歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「天地人」第3回「年上の女」

出張のため、帰宅が遅くなり、10時からのBS再放送で見ました。

ドラマ進行時点:天正元年(1573)7月から翌2年3月頃

ドラマがようやく名実ともに永禄13年ではなく、天正元年になりました。

今回、与六とお船の淡い交情はどうでもよいのですが、ポイントは上杉三郎景虎と華姫の祝言と、洛中洛外図屏風でしょうね。

その前に、朋輩たちが「兼続」と呼ぶのはどうも引っかかりますね。通称の「与六」のほうが自然ですし、ドラマの中でもなじんでいるはずです。
また、ドラマ進行時点では兼続は15歳で、いつ元服したのかわかりませんから、なおさら、「兼続」名乗りはリスクがありますね。

さて、景虎と華姫の祝言は、前回書いたように、すでに3年前の元亀元年に執り行われています。ですから、この時期ではありません。

そして、気になったのが、景虎が華姫に自分の悩みを打ち明けたシーンで、「養子として武田、上杉とたらい回しにされた」というセリフ。

景虎が武田信玄の養子になったという説はとっくに否定されていますから、ちょっといただけませんね。時代考証の小和田先生がご存知ないはずがないと思うのですが、シナリオのチェック洩れでしょうか?

『関八州古戦録』に書かれていた北条氏秀と上杉景虎の同一人説は長塚孝氏により否定され、さらに黒田基樹氏が景虎は北条氏康の八男で、一時、北条幻庵(北条早雲の末子)の養子となったのち、越相同盟の成立に伴い、謙信の養子になったことを明らかにしています。


洛中洛外図屏風について、かなり時間を割いて取り上げていましたね。
狩野永徳かと思わせる絵師も登場し、信長の命で屏風に加筆させられていましたが、永徳というテロップが出ませんでした。これって、もしかして永徳ではなく、別の絵師を想定しているのでしょうか?

洛中洛外図屏風は、永徳が将軍義輝の注文に応じて制作し、義輝が暗殺された永禄8年(1565)に完成したというのが通説になっています(瀬田勝哉、黒田日出男氏など)。
注文主が亡くなってしまい、宙に浮いた形になった屏風を信長が手に入れたとされていますから、信長と永徳はまだそれほど知り合いではなかったという設定にしたのかなとも思います。

もっとも、岐阜城御殿を見たルイス・フロイスの訪問記によれば、御殿内部には明らかに狩野派のものと思われる障屏画や障壁画が描かれており、信長と狩野派の接点があったのではないかと思います。

あと、信長が花の御所の門前を通る身分の高い武家の輿を謙信に見立てて描かせるという謎かけがあり、謙信側もそれを見抜くというシーンがありました。

果たしてどうなんでしょうね?
たしかに、屏風には赤毛氈鞍覆を掛けた馬と塗輿の一行が描かれています。毛氈鞍覆と塗輿は白傘袋とともに、守護の格式を示すものです。謙信も将軍義輝から、この格式を許されています。

でも、これを謙信だとするのは難があるのでは?
守護はたくさんいますから、謙信に特定できるはずがありません。屏風を見せられた謙信が、果たして自分だと思うでしょうか?
だいたい、屏風が描かれた当時、将軍義昭の二条第は存在せず、これは足利将軍代々の御所だった花の御所です。
また、ドラマでも兼続が指摘していたように、義昭は前年にすでに追放されて、二条第は取り壊されています。京都の支配者は信長です。しかし、信長を将軍に擬すことや、花の御所をその居館と比喩するのは無理がありますね。

最後に、長澤まさみが出てきました。
彼女が時代劇に出ると、どうもいただけません。とたんに学芸会みたいになります。
以前も、「功名が辻」にくの一役で出ていましたが、また似たような設定ですね。
本人も納得して出演しているのでしょうか?

「これはしたり」

という兼続のセリフ、今回も1回ありました。
前回は3回くらいあったような。

以前の大河「利家とまつ」で、まつの決めゼリフを思い出します。
また3匹目のドジョウを狙うのでしょうか?(2匹目は「功名が辻」)
ちょっと安直な気がしますが……。
兼続については、今後もこのままコミカル路線で行くのでしょうか?

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【2009/01/26 00:29】 | 天地人
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洛中洛外図屏風
NAO4@吟遊詩人
こんにちは。

米沢の上杉博物館の解説も、輿に乗った人物は、上杉謙信だと解説していたと記憶しています。
根拠等については、忘れてしまいましたが。

信長の台詞上でも
木暮兼人
「絵師をこれへ」という言い方だったと記憶しています

あれ、永徳じゃないんだ
と思った覚えがありますので

・・・本当に信長しか見ていないというか(笑)

長澤さん、多少ダイエットはされたようにお見受けしますが・・・
どうしてああも台詞が「うわすべり」されるのか
不思議なところではあります。

輿に乗った貴人
御座候
>でも、これを謙信だとするのは難があるのでは?



先行研究でも上杉謙信とみなされているように思います。
その根拠としては、貴人の行列の描き方が「上杉の七免許」に該当する、ということのようです。
ただし、当然のことながら、
後から織田信長が描き入れたのではなく、
元から描かれているという考え方ですが。


黒田日出男氏は、将軍足利義輝が上杉政虎の関東管領就任の祝儀として注文した屏風であり、御所へ向かう貴人の行列を描かせることで、政虎に上洛を促したと解釈しています。

洛中洛外図
板倉丈浩
こんにちは。
景虎が当初武田家の養子だったというのは上杉家の正史「上杉家御年譜」にもある記述ですので、今でも完全否定はされていないと思います。
(最近出た『上越市史』でも「確証がない」みたいな言い方でした)

洛中洛外図の研究史についてはこんな感じです↓
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fujiwara/rakutyugaisetsu.html

上杉本の洛中洛外図に謙信が描かれているという説は、NHK「その時歴史は動いた」でも紹介されていたように記憶しています。

洛中洛外図屏風
桐野作人
板倉丈浩さん、こんばんは。

景虎が武田氏の養子になったという一件。たしかに『上杉御年譜』元亀元年四月中旬条に記事がありますね。

「三郎景虎始 今川氏真の媒妁として 信玄の嫡子太郎義信の養弟となれり 武田三郎と号す 永禄十年義信父の命に背き殺害せられけれは 三郎甲府を退きぬ」

かなり具体的に書かれております。でも、養子入りの時期が永禄十年以前であることはわかりますが、いつだか書かれていませんね。
もしこれが史実だとすれば、景虎の年齢から、永禄年間後半でしょうね。北条氏康が一子を信玄に人質として送る理由は、謙信のたび重なる関東出兵に対抗するのに信玄の支援を仰ぐためでしょうかね。
一般的な理由としては納得できないこともないですが、もしそうなら、両家に何らかの一次史料が残ってもいいのじゃないかと気がします。

関八州古戦録はともかく、上杉御年譜に記事があるのに、確証がないという評価は、やはり怪しいんでしょうな。

洛中洛外図屏風に謙信が描かれているかどうかですが、屏風の意味づけに関わっているような。
単なる儀礼的な贈呈品に過ぎないなら、深読みする必要はないと思います。
将軍義輝の何らかの政治的意図が込められていると解するなら、謙信の歓心を買う必要があったということでしょうか。

ところで、永禄二年以降、義輝が謙信の三度目の上洛を切実に望んでいるような史料はありましたっけ? 不勉強でよく知らないのですが。


義輝と謙信
板倉丈浩
こんばんは。
私も黒田日出男氏は深読みのしすぎではないかと思っているのですが(^^;

上杉家御年譜に限らず、戦国時代を論じるにあたって編纂物の扱いは難しいですね。
例えば「上杉"輝虎"は将軍義輝からの偏諱」とか「謙信は幕府から正式に関東管領に補任された」とか、みんな当然そうだろうと思っている事項すら一次史料の裏付けは取れないわけでして、編纂物の記述と状況証拠から推測する部分が多くなってしまうのは、ある程度やむを得ないかなーと感じています。

>永禄二年以降、義輝が謙信の三度目の上洛を切実に望んでいるような史料はありましたっけ? 

直接上洛を要望するような史料はなかったと思います。
先行研究を見た限りでは、近衛前久の越後下向が重視されているようです。

参考文献:近衛通隆「近衛前久の関東下向」(日本歴史391,1980)

瀬田勝哉氏や黒田日出男氏の洛中洛外図論もこれを受けて、義輝・前久・謙信3者の強い絆の存在を前提に、注文主を義輝ではないかと推定しています。

室町殿
御座候
確かに高橋康夫さんの指摘は重要だと思います。
義輝の居所は「今出川御所」であり、「花の御所」ではなく、そもそも16世紀においては花の御所=室町殿が将軍御所として利用されたことがない、という。

しかし、それなら過去の単純な投影かというと、必ずしもそうではなく、上杉本に描かれた「室町殿」の構造は、室町期の将軍御所の建築様式ではない、というのですから、もう訳が分からなくなってきます。絵画史料の読み解きは難しいですね。

義輝と謙信
桐野作人
板倉丈浩さん、御坐候さん

ご教示有難うございます。

義輝が謙信に送ったから、将軍御所に祗候する謙信の行列が書かれていなければならないとするのは、どうも論理の飛躍があるんじゃないかという気がするのですが。
こういう素朴な疑問は先行研究無視の問題外なんでしょうかね?


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洛中洛外図屏風
こんにちは。

米沢の上杉博物館の解説も、輿に乗った人物は、上杉謙信だと解説していたと記憶しています。
根拠等については、忘れてしまいましたが。
2009/01/26(Mon) 06:45 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
信長の台詞上でも
「絵師をこれへ」という言い方だったと記憶しています

あれ、永徳じゃないんだ
と思った覚えがありますので

・・・本当に信長しか見ていないというか(笑)

長澤さん、多少ダイエットはされたようにお見受けしますが・・・
どうしてああも台詞が「うわすべり」されるのか
不思議なところではあります。
2009/01/26(Mon) 20:25 | URL  | 木暮兼人 #-[ 編集]
輿に乗った貴人
>でも、これを謙信だとするのは難があるのでは?



先行研究でも上杉謙信とみなされているように思います。
その根拠としては、貴人の行列の描き方が「上杉の七免許」に該当する、ということのようです。
ただし、当然のことながら、
後から織田信長が描き入れたのではなく、
元から描かれているという考え方ですが。


黒田日出男氏は、将軍足利義輝が上杉政虎の関東管領就任の祝儀として注文した屏風であり、御所へ向かう貴人の行列を描かせることで、政虎に上洛を促したと解釈しています。
2009/01/26(Mon) 21:04 | URL  | 御座候 #-[ 編集]
洛中洛外図
こんにちは。
景虎が当初武田家の養子だったというのは上杉家の正史「上杉家御年譜」にもある記述ですので、今でも完全否定はされていないと思います。
(最近出た『上越市史』でも「確証がない」みたいな言い方でした)

洛中洛外図の研究史についてはこんな感じです↓
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fujiwara/rakutyugaisetsu.html

上杉本の洛中洛外図に謙信が描かれているという説は、NHK「その時歴史は動いた」でも紹介されていたように記憶しています。
2009/01/27(Tue) 07:12 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
洛中洛外図屏風
板倉丈浩さん、こんばんは。

景虎が武田氏の養子になったという一件。たしかに『上杉御年譜』元亀元年四月中旬条に記事がありますね。

「三郎景虎始 今川氏真の媒妁として 信玄の嫡子太郎義信の養弟となれり 武田三郎と号す 永禄十年義信父の命に背き殺害せられけれは 三郎甲府を退きぬ」

かなり具体的に書かれております。でも、養子入りの時期が永禄十年以前であることはわかりますが、いつだか書かれていませんね。
もしこれが史実だとすれば、景虎の年齢から、永禄年間後半でしょうね。北条氏康が一子を信玄に人質として送る理由は、謙信のたび重なる関東出兵に対抗するのに信玄の支援を仰ぐためでしょうかね。
一般的な理由としては納得できないこともないですが、もしそうなら、両家に何らかの一次史料が残ってもいいのじゃないかと気がします。

関八州古戦録はともかく、上杉御年譜に記事があるのに、確証がないという評価は、やはり怪しいんでしょうな。

洛中洛外図屏風に謙信が描かれているかどうかですが、屏風の意味づけに関わっているような。
単なる儀礼的な贈呈品に過ぎないなら、深読みする必要はないと思います。
将軍義輝の何らかの政治的意図が込められていると解するなら、謙信の歓心を買う必要があったということでしょうか。

ところで、永禄二年以降、義輝が謙信の三度目の上洛を切実に望んでいるような史料はありましたっけ? 不勉強でよく知らないのですが。
2009/01/29(Thu) 00:09 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
義輝と謙信
こんばんは。
私も黒田日出男氏は深読みのしすぎではないかと思っているのですが(^^;

上杉家御年譜に限らず、戦国時代を論じるにあたって編纂物の扱いは難しいですね。
例えば「上杉"輝虎"は将軍義輝からの偏諱」とか「謙信は幕府から正式に関東管領に補任された」とか、みんな当然そうだろうと思っている事項すら一次史料の裏付けは取れないわけでして、編纂物の記述と状況証拠から推測する部分が多くなってしまうのは、ある程度やむを得ないかなーと感じています。

>永禄二年以降、義輝が謙信の三度目の上洛を切実に望んでいるような史料はありましたっけ? 

直接上洛を要望するような史料はなかったと思います。
先行研究を見た限りでは、近衛前久の越後下向が重視されているようです。

参考文献:近衛通隆「近衛前久の関東下向」(日本歴史391,1980)

瀬田勝哉氏や黒田日出男氏の洛中洛外図論もこれを受けて、義輝・前久・謙信3者の強い絆の存在を前提に、注文主を義輝ではないかと推定しています。
2009/01/29(Thu) 23:10 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
室町殿
確かに高橋康夫さんの指摘は重要だと思います。
義輝の居所は「今出川御所」であり、「花の御所」ではなく、そもそも16世紀においては花の御所=室町殿が将軍御所として利用されたことがない、という。

しかし、それなら過去の単純な投影かというと、必ずしもそうではなく、上杉本に描かれた「室町殿」の構造は、室町期の将軍御所の建築様式ではない、というのですから、もう訳が分からなくなってきます。絵画史料の読み解きは難しいですね。
2009/01/30(Fri) 00:21 | URL  | 御座候 #-[ 編集]
義輝と謙信
板倉丈浩さん、御坐候さん

ご教示有難うございます。

義輝が謙信に送ったから、将軍御所に祗候する謙信の行列が書かれていなければならないとするのは、どうも論理の飛躍があるんじゃないかという気がするのですが。
こういう素朴な疑問は先行研究無視の問題外なんでしょうかね?
2009/02/04(Wed) 00:15 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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