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