歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第92回
―大久保建白書の原案か―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続編です。
伊知地正治の大坂遷都論です。
伊地知の建白書には宛所がありませんが、大久保家に所蔵されていたのと、内容から推察して、おそらく大久保利通に宛てたものだと思います。
大久保の遷都論より2カ月早い点が注目です。
また、趣旨も似かよった部分があるので、大久保が廟堂に提出した建白書の原案になったのではないかと思われます。

もっとも、大久保の建白書のほうが格調高いですね。
とくに「万国対峙」の拠点として遷都の重要性を位置づけているのは、やはり大久保ならではです。

紙数の関係で記事では省きましたが、伊地知の建白書にはほかにも面白い記述があります。
海辺に遷都したほうが何かと便利だと述べたのち、

「昔は三韓征伐の時分は難波に都を遷し給」

伊地知は神功皇后のいわゆる「三韓征伐」伝説まで引き合いに出しています。
このあたりは、王政復古となった維新の気分のようなものを感じさせます。

伊地知が徳川慶喜の大政奉還を評価して、討幕の棚上げを主張したのも、この建白書です。
最近、薩摩藩討幕派の動向を把握するときに、研究者の間でよく使われる史料になりました。
伊地知が大政奉還を肯定的に評価するようになったのは、いわゆる討幕の密勅の見合わせ沙汰書が出たことも一因でしょう。

小松・西郷・大久保は大政奉還直後に鹿児島に帰りましたが、京都には吉井幸輔や伊地知が残っていました。慶喜の大政奉還を受けて、中山忠能・正親町三条実愛などが討幕の棚上げを考えるようになり、それは吉井に伝えられています。

伊地知の慶喜評価は、当時の在京薩摩藩重役の考え方をよく示していると思います。
鹿児島に帰った3人は見合わせ沙汰書のことは知りませんでしたが、再上京してくると、大久保も見合わせ沙汰書に従います。討幕は当面見送られることになりました。

なお、前回書いた大久保の遷都論に、北条という「前姦」の跡に足利という「後姦」が生じるかもしれないという一節があったことを紹介しました。
大久保は誰を「後姦」と想定しているのでしょうか?

じつは、伊地知の建白書にも「一個の尊氏」が擁立される危険があると述べている個所があります。
これはどのような文脈で語られているかといえば、徳川家に厳しい納地を強制して追いつめると、数十万人の家来やその家族が路頭に迷うことになり、そこから「一個の尊氏」が生まれてくるというのです。伊地知が建武の失敗を念頭に置いているのは明らかですね。
「一個の尊氏」は慶喜もしくは徳川家内部の誰かを想定すべきでしょうか。
あるいは、徳川家への苛酷な処分を見て反発を強めるほかの諸侯や諸藩を意味するのでしょうか。

どちらも考えられそうですが、個人的には慶喜を「尊氏」に想定しているようにも見えます。

伊地知のこの考え方を、大久保がそのまま受け容れているのか、あるいは違った形で参考にしたのか、どちらなんでしょうね。課題が残った感じです。

次回は薩摩藩から生まれたもうひとつの遷都論を書きます。
これも意外な人物、意外な趣旨だと思います。お楽しみに。

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【2009/01/17 14:53】 | さつま人国誌
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ばんない
今回の記事も興味深く拝読させていただきました。

政治変革で人心を一新するために難波遷都という前例としては「大化改新」もあったことを思い出しました。でも前回の大久保、今回の伊地知正治も、桐野さんのコラムを読む限りでは、そこまで想定に入れていたかどうかはちょっと苦しいかも知れないとも感じました。

しかし京都めちゃくちゃな言われようですね、確かに盆地ですけど(苦笑)。「人気狭隘」って京都の女に酷い目に遭わされたことがあったのでしょうか(爆)。

ところで本筋から離れますが、南日本新聞掲載の伊地知正治の肖像画ですが、普通に両目があいていますね。伊達政宗みたいに遺訓でも残したのでしょうか。

人気狭隘
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

京都のいわれようは、私も気になっておりました(笑)。
あくまで大久保や伊地知の見解であって、私の意見ではないことをお断りしておきます>ALL

それで、「人気狭隘」の意味ですが、「人気」は「にんき」ではなく「じんき」のほうだと思うのですが、人々の気風、気質とでもいった意味でしょうかね。
とすれば、京都の人々は気風が狭い、狭量で付き合いにくいということでしょうかね。

まあ、よそ者から見たら、京都に限らず、どこでも気に入らないものでしょうし、逆に、薩摩人だって京都の人には相当嫌われていたでしょうしね。「壬生浪」と同様で「芋」と呼ぶ史料もありますね(爆)。

伊地知の目については隻眼説がありますが、よくわかりません。


結構驚きです。
NAO4@吟遊詩人
ドラマでは、伊地知は急進的なイメージに描かれていますよね。
それからすると、大政奉還を評価し、徳川家に寛容な考えを持っていたという事実は驚きの事実だと思います。
そうこう考えると、伊地知はもう少し研究され一般に知られてもよい人物のように思えます。

>「夷人(いじん)との応接は至難のことゆえ、おそらく堂上(とうしょう)方(公家)はこれを武士ばかりに任せては再び朝権を失うのではないかと懸念している。
考えてみると、明治新政府は公家の待遇改善を行っても、政権を握らせなかったのが成功の秘訣だったのでしょうね。

>伊地知の目についての隻眼説
南日本新聞の肖像画を素直に見ると、左右両目の描き方のバランスが崩れているように見えますね。斜め横向きとはいえ、アンバランスのような気がします。これは描き手に何らかの意図があったのでは?(隻眼と言わないまでも、片目の視力が著しく弱かったとか)と想像してしまいます。

討幕派
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

大勢奉還後、伊知地正治に限らず、薩摩藩では討幕は無理という空気になったようです。西郷・大久保とて例外ではありません。

王政復古政変も結果からみれば、討幕の口火といえるかもしれませんが、当時としては、討幕という意識はなく、あくまで大政奉還の成果を守るために会桑勢力の排除が目的だったと思います。

薩摩藩は慶応3年6月頃から討幕の選択肢を考え始めますが、考えることと実行することは別でして、「伝家の宝刀」だったと思います。抜くぞ抜くぞと見せかけて、慶喜から譲歩を引き出しました。

結局、討幕は戊辰戦争という形で遂行されることになったのですが、慶喜=旧幕府勢力の出方次第では、決して必然とはいえないプロセスだったのではないかと思います。
鳥羽伏見の戦いも西郷が挑発したというより、薩長側が売られた喧嘩を買ったといったほうが妥当かも知れません。
討幕については、通説の見直しが必要ではないかと思います。


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コメント
この記事へのコメント
今回の記事も興味深く拝読させていただきました。

政治変革で人心を一新するために難波遷都という前例としては「大化改新」もあったことを思い出しました。でも前回の大久保、今回の伊地知正治も、桐野さんのコラムを読む限りでは、そこまで想定に入れていたかどうかはちょっと苦しいかも知れないとも感じました。

しかし京都めちゃくちゃな言われようですね、確かに盆地ですけど(苦笑)。「人気狭隘」って京都の女に酷い目に遭わされたことがあったのでしょうか(爆)。

ところで本筋から離れますが、南日本新聞掲載の伊地知正治の肖像画ですが、普通に両目があいていますね。伊達政宗みたいに遺訓でも残したのでしょうか。
2009/01/17(Sat) 17:24 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
人気狭隘
ばんないさん、こんばんは。

京都のいわれようは、私も気になっておりました(笑)。
あくまで大久保や伊地知の見解であって、私の意見ではないことをお断りしておきます>ALL

それで、「人気狭隘」の意味ですが、「人気」は「にんき」ではなく「じんき」のほうだと思うのですが、人々の気風、気質とでもいった意味でしょうかね。
とすれば、京都の人々は気風が狭い、狭量で付き合いにくいということでしょうかね。

まあ、よそ者から見たら、京都に限らず、どこでも気に入らないものでしょうし、逆に、薩摩人だって京都の人には相当嫌われていたでしょうしね。「壬生浪」と同様で「芋」と呼ぶ史料もありますね(爆)。

伊地知の目については隻眼説がありますが、よくわかりません。
2009/01/17(Sat) 19:29 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
結構驚きです。
ドラマでは、伊地知は急進的なイメージに描かれていますよね。
それからすると、大政奉還を評価し、徳川家に寛容な考えを持っていたという事実は驚きの事実だと思います。
そうこう考えると、伊地知はもう少し研究され一般に知られてもよい人物のように思えます。

>「夷人(いじん)との応接は至難のことゆえ、おそらく堂上(とうしょう)方(公家)はこれを武士ばかりに任せては再び朝権を失うのではないかと懸念している。
考えてみると、明治新政府は公家の待遇改善を行っても、政権を握らせなかったのが成功の秘訣だったのでしょうね。

>伊地知の目についての隻眼説
南日本新聞の肖像画を素直に見ると、左右両目の描き方のバランスが崩れているように見えますね。斜め横向きとはいえ、アンバランスのような気がします。これは描き手に何らかの意図があったのでは?(隻眼と言わないまでも、片目の視力が著しく弱かったとか)と想像してしまいます。
2009/01/18(Sun) 05:16 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
討幕派
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

大勢奉還後、伊知地正治に限らず、薩摩藩では討幕は無理という空気になったようです。西郷・大久保とて例外ではありません。

王政復古政変も結果からみれば、討幕の口火といえるかもしれませんが、当時としては、討幕という意識はなく、あくまで大政奉還の成果を守るために会桑勢力の排除が目的だったと思います。

薩摩藩は慶応3年6月頃から討幕の選択肢を考え始めますが、考えることと実行することは別でして、「伝家の宝刀」だったと思います。抜くぞ抜くぞと見せかけて、慶喜から譲歩を引き出しました。

結局、討幕は戊辰戦争という形で遂行されることになったのですが、慶喜=旧幕府勢力の出方次第では、決して必然とはいえないプロセスだったのではないかと思います。
鳥羽伏見の戦いも西郷が挑発したというより、薩長側が売られた喧嘩を買ったといったほうが妥当かも知れません。
討幕については、通説の見直しが必要ではないかと思います。
2009/01/18(Sun) 22:57 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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