歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第91回
―大胆な旧習打破の企て―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

先週は正月三が日でお休みしましたので、今回からが今年の始動になります。
大久保利通の大坂遷都論について書いてみました。

大久保がなぜ大坂に首都を移そうとしたのか、その理由がよくわかります。
数百年来、一塊したる因循の腐臭」というフレーズが強烈ですね。
京都に天皇がいる限り、明治国家は国際社会に船出できないという思いが大久保に強かったことがわかります。
それと同時に、公家を中心に遷都反対が根強かったのも、よく理解できます。
すべて先例に従い、由緒と伝統のみを頼りにして生きてきた集団ですから、何より新規を嫌いますし、しかも首都移転は驚天動地の「新規」でしょうから。

考えてみれば、大久保に先行して大坂遷都を企てた人物はほかにもいますね。

羽柴秀吉です。

秀吉は信長が死んだ翌年の天正11年(1583)から、さっそく大坂築城を始めますが、それは同時に、朝廷の大坂移転を伴う計画でした。
結局、朝廷の反対により、秀吉の構想は頓挫します。

秀吉といい、甲東といい、政権交代と同時に遷都を考えるあたり、行動原理に共通性があるような気もします。
鉄は熱いうちに打て」という機敏さを感じます。

秀吉は失敗しましたが、甲東は形を変えながら、東京遷都を実現しました。

次回は、大久保の大坂遷都のアイデアがどこから、誰から生まれたのかを書く予定です。
あまり知られていないと思います。

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【2009/01/10 13:46】 | さつま人国誌
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ばんない
何年か前にNHKの『その時歴史が動いた』で「幻の大阪遷都」は一度取り上げた記憶があります。その番組では大阪遷都→江戸遷都・東京改名となった主原因の人物をM氏としていました。桐野さんは別の結論があるのでしょうか、来週が楽しみです。

今回のコラムで2,3興味深かった点など。
(1)「北条という前姦(ぜんかん)の跡に足利という後姦(こうかん)」
「前姦」は源頼朝=源とならねばおかしいはずですが、そうしなかったのは、大久保の元主家であった島津家が頼朝末裔を称したため言及を避けたのでしょうか?
(2)「公家のための天皇ではなく、人民のための天皇という絶対君主」という大久保の理想
大久保死後、「真の天皇親政」を目指した一派が排斥され、実質的には「立憲君主制」になっていくのですから皮肉な物です。しかも前者の推進者には国学を信望するいわゆる旧式思考の人が多く(明治天皇はこちらの派に同情的だったようですね)、後者の推進者は伊藤博文ら当時の政府中心者+徳大寺実則をはじめとする旧公家出身者だったのですから…。
(3)羽柴秀吉の「遷都」計画
「関白」という公家の筆頭に立つことで政治を牛耳ろうとした秀吉なら当然の発想だったでしょうし、そのため反対にあって逆に京に聚楽第という新たな本拠を築かなければいけなくなった理由も分かるように思います。
そういえば、秀吉以前に遷都をやらかした人物がいました。平清盛です。結果はやはり数年にして京に戻る羽目になりましたが…。

大坂遷都の発案者
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

(1)は建武の新政を念頭に置いているから、北条だと思います。
 この時期の志士層は大久保を含めて、王政復古の原点を建武の新政に求めているような気がします。
源頼朝を政権簒奪者と規定してしまうと、武家の存在そのものを全否定せざるをえなくなります。そうしたら、武士である志士層も自分たちの行動の正当性も問われることになります。だから、頼朝は俎上に上がらないのだと思います。

建武の新政だと、武士もそれなりの地位や役割を与えられました。あくまで天皇親政の補佐者としてですが。それでも、武家の関与は正当化されます。だから、楠正成や新田義貞などがこの時期もてはやされるようになりました。
そういえば、楠公の湊川神社を建立したのも薩摩でしたね。
楠・新田などは善、北条や足利は悪という二元論でしょう。

もっとも、明治以降は皇国史観が強まり、頼朝自身も否定されるようになっていくようです。明治草創期の思潮とは異なる気がします。

(2)大久保も漸進的に立憲君主制に傾いていったのではないかと思います。

(3)平清盛もいましたね。ただ、大坂ではなく福原だったので、ここではあてはまらないかもしれません。

M氏というのは、郵便の人でしょうか?
もしそうなら、新聞連載でもすでに取り上げたこともありますが、あの人は東京遷都論なので、少し違うかもしれません。大久保の周辺で、先駆的に大坂遷都を唱えた人物がいます。次回はそれをご紹介します。お楽しみに。





太平記
NAO4@吟遊詩人
>北条という前姦(ぜんかん)の跡に足利という後姦(こうかん)が生じ、(建武の)覆轍(ふくてつ)を踏むことは必然である

近代国家を目指す大久保の言としては、今の感覚で考えると笑ってしまうのですが、当時の人の教養としては、太平記紛いの話をするのが分かりやすかったのでしょうね。

太平記
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

幕末の志士たちの歴史観は興味深い問題ですね。
「王政復古」とか「尊王」「勤王」の原点をどこに求めるのか、意外と見すごされがちで重要かもしれません。

前にも書きましたが、神武創業まで戻ると、源頼朝が政権簒奪者になってしまい、武家の役割を否定せざるをえなくなります。
それでは都合が悪いので、武家の役割が認められた「王政復古」といえば、やはり建武の新政なんでしょうね。
もっとも、これは短期間で頓挫してしまいました。それを後醍醐天皇や朝廷にその因を求めるわけにはいかないので、武家、足利尊氏に責めを負わすことになるのでしょう。

大久保が心配している「後姦」とは誰なんでしょうね?


後姦
NAO4@吟遊詩人
>大久保が心配している「後姦」とは誰なんでしょうね?

この件をあまりお聞きしては野暮なのしょうが、島津久光を想定しているということなのでしょうか。
久光が「自分はいつ征夷大将軍になれるのか?」と言ったとかいう話を思い出してしまいました。史料的な裏付けがあるのかないのか突き詰めたことはないのですが、その話と結びつけると、大久保の焦りに真実味を感じてしまいます。

難波遷都、福原遷都
ばんない
こんにちは。2回目も拝読させていただきました。

今回は「難波(=大坂)」遷都という地域限定でのお話のようですが、平清盛も
・政権の中枢を京以外の場所に移す
・その場所は港湾が便利なこと
という点で見ると福原遷都も似たような目的なのかなあ、と漠然と考えてみたりしました。

ちなみに清盛のころの難波は渡邊津が熊野詣での拠点となっていたという話もありますが(URL参照)、交易の拠点としては土砂の堆積が進んでいたこともあって重要度が下がっていたのか、余り史料には出てこないですね。最も、渡邊津が平家の勢力範囲外だったのも遷都先になれなかった理由でしょう。

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この記事へのコメント
何年か前にNHKの『その時歴史が動いた』で「幻の大阪遷都」は一度取り上げた記憶があります。その番組では大阪遷都→江戸遷都・東京改名となった主原因の人物をM氏としていました。桐野さんは別の結論があるのでしょうか、来週が楽しみです。

今回のコラムで2,3興味深かった点など。
(1)「北条という前姦(ぜんかん)の跡に足利という後姦(こうかん)」
「前姦」は源頼朝=源とならねばおかしいはずですが、そうしなかったのは、大久保の元主家であった島津家が頼朝末裔を称したため言及を避けたのでしょうか?
(2)「公家のための天皇ではなく、人民のための天皇という絶対君主」という大久保の理想
大久保死後、「真の天皇親政」を目指した一派が排斥され、実質的には「立憲君主制」になっていくのですから皮肉な物です。しかも前者の推進者には国学を信望するいわゆる旧式思考の人が多く(明治天皇はこちらの派に同情的だったようですね)、後者の推進者は伊藤博文ら当時の政府中心者+徳大寺実則をはじめとする旧公家出身者だったのですから…。
(3)羽柴秀吉の「遷都」計画
「関白」という公家の筆頭に立つことで政治を牛耳ろうとした秀吉なら当然の発想だったでしょうし、そのため反対にあって逆に京に聚楽第という新たな本拠を築かなければいけなくなった理由も分かるように思います。
そういえば、秀吉以前に遷都をやらかした人物がいました。平清盛です。結果はやはり数年にして京に戻る羽目になりましたが…。
2009/01/10(Sat) 22:26 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
大坂遷都の発案者
ばんないさん、こんにちは。

(1)は建武の新政を念頭に置いているから、北条だと思います。
 この時期の志士層は大久保を含めて、王政復古の原点を建武の新政に求めているような気がします。
源頼朝を政権簒奪者と規定してしまうと、武家の存在そのものを全否定せざるをえなくなります。そうしたら、武士である志士層も自分たちの行動の正当性も問われることになります。だから、頼朝は俎上に上がらないのだと思います。

建武の新政だと、武士もそれなりの地位や役割を与えられました。あくまで天皇親政の補佐者としてですが。それでも、武家の関与は正当化されます。だから、楠正成や新田義貞などがこの時期もてはやされるようになりました。
そういえば、楠公の湊川神社を建立したのも薩摩でしたね。
楠・新田などは善、北条や足利は悪という二元論でしょう。

もっとも、明治以降は皇国史観が強まり、頼朝自身も否定されるようになっていくようです。明治草創期の思潮とは異なる気がします。

(2)大久保も漸進的に立憲君主制に傾いていったのではないかと思います。

(3)平清盛もいましたね。ただ、大坂ではなく福原だったので、ここではあてはまらないかもしれません。

M氏というのは、郵便の人でしょうか?
もしそうなら、新聞連載でもすでに取り上げたこともありますが、あの人は東京遷都論なので、少し違うかもしれません。大久保の周辺で、先駆的に大坂遷都を唱えた人物がいます。次回はそれをご紹介します。お楽しみに。



2009/01/11(Sun) 11:41 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
太平記
>北条という前姦(ぜんかん)の跡に足利という後姦(こうかん)が生じ、(建武の)覆轍(ふくてつ)を踏むことは必然である

近代国家を目指す大久保の言としては、今の感覚で考えると笑ってしまうのですが、当時の人の教養としては、太平記紛いの話をするのが分かりやすかったのでしょうね。
2009/01/16(Fri) 05:53 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
太平記
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

幕末の志士たちの歴史観は興味深い問題ですね。
「王政復古」とか「尊王」「勤王」の原点をどこに求めるのか、意外と見すごされがちで重要かもしれません。

前にも書きましたが、神武創業まで戻ると、源頼朝が政権簒奪者になってしまい、武家の役割を否定せざるをえなくなります。
それでは都合が悪いので、武家の役割が認められた「王政復古」といえば、やはり建武の新政なんでしょうね。
もっとも、これは短期間で頓挫してしまいました。それを後醍醐天皇や朝廷にその因を求めるわけにはいかないので、武家、足利尊氏に責めを負わすことになるのでしょう。

大久保が心配している「後姦」とは誰なんでしょうね?
2009/01/16(Fri) 14:36 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
後姦
>大久保が心配している「後姦」とは誰なんでしょうね?

この件をあまりお聞きしては野暮なのしょうが、島津久光を想定しているということなのでしょうか。
久光が「自分はいつ征夷大将軍になれるのか?」と言ったとかいう話を思い出してしまいました。史料的な裏付けがあるのかないのか突き詰めたことはないのですが、その話と結びつけると、大久保の焦りに真実味を感じてしまいます。
2009/01/17(Sat) 07:08 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
難波遷都、福原遷都
こんにちは。2回目も拝読させていただきました。

今回は「難波(=大坂)」遷都という地域限定でのお話のようですが、平清盛も
・政権の中枢を京以外の場所に移す
・その場所は港湾が便利なこと
という点で見ると福原遷都も似たような目的なのかなあ、と漠然と考えてみたりしました。

ちなみに清盛のころの難波は渡邊津が熊野詣での拠点となっていたという話もありますが(URL参照)、交易の拠点としては土砂の堆積が進んでいたこともあって重要度が下がっていたのか、余り史料には出てこないですね。最も、渡邊津が平家の勢力範囲外だったのも遷都先になれなかった理由でしょう。
2009/01/17(Sat) 17:49 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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